鳥井信治郎  やってみなはれ

【発表メディア】 朝日新聞 1999年5月17日朝刊


 サントリーの二代目社長・佐治敬三氏がビール製造進出を決意する際、

創始者であり父である鳥井信治郎氏に相談したら、この言葉が返ってきた

という。それは決して行動あるのみといった猪突猛進の勧めでもなければ、

深く考えずに返事したのでもない。事前に十分考えて、予想されるすべて

事態を覚悟したと見抜いた上での言葉だろう。後は思い切って踏み切るし

かない。とことんまでやってだめなら、それはそれで仕方がない。また違う

やり方でやればいい。そんなニュアンスがある。

 私たちが就職・転職を決断する際も同じだろう。考えているばかりではこ

とは進まない。行動すれば新たな局面が開けるし、それがまた新たな突

破口を示してくれる。事態を打開するには行動を積み重ねるしかない。そ

れが分かっていながら、行動に踏み切るのをためらうのは、失敗への「恐

怖」からだ。

 そこで注目したいのが、鳥井信治郎氏の言葉が「やってみなはれ」であっ

て「やりなはれ」でなかった点である。「やりなはれ」なら社運をかけた決断!

という重みが残っている。「やりますけれど、失敗したらどうしますねん」と

いう感覚だ。しかし、「やってみなはれ」となると見事に変わる。「みる」は

試行(トライ)である。やって「みて」うまく行けばそれでよし。やって「みて」

だめなら、だめということが分かる。またトライすればいい……。

 同じ重大な決断なのに、前者には「深刻さ」や「恐怖」がある。後者には

ない。物事の結果との間に距離、心の余裕があり、トライを楽しむ心すら

感じられる。「真剣」であっても「深刻」ではないのだ。

 やってみなはれ……それは就職・転職という重大事はもちろん、人生の

あらゆるシーンで役立つ示唆に富んだ言葉である。


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