親離れ、子離れ、自分離れ

【発表メディア】出雲大社大阪分祠機関誌「ひふみ」1997年11月号初出 / 「ルネサンス」VOL.4(1998年10月)改稿採録


 高いお金を払って入った映画館で見た映画が、もし次のようなもの

だったらどうだろうか。

 主人公が朝起きてご飯を食べて出勤する。毎日同じような仕事をこ

なし、帰宅後は一家団らんの夕食。食後はテレビを楽しみ、ふろに入っ

て寝る……延々とこの繰り返しで、何の事件もドラマも起きない。気

がつけばエンディング……。

 「何とつまらない映画だ。木戸銭返せ!」と叫んでいるに違いない。

 ところが、危機を乗り越えながらの波乱万丈のストーリーなら、手に

汗握り、笑い、涙し、感動してこう言うだろう。「見ごたえのある素晴ら

しい映画だった」と。

 講演会で人の話を聞いたときも同じ。逆境を乗り越え激動の人生を

生き抜いた人の話は聞く人の胸を打つ。思わず「素晴らしい人生を過

ごされましたね」と声をかけたくなる。可もなく不可もなしといった人生

の話だと居眠りをしてしまう。

 しかし、同じような危機や逆境が自分の身の上に起きたとしたらどう

か。感動したり素晴らしい人生だと感慨を持つどころか、「なぜ私だけ

がこんな目に遭わなければならないの」と運命を恨み、平穏な日々を

切に請い願うはずだ。

 願いかなって平穏な日々が実現したらしたで、今度はまた新たな不

満を感じ始める。「家族は健康だし暮らしに不自由することもない。で

も、何か空しい。毎日同じことの繰り返しだけで私の人生は終わって

しまうのかしら……」などと。わが身を振り返りながら、人間って勝手な

ものだとつくづく思う。

 同じ出来事、同じストーリーなのに感じ方は正反対。それを分けてい

るのは何か。突き詰めて考えていくと、その出来事が「他人に起きる」

か「自分に起きる」かの一点に尽きていることが分かる。

 映画や講演の世界は「他人事」。ハラハラドキドキや涙々の場面を含

むすべてのシーンを「楽しんでいる」自分に気付く。

 一方、「自分事」の場合はすべての出来事を「不安」へ引き寄せて考

えがちなのが特徴だ。「この逆境は乗り越えられないのではないか」

「立ち向かっても失敗するのではないか」。幸せの絶頂にいるときでさえ

「この幸せは長く続かないのではないか」と不安に翻訳して受け取る。

こと自分のこととなると、度し難いほど頭の中の「不安回路」が動き出

すようだ。

 どうすればいいんだろうか。親しい友人の悩みの相談に乗っていると

き、ふと気付いたことがある。

 友人の悩みに対しては「相手もやむを得ない事情でそうしたんだ。許し

てあげなさいよ」などと的確な指摘ができるものだ。そのとき友人は言っ

た。「あんた、他人事やからそう言えるんや」

 あ、そうか、と思った。

 「自分の身に起こる出来事を“他人事”にできれば勝ちなんや」

 「他人事」という言葉には悪いイメージがある。「他人事みたいに言うな!」

というように悪い意味で使われるのが普通だ。でも、そんな先入観を

取り去って考えてみてほしい。宗教書で言う「無私」や「自己の客観視」

に通じるものがある。

 もし、自分の人生を他人事のように淡々と見られれば、人生は一種の

映画に変身する。主人公は自分自身。波乱万丈な日々がエンターテイ

ンメントとなる。順境を楽しみ、逆境を味わい、危機を“遊ぶ”……実人

生の激流を映画のように「楽しめる」。そこでは自らの人生をギャグにさ

えできる。まさに「遊戯三昧(ゆげざんまい)」だ。

 ひょっとして私たちは「人生」という名の「舞台」を務めている俳優なの

かもしれない。とすると、「よし、今回は大富豪の役を楽しんでやれ」と

か、「次は貧しい中で本当の美を愛する芸術家を演じ切ってみよう」な

どという視点が成立する。そこでは演技にベストを尽くせたかどうかが

手ごたえになる。金持ちの役か、貧乏人の役か……など、「役」に左右

されるわけではない。

 こう考えを進めていくと、普段毛嫌いしていた若者のある「物の言い方」

に思いが至った。「私って野菜が嫌いな人だから……」と、自分のことを

他人のように表現する言い方だ。

 これも自分への執着から自由になる第一歩と考えれば、それほど悪い

もんじゃない。「近ごろの若者はおかしなモノの言い方をする」とオヤジし

ていたことを反省した。

 私たちはこの世に生を受けてまず「親離れ」する。親業を果たした後は

「子離れ」、そして最終的に待ち受けているのが「自分離れ」だろう。この

三つの“離れ”こそ人生の極意かもしれない。

 


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