都合のいい史料引用による「すり替え論法」
〜第10章「女帝・女系継承は平城京で花開いた」についての考察〜
『新天皇論』における女系論は、描き下ろしとなるこの章から始まる。
これまで歴史論争において左翼が頻繁に行ってきた史料の都合のいいところだけ抜粋して、
勝手に歴史を捏造する手法や、
それを基にした「すり替え論法」が巧みに織り込まれているので、
そのことを中心に指摘していく。
----------小林よしのり----------
古代の皇位継承では父親のみならず、母親の血筋も重視されていた。
だから古代の天皇には近親婚が多かったのだ。
(中略)
天武天皇には草壁皇子以外にも異腹の皇子が多数いたのである。
特に持統天皇の異母妹である大田皇女が生んだ大津皇子は、草壁皇子より有能だった。
だが持統天皇は夫の天武天皇が崩御するや否や、大津皇子を謀反のかどで殺してしまう。
そして自ら称制、さらに即位することで、他の皇子が天皇になる芽を摘んだのである!
持統天皇は天武天皇の「男系」を繋ごうとしたのではない。
あくまでも自分の息子、あるいは自分の孫を天皇にするための「中継ぎ」を実行したのだ。
これはつまり「母系優先」と言っても過言ではない。
(86頁)
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完全なるすり替え、ごまかしの論法となる。
「母系優先」の"優先"とは、何と比較して優先となるのか。
皇后である持統天皇(母)と他の側室(母)との比較である。
つまり、母親たちの中の争いではないか。
天武天皇の男系より、持統天皇の血統を重視するなどということはどこにも書かれていないし、
そんな事実は存在しない。
天武天皇の男系という大前提のもと、誰の母系を優先させるのかということであって、
「母系」と「母系」という比較を、「父系」と「母系」の比較にすり替えているということだ。
----------小林よしのり----------
元明天皇は8年の在位の後、娘の氷高内親王に譲位する。
元正天皇である。
(中略)
注目すべきは即位前の「内親王」という称号である。
氷高の父は草壁皇子であり、天皇ではない。
男系で位置づければ「内親王」ではなく、「女王」になるはずだ。
これは、古代の皇位継承の制度を定めた「養老継嗣令」の
「天皇の兄弟、皇子は、みな親王とすること、
女帝の子もまた同じ」という規定が生きており、
「女帝の子」として内親王になった実例である。
その上で、母の女帝から譲位されて即位したのだから、
これはまさに「女系継承」以外のなにものでもない!!
元正天皇は生涯独身だった。
「中継ぎ天皇として即位することを期待されていたため」
とする意見が多いが、確証はない。
そもそも「継嗣令」の「女帝の子もまた同じ」という規定は、
「女帝として在位中に産んだ子」も含むとしか解釈できない。
女帝は独身でなければならないという決まりがあったのなら、
こんな規定を作るはずがないのである。
(96-97頁)
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これは単純に小林よしのり氏が歴史に無知ということに起因している。
女性天皇は天皇の未亡人か生涯独身ということであれば、
確かに女性天皇の子供は必ず男性天皇の親王ということになる。
当たり前すぎる補足をつけるのは不自然かもしれない。
ところが、過去に一件だけ"例外"があった。
天智天皇の母である皇極天皇(斉明天皇)である。
例外の子供というのはもちろん天智天皇のことではない。
皇極天皇は、舒明天皇と結婚する以前に、
用明天皇の孫にあたる高向王と結婚されていて、王子を生んでいる。
王子は後に皇極天皇の実子ということで、親王扱いとされ、漢皇子と呼ばれることになる。
このようなことが起こりえるということで、「継嗣令」に小さく補足規定を設けたとも考えられる。
しかし、継嗣令にある「女帝の子もまた同じ」を女性天皇の子供と訳すのは誤訳であると考える。
それについては後で詳述する。
いずれにしても、「女帝が在位中に産んだ子としか解釈できない」というのは、
このような事実も知らない無知蒙昧からくる発言である。
----------小林よしのり----------
ここまで何度も「皇位継承は一貫して男系を尊重してきた」などという話は、
全くのウソだという実例を挙げてきたが、この元正天皇からの譲位の場面でも、
決定的な事実が指摘されている。
元正天皇は譲位の宣命で聖武天皇を「ワガコ」と呼び、
聖武天皇は宣命で元正天皇を「ミヤオ」と呼んでいるのだ!
元正天皇と聖武天皇は伯母と甥の関係であり、聖武天皇の実母は藤原宮子である。
ところが即位の際の宣命では「母子」の関係を強調し、母から子に譲位したことになっている!
(中略)
重視されていたのは擬制を含む直系の親子関係である!
聖武天皇は3代前の男帝・文武天皇の実子であるにもかかわらず、
先代の女帝・元正天皇の子という擬制によって即位した。
古代の皇位継承では、実際の血縁が男系であっても、
女系継承とみなした実例まであったのだ!!
(98-99頁)
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この記述には、いくつものごまかしが重ねられている。
元正天皇は生涯独身である。
だからこそ「わが子」と言うことができたのだ。
擬制というのであれば、むしろ、夫を亡くした持統天皇から文武天皇への継承が
模範とする擬制であったとみる方が自然であろう。
持統天皇は夫である天武天皇との間に生まれた草壁皇子に継承する予定であったが、
草壁皇子が早世したため、自らが即位して孫である文武天皇の成長を待って譲位したのである。
また、擬制であろうと親子継承が重視されたというのであれば、
現在の皇室が旧宮家子孫から養子を迎え、「ワガコ」と呼べば、
直系継承になるということになる。この案に賛成する理屈である。
さらに「ワガコ」という表記を引用するのであれば、
その宣命についてもう少し詳しく取り上げなくてはならない。
----------続日本紀----------
天智天皇が万世に改ることがあってはならぬ常の典として、
立ててお敷きになった法に従い、ついにわが子に授けよ」と仰せられた詔に従い・・・・
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「ワガコ」の前には「天智天皇が万世に改ることがあってはならぬ常の典」とあるわけだ。
天武天皇は天智天皇の弟だから傍系になる。
この時代の天皇は天武天皇の系統だったのに、
天智天皇の言葉を持ち出して何より直系を重視しているなどということが記述されるわけがない。
つまり「万世に改ることがあってはならぬ常の典」というのは、
神武天皇の男系子孫であるということで、
小林氏が述べる「重視されていたのは擬制を含む直系の親子関係である」というのは、
まったく頓珍漢な解釈ということだ。
さらに宣命の冒頭にはもっと重要なことが書いてある。
----------続日本紀----------
元正天皇が仰せられる
「この統治すべき国は、汝の父にあたる天皇(文武天皇)が、汝に賜った天下の業である」
というお言葉を承り、恐縮していることを、皆承れと申し述べる。
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《汝の父にあたる天皇(文武天皇)が、汝(聖武天皇)に賜った天下の業》とは、
文字通り皇統は男系により継承するのだということ以外に解釈はできない。
さらに意地悪な指摘をしておくと、以前に皇學館大学の新田均教授がすでに
「日本書紀」及び「続日本紀」に男系継承を前提としていることを示す記述があると指摘していた。
すると、小林よしのり氏は「ゴー宣ネット道場」の動画「皇統問題の核心を語る」で、
「日本書紀、続日本紀は漢文で書いてある。シナ男系主義の影響を受けているのだ」
という恐るべき低次元で、こちらが恥ずかしくなるような反論を行っていた。
今回、小林よしのり氏が元正天皇は譲位の宣命で
聖武天皇を「ワガコ」と呼んだことを決定的な事実として指摘したのは、
『女帝の世紀』(仁藤敦史著)から引用しているが、
残念ながら「ワガコ」と書いてある宣命の原典は「続日本紀」である。
小林氏は原典を確認せずに、何の根拠もなく「シナの影響を受けている」など適当なことを述べるから、
このような非常に恥ずかしい結末となるのである。
----------小林よしのり----------
異例の事態が起こる。
聖武天皇と光明皇后の娘、阿倍内親王(孝謙天皇)が、
史上初の「女性皇太子」に立てられたのである!
(中略)
これは聖武天皇の意思であり、男女の別よりも嫡系を選んだのだ。
これも古代の皇位継承に男女の差がさほど意識されていなかった実例といえよう。
ただし聖武天皇には安積親王を排除するつもりはなく、
阿倍内親王の次ぎに安積親王に継がせる構想だったらしい。
(101頁)
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孝謙天皇の即位について、男女の別より嫡系を選んだのであれば、
なぜ孝謙天皇は生涯独身だったのか、と批判しようとするも、
そのすぐ後で「ただし聖武天皇には安積親王を排除するつもりはなく、
阿倍内親王の次ぎに安積親王に継がせる構想だったらしい」と述べ、
どういうわけかしっかり男系で継承されることを自分で説明している。
結局は「男女の別よりも嫡系を選んだ」というところを強調したかったのだろうが、
このことが女系論の根拠になるはずもないことは中学生の国語力でもわかるだろう。