自身も盲目だった京都府立盲学校の初代校長の言葉である。
この言葉は極めて奥が深い。例えば「盲目」を「貧乏」に入れ
替えても成り立つ。
「貧乏は不便だけれど不幸ではない」
貨幣経済下で生きている以上、貧乏は確かに不便だ。しかし、
だからといってそれが即「不幸」を意味するものではない。金持
ちで不幸な人がいることを思えば明らかだろう。
現象界の出来事そのものは幸でも不幸でもない。淡々と起こる
だけ。それを受け取る人の心が価値付けしているにすぎない。
しかし、現実の私たちは金の有無や事業の成功失敗などを直接
幸不幸に結び付けがちだ。なぜか。どうやらものの見方(心の視
線)の“癖”に原因があるように思える。
これを説明するのに新聞・雑誌のクイズ欄でおなじみのランダ
ムドット・ステレオグラムの例えが役立つ。一見でたらめな点の
集まりにしか見えない絵柄だが、平行法など特殊な視線で目を凝
らすと、あ〜ら不思議、最初の絵からは想像もつかない立体像が
浮かび上がってくる。慣れないとなかなかうまく見えないが、一
度マスターすると驚くほど鮮明な立体像を簡単に楽しめるように
なる。
平行法で立体像を見るコツは絵柄そのものに目の焦点を合わさ
ないこと。一般にモノを見るとき、私たちの両眼の視線はそれぞ
れ内側に傾いて対象物の上で焦点を合わせる。しかし平行法の場
合、両眼の視線はあくまでも平行。紙の向こうの無限の彼方を見
る目つきである。
ステレオグラムのマジックは私たちに三つのことを教えてくれ
ている。(1)既に十分見ていると思い込んでいるものでも、その
奥に別のものがあるかもしれない(2)それはちょっと見方を変えれ
ば簡単に見えてくるにもかかわらず、視線を変えることに気が付
かない限り永遠に見えない(3)表面に見える絵柄を凝視すればする
ほど奥に潜んだものは見えにくくなる……の3点だ。
実はこの法則、人生の出来事を見るときにも当てはまる。そう
思ったきっかけはある僧侶のお話だった。「理屈や現象にとらわ
れやすい都会人や知識人は刺すような視線で人やモノを見る癖が
あるが、瞑想者は永遠の向こうを見るかのような視線をしている
のが普通だ」
「あれ、これってステレオグラムの平行法の視線じゃないか!」
と思った私は、現象界の出来事をステレオグラムで考え直してみ
ることにした。
先ほどの貧乏の例で考えてみよう。貧乏という現象界の出来事
が“点で描かれた絵柄”に相当する。これを強く見詰めれば見詰
めるほど、貧乏という“悲惨な絵柄”以外何も見えなくなり、
「貧乏=不幸」としか思えなくなる。しかし実際はそうではない。
その奥にもっと別のものがある。それは大病など究極の逆境を体
験した人が「金があろうとなかろうと、こうして生かされている
だけで素晴らしく、ありがたく、幸せなことだ」と口をそろえて
言うのを見ても分かる。ただそれが見えないだけだ。
現象界の出来事は一種のステレオグラムかもしれない。金の有
無などさまざまな絵柄があるが、実はその奥に“生かされている
幸せ”“現象面で何が起きようとも既に救われている自分”とい
う共通の立体像が隠されている。そしてそれを見るコツは現象界
の出来事を見詰め過ぎない(執着し過ぎない)ことだと。
執着しないといっても、立体像を得るために元の絵柄(現象界
の出来事)を否定はしていない。それどころか元の絵柄がないと
立体像も生まれてこない。つまり、日々の世俗的ななりわいの中
から「究極の幸せ」の立体像を見い出すのであり、世を捨て山に
住んでいてはかえって見えてこない。
ただ、今巷(ちまた)でブームの「成功を強く信じれば実現す
る」という「プラス現象を見詰める信念の力」とは違う。信じた
ことが実現しやすいのは事実だが、現象面への執着を強め、「成
功=幸せ、失敗=不幸」などの先入観を無意識に植え付ける。
究極的には「あってよし、なくてよし。もはや現象界の結果に
左右されず、常にその奥にあるものにつながった融通無碍(ゆう
ずうむげ)の境涯で日々のなりわいに全力投球する……」。これ
が本来の意味での「大いなる楽観主義」だろう。
あらゆる現象世界の絵柄の奥から「幸せ」という立体像を見い
出せる心の視線の在り方。これを心のステレオグラムと名付けて
みたい。うまくいってもいかなくても、ほんわかとした目で人生
を受け入れられたら、と思う。