サルの法則

【発表メディア】出雲大社大阪分祠機関誌「ひふみ」1993年9月号
 かつて知り合いの僧侶の方にこんなお話を聞いたことがある。

 お釈迦様のお弟子さんたちが毎日瞑想の修行に励んでいたとき

のこと。

 ある朝、お釈迦様が「いつも瞑想のときは何も考えないように

と言っているけれど、今日は何を考えてもよい。どんな悪いこと

や淫(みだ)らなことを想像してもよい。ただし、“猿”のこと

だけは考えないように」と言ってその場を離れられた。

 夕暮れになってお釈迦様が戻ってみると、何とそこには瞑想し

ている猿の群がいたという。お弟子さん全員が猿に変身してしまっ

ていたのである。

 つまり、こういうことだ。一日中「猿のことを考えてはいけな

い、絶対猿のことだけは考えないぞ!」と思いながら瞑想してい

たため、結局は猿のことばかりを考えてしまい、ついには猿に変

身してしまったというのだ。

 この逸話は人間の心の性質をうまく表している。人間の心とは

制御が大変難しいものであり、さらに現象を創り出す力も持って

いるという二つの点だ。私はこのような心の性質を勝手に「サル

の法則」と名付けた。

 考えてみると、私たちの人生には数多くのサルがいる。例えば

「病」という名のサルである。

 先日、取材の縁でガンの「生きがい療法」の例会に参加する機

会を得た。生きがい療法とは、倉敷の伊丹医師らがガン患者たち

と行っている「人生に生きがいを持って取り組むことによってガ

ンを治す試み」。ガン患者だけでモンブランに登頂してマスコミ

に取り上げられたこともあり、ご存じの方も多いだろう。

 この会は「森田療法」をベースにしている。森田療法とは「病

に対峙してそれを克服しようするのではなく、まず病にかかって

いる自分をそのまま受け入れ、病の克服よりも人生をいかに有意

義に生きていくかに心の重心を置き換える療法」だ。

 病を克服しようとすればするほど、人は病のことを考えること

になる。頭の中は病のことだらけ。その結果さらに病を“拡大再

生産”し、人生は病を考えることだけに費やされて終わる。

 ところが「病であろうとなかろうと、生きていることに変わり

はない。その生を自分はどう生きるのか」に専念すると、病への

念の集中は消えていき、一方で「こう生きたい!」と思う人生を

実現していく。まさにサルの法則の応用である。

 また、真面目な人の場合は一見謙虚に見える「罪の意識」もサ

ルになりやすい。

 「自分にはこんな悪い面がある。これでは神仏に救っていただ

けない。だから直さなければ!」

 しかし、おぼれる子供を前にした親が「お前はいい子だったか」

などと確認してから助けるだろうか。いい子であろうと不良であ

ろうと、無条件でその子を丸ごと救い上げるに違いない。人間の

「親」でさえこうである。いわんや神仏をや。

 ただただ、おぼれる“子供”の方がサルの法則にひっかかって

「私は救われるに値しない」と思い込み、せっかく“親”が投げ

てくれた“浮き輪”を拒否してつかまない(つかめない)だけな

のではないだろうか。

 悪い面、いい面の両方を持っているのが現実の自分である。ま

ず、それを受け入れて、「いい悪い云々の呪縛」から自由になる。

そして、そんな自分がこれからどう生きるのが有意義かに心をシ

フトさせる。その結果、悪い面は「直す」のではなく「直ってい

く」のではないだろうか。ちょうど「生きている」のではなく

「生かされている」のと同じように。

 何だか自己弁護のようになってしまったが、そんな気がする。


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