授けられるものから、訪れてくるものへ。

【発表メディア】出雲大社大阪分祠機関誌「ひふみ」1996年3月号
 友人が小林崇という人が書いた「生まれる」と題したエッセイ

のコピーを送ってくれた。

 普通、人は自分の人生を、飲む、拝む……など、「〜をする」

という能動態で語る。そして、この「〜む」を「〜まれる」に変

えると、飲まれる、拝まれる……と受け身の表現になる。そこに

は「する」と「される」の明確な区別がある。

 ところが、一つだけちょっと意味合いの異なる単語があると、

小林さんは指摘する。「生まれる」である。

 「(前略)『生む』『生まれる』はちいと違いまんね 気い付

かんかったでしょ 『生まれる』は受け身でっせ 『生まれる』

は『生む』からでけた受け身の動詞やねん(後略)」

 なるほど、と思った。生命誕生の聖なる出来事を「子供を生ん

だ」と表現するのは一般的ではない。大抵「子供が生まれた」と

言う。子供の誕生を知った父親が「生んだ、生んだ!」と言って

喜んでいる姿を見たことがあるだろうか。「生まれた、生まれた!」

と叫ぶのが普通だ。履歴書などにも「昭和二十五年、京都市生ま

れ」と書く。

 これが、本を読破した喜びなら、「読んだ!」と言うのが普通

であって「(本が私に)読まれた!」とは言わない。「生まれる」

は極めて特異で象徴的な言葉なのである。あえて能動態で表すと

きは「生む」ではなく「産む」と書く。

 確かに、私たちは「生まれた」のであって「出てきた」のでは

ない。私たちの人生は受け身から始まったのである。いや、人生

の起点だけではない。その後を見ても、ここまで命をはぐくんで

くれた“器”である地球や故郷の山野も自分で作ったものではな

い。空気も水もみんなそうだ。地球と太陽の距離がほんの少しず

れるだけで、地球上の生命は死に絶えるという。何よりも、心臓

一つ自分で動かしていない。もし、心臓がストライキを起こせば

それで終わりである。

 考えてみれば、自分が今ここに生きていることは、無限の“授

けられたもの”の結晶であり、奇跡のようなものだろう。まさに

生きている(能動)というよりも、生かされている(受動)ので

ある。

 ところが、日々の暮らしに目を向けるとどうか。私たちはすべ

てをあまりにも「〜する」という能動態で見詰め、語り過ぎてい

ないだろうか。

 働く、もうける、買う、食べる、長生きする……。そして、自

分で何とかしていると思うから、一連の営みの中に「ああなった

らどうしよう、こうなったらどうしよう……」と常に恐怖を抱き

続けている。

 その究極が「死ぬ」という言葉だ。人生の幕開けは受け身の

「生まれる」で語られたのに、なぜか人生の幕引きの「死ぬ」は

能動態の言葉で語られる。そして人はそこに「恐怖」を思う。

 しかし、秋に散る落ち葉が自分が果てることを恐怖としている

だろうか。生まれて死に、死んで生まれてくる生命の大きな流れ

の中の、極めて自然な出来事として淡々と散っているのではない

か。

 人間でも、受け身で語られる誕生に対しては苦を思わない。も

しかしたら生まれる前の世界からこちらの世界への移行という一

種の死≠ェあったかもしれないのに。

 誕生は「授けられたもの」で、能動態を成立させている「おれ

が」「私が」の我がなかったからかもしれない。さらに言えば、

「授ける側」と「授けられる側」の区別すらない「訪れてくる世

界」だったからかもしれない。

 同様に死も、春が来て夏が来る、寝て起きて、また寝て起きる…

…それと同じように淡々と「訪れてくるもの」と見なせば、もっ

と別の見方ができるのではないだろうか。


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