「今、保育園で子供たちが最も楽しみにしているのは何か知っ
てる?」
おやつの時間? お昼ご飯の時間? それとも、お昼寝の時間…
…? 戦後のモノのない時代なら多分「お昼ご飯の時間」だった
だろう。しかし、今は幼児のころからお受験≠ェ始まっている
らしい。そこで、私は自信をもって答えた。
「お昼寝の時間!」
ストレス気味の子供たちが束の間の休息をとれる時間と思った
からだ。
「ブー!」
正解は何と「ダッコの時間」だと言う。ダッコの時間って?
何のことはない、保母さんが子供たちを順に抱きしめるだけの時
間である。
このときだけは、ヤンチャばかりしているガキ大将も急いで保
母さんの前に集まり、きちんと行列に加わる。神妙に小さく前
にならえ≠ネんかして、自分の順番が来るのを目を輝かせながら
待っているという。わずかな時間、優しく抱いてもうらためだけ
に…。
この話は象徴的である。子供たちにとって、今最も欠落してい
るものが何か、今最も切実に求めているものが何かを暗示してい
るからだ。
子供たちに降りかかる現代的問題≠ニ言えば、多くの人がア
フリカをはじめ世界の各地で何百万人もの子供たちが飢餓で命の
危機に瀕していることを思うだろう。
しかし、もっと深刻な問題がある。それはいわゆる富める国、
先進諸国の(とりわけ日本の)子供たちの「聞こえない悲鳴」で
ある。飢餓は食糧を援助すればそれなりの解決が可能だが、こち
らはそうはいかない。
保育園児たちが求めているのはモノではない。さらに言えば
「抱いてもらう」という行為でもない。では何か? 私は抱いて
もらう行為の中にある母なるもの≠フ実感ではないかと思う。
現代の母親は「母親をする」ことばかり考える。子供が泣いた。
おっぱいをやらないと。体調がおかしい。薬をやらないと。淋し
そうだ。おもちゃを与えないと。将来が不安だ。学歴を与えない
と……。だから、何を「する」べきかを知るため育児書を漁るよ
うに読み、母親教室に通う。何カ月児は何グラムのミルクを飲む
のが普通だとの記事を読めばそれ以外は異状だとあわて、揚げ句
の果ては育児ノイローゼ。
あるアトピーの子供がかゆみで目覚めるときの様子を見て痛感
したことがある。むずがりながらうわ言のように繰り返していた
のは「お母さん、お母さん」という言葉。「かゆいよう、かゆい
よう」ではなかった。
子供が求めていたのは母親そのものだった。「はいはい、大丈
夫よ。お母さんはここにいますよ」と優しく抱きしめてもうらう
ことだった。
しかし、この母親はあわてて子供の身体をかくばかりだった。
心の中は、薬をあげなきゃ、医師に見せないと…子供に加える
「行為」をどうするかでいっぱいだったはずだ。
本当の母なるものは行為ではない。もしそうならベビーシッター
で事が足りる。考えてみれば、かつては五人も六人も子供がいた。
ほったらかしにされる子供もいた。それでも子供たちは母の存在
を実感できた。なぜなら、母親の意識がきちんと子供の方を向い
ていたからである。子供と共にいる「今、ここ」に心があったか
らである。
現代の母親たちの心は「今、ここ」にはない。自分の楽しみや
将来への不安など自分のことで精一杯。常に何かをしているのだ
が、心の中はいつもうわの空≠ネのである。仮に子供を見てい
ても「何をすべきか」の対象物≠ニして見ている。
母なるもの≠フ本質とは何かを改めて考えてみよう。それは
「無条件で居てくれること」ではないか。自分がよい子≠ナあ
ろうと悪い子≠ナあろうと、喜びの絶頂であろうと悲しみのど
ん底であろうと、常に優しく自分を受け入れていてくれる手ごた
え……。英語で言えば「DO(する)」ではなく「BE(存在す
る、居る)」である。
もちろん、うわの空≠ネのは父親も同じだが、子供に与える
影響は段違いだ。父親が少々あっちゃ向いてホイ≠ナあっても、
母親がどっしりと存在していてくれたら子供は心から安心するも
のだ。
人間は男も女も母親の胎内から生まれた。母は生命体にとって
「故郷」であり「大地」である。母なるもの欠落は「足の下の大
地がなくなってしまったかのような」不安となる。
昔から「女心と秋の空」とよく言われるが、これは愛敬、一種
の人生の調味料でさえある。ところが「女心(母心)とうわの空」
となれば、これは子供たちにとって切実な問題だろう。