尾頭付きの人生

【発表メディア】出雲大社大阪分祠機関誌「ひふみ」1995年3月号
 最初にクイズを一つ。

 「あるとき、見ず知らずの人から電話がかかってきて明日の相

撲の取り組みの結果を予言された。例えば『明日の若の花と曙の

一戦は曙が勝つ』と。また翌日も、その次の日の取り組みの予言

電話がかかってきて……このようにして15日間予言された内容が

すべてぴったり的中していた。この人は未来予知力のある超能力

者なのだろうか。そうでないとした場合、どうしたらこんなこと

ができるのか」

 ここで少しの間、答えを考えてみてほしい。すぐには答えが見

付からないはずだ。中には「やはり超能力がない限り無理」と断

定?した人がいるかもしれない。

 実は確実な方法がある。ただし「予言を受ける側の視点」、つ

まり「自分中心の視点(我)」に固執している限りそれは見えて

こない。その視点からは「15もの予言を連続して言い当てられた

不思議な事実」しか見えないからだ。

 かといって「予言をする側」=相手(彼)の立場に立ったとこ

ろで同じ。どうしても「ある人に対して連続予言を的中させる方

法はないか」と考えてしまうからである。

 ところが、「我」「彼」を超えて、それらすべてを包み込んで

いる「全体」を眺めてみるとどうなるか。我と彼のほかに「他の

人々」の存在があったことに気付く。ここで初めて事態の「本質」

が見えてくる。

 要するに「『予言する側』が超能力者に見えているのは連続予

言を的中させられた人であり、万人に対してだとは言っていない」

こと。そして問われているのは「連続予言を的中させる方法」そ

のものではなく、「連続予言を言い当てられた人を万人の中から

創り出す方法」である、と。つまり、何百人に対して予言成就を

失敗したところで、一人に成功させればよいのである。

 もうお分かりだろう。最初にたくさんの人をリストアップ、二

つのグループに分けてそれぞれに相反した予言電話をかける。翌

日は予言が的中した人(初日の半数)にだけ、再び相反した二つ

の予言電話をかける。これを繰り返す。要するに予言の当たった

人だけを順に絞り込んでいくのである。最後に残った人にとって

は「15もの予言を連続して当てたすごい人」に見えるが、実は一

方に「予言を当てるのに失敗したと見ている人」が数多くいるわ

けだ。

 「なあんだ」と思われたかもしれない。気が付けば簡単なこと

だ。しかし、その簡単なことが簡単に思い浮かばない点に問題が

ある。なぜ思い浮かばなかったか。それは私たちの心に「全体」

というものに思いが及びにくい癖があるからである。私たちは人

や出来事を客観的に見ているつもりでいるが、実は「今の自分」

を中心とした極めて狭い範囲でしか見ていない。せいぜいが「彼」

まで。他の人たちの存在といった「全体」にまで気が回ることは

少ない。

 この「心の癖」はクイズに答えるときにだけ起きるのではない。

人生で起こるさまざまな事態に対しても同じである。これが苦の

元になりやすい。

 例えば、事業。ちょっと下り坂になると、うろたえて「苦」

「不幸な出来事」と捉えてしまう。先ほどのクイズの例で言えば

「やはり超能力がない限り無理」と断定した立場と同じで、「こ

れは不幸以外のなにものでもない」と無意識で断定するのである。

現在の出来事を人生「全体」から見る余裕がないからである。

 しかし、長い目、つまり人生「全体」からじっくり見直してみ

れば、一見「不調」と見えることが不幸でも何でもないことが見

えてくる。

 例えば、木々は冬の冷気にさらされてこそ、春の暖気によって

開花できるし、私たちがジャンプをする前には一度しゃがみ込む

姿勢が必要だ。息を吸い込むためには、一度吐かなければならな

い。同じように、私たちが人生を通じて成長していく上でも「冷

気」「しゃがみ込み」「呼気」に相当するものは不可欠である。

一見「不調」に見える出来事には、それを契機に学んだり、気を

引き締めたりして、成長を促進する聖なる働きがある。

 私たちの体が交感神経、副交感神経の相反する二つの神経系で

制御されて初めて完全な働きを発揮するように、人生も「好調」

という名の“交感神経”と、「不調」という名の“副交感神経”

の二つによって成長していくのだといえよう。

 そう考えていくと、人生には無駄なもの、不必要なモノは一つ

としてなく、どんな出来事もやさしく受け入れてあげようという

気になってくる。

 せっかくの人生、ぶつ切りの「切り身」ではなく、尾頭付きで

「丸ごと」味わってこそ、本当の味が分かるのではないだろうか。


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