ジタバタの素〜心の同心円〜

【発表メディア】出雲大社大阪分祠機関誌「ひふみ」1993年12月号初出 / 「ルネサンス」VOL.2(1998年3月)改稿採録


 本業の傍ら非常勤講師をしている米国某大学日本校の授業でエ

イズを取り上げたことがある。そのとき学生との討論で問題になっ

たのはエイズに関する差別だった。

 悲しいことだけど人は人を差別する。意識、無意識を問わずエイ

ズの患者を排斥してしまう。何が根本原因なのか。死への恐怖か。

討論の結果、どうやら「自と他を分ける意識」がそれらしいというこ

とになった。

 もし自分の右手がエイズにかかったら、人はその手を差別するだ

ろうか。するわけがない。もしわが子がエイズになったら排斥するだ

ろうか。やはり、しない。それどころか思いきり抱きしめるに違いない。

ところが近所のオッサンがエイズになったら、なるべく顔を会わさな

いようにするだろう。

 これは無意識のうちに、病気よりもそれを担っている人が「自者」な

のか「他者」なのかを問題にしていることを暗示している(もちろん、

物理的には自分以外はすべて「他者」なのだが、心の中でわが子を

「自者」と認識している)。国籍や職業にも差別があることを思えば、

死の恐怖は差別の“主犯”ではない。差別を強める役割を担ってい

るにすぎない。

 もしすべての人を「自者」や「わが子」と認識できれば差別は起きな

い。差別だけではない。もっとささいなこと、例えば満員電車の中で

見ず知らずのオッサンに足を踏まれてムッとする、といった日々のム

シャクシャもぐんと減るだろう。

 妬(ねた)み、嫉(そね)み、不満……実人生でジタバタするシーン

の多くは、「自者」と「他者」を分ける心の境界線上で起きていること

が多い。「自」と「他」の「端(境目)」と書いて「自他端=ジタバタ」と

読めるのは象徴的だ。

 そこで思い出すのが七夕である。天の川を挟んで彦星と織姫の

二人が年に一回川を渡って一つになる。彦星を「自者」、織女を

「他者」と見なせば、天の川は自と他を分ける「境界」に相当する。

彦星(自)が自他の境界を渡って織姫(他)と一体になれば、そこは

自も他もない「一」の世界。ある意味ではすべてが自分である。

「他」者の「無」い「端(境涯)」だから他無端(たなばた)であり、川を

渡って到着できる「彼(か)の岸」、つまり“彼岸(ひがん)”である。

ジタバタの対極にある境涯だ。

 とはいえ、自他同一を領解(りょうげ)し、宇宙即我の境地に至るの

は至難である。人はだれも「我よし」の利己的な行動から抜け出せな

いジタバタの身、さてどうすればよいのか。

 人間は無意識のうちに自分と他者を分ける「心の同心円」を作り出

しており、家族までは円内に含まれるのが普通だ(最近はこれが縮小、

わが子を虐待する親が出ている)。自と他の境をなくすことはできなく

ても、この心の同心円を大きくすることならできるだろう。「無私」にな

れないのなら、せめて「私(我)」の範囲を広げちゃえ、というわけだ。

円内に含まれる人を友人、知人から車内で遭遇するオッサン……と

順に広げていくのである。あのマザーテレサはこの同心円を地球大

にまで広げられた人である。

 では、どうすれば広げていけるのか。ある人に次のように指摘され

たことがある。

 「自と他の境界は自と他を分ける線と思いがちですが、実は自と他

が出会う線なんですよ」

 一つの境界線を「分ける」場と見るか「出会う」場と見るか。「ああ、

やはり他人は他人だ」と嘆くか「また一人、他人が他人でなくなるきっ

かけが得られた」と喜ぶか。出会うからこそ広げられるし、出会わな

いと広がらない。目からウロコの落ちる思いがした。

 車中で足を踏まれたオッサンにも、ムッとしないで優しい眼差しを

返してあげられたら……。信仰の要諦がゴツゴツした自己愛からの

解放だとしたら、満員電車も立派な信仰の場となり得るに違いない。

タナバタどころか“棚ボタ”を夢見て日々ジタバタしている私でも、少

しは可能な方法だと思う。

 


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