秋の空とうわの空〜母なるものの不在〜

【発表メディア】出雲大社大阪分祠機関誌「ひふみ」1997年3月号
 ある人に次のような質問を受けたことがある。

 「今、保育園で子供たちが最も楽しみにしているのは何か知っ

てる?」

 おやつの時間? お昼ご飯の時間? それとも、お昼寝の時間…

…? 戦後のモノのない時代なら多分「お昼ご飯の時間」だった

だろう。しかし、今は幼児のころからお受験≠ェ始まっている

らしい。そこで、私は自信をもって答えた。

 「お昼寝の時間!」

 ストレス気味の子供たちが束の間の休息をとれる時間と思った

からだ。

 「ブー!」

 正解は何と「ダッコの時間」だと言う。ダッコの時間って? 

何のことはない、保母さんが子供たちを順に抱きしめるだけの時

間である。

 このときだけは、ヤンチャばかりしているガキ大将も急いで保

母さんの前に集まり、きちんと行列に加わる。神妙に小さく前

にならえ≠ネんかして、自分の順番が来るのを目を輝かせながら

待っているという。わずかな時間、優しく抱いてもうらためだけ

に…。

 この話は象徴的である。子供たちにとって、今最も欠落してい

るものが何か、今最も切実に求めているものが何かを暗示してい

るからだ。

 子供たちに降りかかる現代的問題≠ニ言えば、多くの人がア

フリカをはじめ世界の各地で何百万人もの子供たちが飢餓で命の

危機に瀕していることを思うだろう。

 しかし、もっと深刻な問題がある。それはいわゆる富める国、

先進諸国の(とりわけ日本の)子供たちの「聞こえない悲鳴」で

ある。飢餓は食糧を援助すればそれなりの解決が可能だが、こち

らはそうはいかない。

 保育園児たちが求めているのはモノではない。さらに言えば

「抱いてもらう」という行為でもない。では何か? 私は抱いて

もらう行為の中にある母なるもの≠フ実感ではないかと思う。

 現代の母親は「母親をする」ことばかり考える。子供が泣いた。

おっぱいをやらないと。体調がおかしい。薬をやらないと。淋し

そうだ。おもちゃを与えないと。将来が不安だ。学歴を与えない

と……。だから、何を「する」べきかを知るため育児書を漁るよ

うに読み、母親教室に通う。何カ月児は何グラムのミルクを飲む

のが普通だとの記事を読めばそれ以外は異状だとあわて、揚げ句

の果ては育児ノイローゼ。

 あるアトピーの子供がかゆみで目覚めるときの様子を見て痛感

したことがある。むずがりながらうわ言のように繰り返していた

のは「お母さん、お母さん」という言葉。「かゆいよう、かゆい

よう」ではなかった。

 子供が求めていたのは母親そのものだった。「はいはい、大丈

夫よ。お母さんはここにいますよ」と優しく抱きしめてもうらう

ことだった。

 しかし、この母親はあわてて子供の身体をかくばかりだった。

心の中は、薬をあげなきゃ、医師に見せないと…子供に加える

「行為」をどうするかでいっぱいだったはずだ。

 本当の母なるものは行為ではない。もしそうならベビーシッター

で事が足りる。考えてみれば、かつては五人も六人も子供がいた。

ほったらかしにされる子供もいた。それでも子供たちは母の存在

を実感できた。なぜなら、母親の意識がきちんと子供の方を向い

ていたからである。子供と共にいる「今、ここ」に心があったか

らである。

 現代の母親たちの心は「今、ここ」にはない。自分の楽しみや

将来への不安など自分のことで精一杯。常に何かをしているのだ

が、心の中はいつもうわの空≠ネのである。仮に子供を見てい

ても「何をすべきか」の対象物≠ニして見ている。

 母なるもの≠フ本質とは何かを改めて考えてみよう。それは

「無条件で居てくれること」ではないか。自分がよい子≠ナあ

ろうと悪い子≠ナあろうと、喜びの絶頂であろうと悲しみのど

ん底であろうと、常に優しく自分を受け入れていてくれる手ごた

え……。英語で言えば「DO(する)」ではなく「BE(存在す

る、居る)」である。

 もちろん、うわの空≠ネのは父親も同じだが、子供に与える

影響は段違いだ。父親が少々あっちゃ向いてホイ≠ナあっても、

母親がどっしりと存在していてくれたら子供は心から安心するも

のだ。

 人間は男も女も母親の胎内から生まれた。母は生命体にとって

「故郷」であり「大地」である。母なるもの欠落は「足の下の大

地がなくなってしまったかのような」不安となる。

 昔から「女心と秋の空」とよく言われるが、これは愛敬、一種

の人生の調味料でさえある。ところが「女心(母心)とうわの空」

となれば、これは子供たちにとって切実な問題だろう。


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