傍系の限界など歴史上存在しない
〜第18章「継体天皇から傍系の限界を学ぶ」についての考察〜
----------小林よしのり----------
「4世子孫」(玄孫)が皇位を継いだ例は一つもなく、
あとは全て「3世」(曾孫)以内である。
どんなに傍系に移しても、曾孫以上に離れたことは、「5世」の継体天皇1例しかない。
それを今の時代に男系論者は「20世以上」に移そうというのだから、
いかに途方もないバカ話であるかは一目瞭然!
(184頁)
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孝明天皇は伏見宮に譲位を提案されたことがあるし(正確には伏見宮と有栖川宮)、
明治天皇は皇子がのちの大正天皇お一人だったということで、
いざというときのために永世皇族を強く望まれ、皇女4人を伏見宮系の宮家に嫁がせになられた。
ということは、孝明天皇や明治天皇は「途方もないバカ話」を望まれていたということになる。
小林よしのり氏には明治天皇のお考えを否定するのかはっきりさせてもらいたい。
しかも、小林よしのり氏自身の記述とも整合性がない。
----------小林よしのり----------
新宮家は天皇の「特旨」(特別のおぼしめし)で存続。
明治22年(1889年)制定の皇室典範で、「永世皇族」として追認された。
明治天皇直系の男子が病弱の皇太子(大正天皇)一人しかなく、
明治天皇が皇位継承に不安を抱いていたためだった。
(195頁)
ではここで、決定的な資料を見せよう。
宮内庁が保存している明治1年度の「旧皇統譜」の写しだ。
(中略)
この皇統譜は明治天皇の勅裁によるものであり、学者・評論家の議論の余地などない!
(296頁)
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ここまで述べているのであるから、
明治天皇が伏見宮系を正統な皇位継承資格者と認めておられた以上、
学者・評論家はもちろん、小林よしのり氏ごときが口を挟むべき余地はないということである。
----------小林よしのり----------
「手白髪命」は仁賢天皇の娘、武烈天皇の姉である。
先帝に最も近い血縁の皇女を皇后とすることで、天下を授けられたのだ。
要するに「入り婿」である。
(187頁)
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継体天皇が手白香皇女と結婚されたのは、
皇位継承資格者としての正統性を高めることであったということは事実であるが、
「入り婿」であったなどということはない。
それだったら、継体天皇が即位する以前からすでに結婚していた
尾張連草香女目子媛との間に生まれた安閑天皇、宣化天皇が即位することはない。
あくまで即位された継体天皇に手白香皇女が嫁がれたというのが正しいのだ。
歴史的事実としても即位後に、手白香皇女と結婚している。
「入り婿」というのは、小林よしのり氏の単なる「感想」というだけのこと。
----------小林よしのり----------
古代の天皇は男系の血筋だけではなく、女系の血統も尊重されていた!
特にこれらの場合は、男系の血筋の不足を女系の血筋で「格上げ」することで、
やっと皇位に就くことができた。
それが日本における「男系継承」の実態というものなのだ。
(188頁)
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女系の血筋が尊重されていたのは古代だけではない。
繰り返しになるが、明治天皇はいざというときのために4人の皇女を宮家に嫁がせておられる。
女系の血筋が尊重されることと、皇統の女系容認とは別の話である。
小林よしのり氏の記述をそのまま受け取れば、
いわゆる旧皇族男性と現在の皇室と縁戚をもっていただきたいということになるだけだ。
女系容認の根拠は何一つ述べていない。
男系という原則に基づき女系の血統も尊重されることと、
男系より女系を尊重することはまったく別の次元の話となる。
男系による皇統のなかで、女系の血筋も尊重されたことを、女系容認の根拠としようとするのは、
単なる無知蒙昧か、すり替えの論法としかいえない。
----------小林よしのり----------
『日本書紀』には、継体天皇がなぜ即位してから20年も大和に入れなかったのか
という理由は一切書かれていない。
そこに記すほど大規模な反抗があったわけではないが、
やはり大和には5世も離れた継体天皇を認めない勢力があって、
それを融和するには20年の在位という期間を要したということなのだろう。
5世、150年離れただけで、天皇として認められるためには、これだけの困難があったのに、
20世、600年離れた者が明日から皇族、皇位継承もあり得ると、認められるわけがない。
単純計算で4倍して皇籍取得後、80年ほど東京に入らず、
埼玉か千葉あたりに宮を構えさせて、国民が認めるようになるかどうか試してみればいい。
まあ無理だろうが
(188-189頁)
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小林よしのり氏はまったく矛盾している。
応神天皇の5世孫である継体天皇でも大和に入るまで20年かかったのなら、
皇統と何の関係もない男性が手白香皇女と女と結婚していた場合、
20年どころか、大和朝廷は滅んでいたかもしれない。
継体天皇が20年も大和に入れなかったという事実を持ち出して、
なぜ女系ならすんなり大和に入れるのか、何の説明もない。
これがすり替えの典型的手法である。
さらに明治天皇が伏見宮系の永世皇族を強く望まれたことを考えれば、
今上陛下もいざというときは同じお考えになることも十分にあり得る。
「国民に認められるわけがない」というのは、天皇陛下に対する恫喝だろうか。
----------小林よしのり----------
唯一の「5世子孫」の即位という事例は、戦後に「継体新王朝説」を生み出すことになる。
(中略)
5世離れただけでこうなのだから、20世以上離れた傍系に皇位が移ろうものなら、
たちまち「皇統は断絶した、これは新王朝だ!」という声が上るに決まっている。
そうなっても、わしは反論する気が起こらない。
実際、まったく別の王朝に簒奪されたとしか思えないだろうから。
(189-190頁)
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「何だ!?この発言は?」
小林よしのり氏は以前に何て言っていたのだ?
「もしわしの観測がまったくはずれていて、陛下、殿下が"男系絶対"というご意向ならば、
わしは直ちにそれに従うと改めて言っておく」(140頁)
「そもそもわしは、当事者である陛下と皇太子以上に皇室の歴史を知り、
伝統を理解している者などいないはずだと思っている。
それとも男系絶対主義者は、「オレたちの方が天皇より知っている」と言い張るのか?」(139頁)
今上陛下が仮に明治天皇のように伏見宮系の血筋を正統であるとお考えになったとしても、
小林よしのり氏は「全く別の王朝に簒奪されたとしか思えない」ということである。
小林よしのり氏がいかにその時々で、適当なことを述べているのかということがよくわかる記述である。
そして繰り返しになるが、小林よしのり氏の論理だと、孝明天皇や明治天皇は、
「全く別の王朝に簒奪される」ことを容認されていたということになる。
ここで一つ、はっきり指摘しておかなければならない事実がある。
「継体天皇新王朝説」というのは、小林よしのり氏が述べているとおり、
継体天皇が応神天皇の5世子孫であるということを問題視しているのではなく、
そもそも応神天皇と継体天皇は関係がないのではないかというものである。
「5世離れただけでこうなのだから、20世以上離れた傍系に皇位が移ろうものなら、
たちまち、皇統は断絶した、これは新王朝だ!という声が上がるに決まっている」というのは、
伏見宮系の宮家が神武天皇の男系子孫ではないという意見が出てくるということだろうか。
そして、そうなっても「全く別の王朝に簒奪されたとしか思えない」というのは、
小林よしのり氏もまた、いわゆる旧宮家は、神武天皇の男系子孫ではないと考えているということなのだろうか。
しかし、その直後には以下のように描いている。
「二千年以上の歴史に真面目に向き合うなら、やはり傍系継承は3世が限度、5世は例外中の例外、
20 世以上なんて論外と考えるしかない!(190頁)」
これはやはり20世を問題にしている。
しかし、旧宮家に皇位が継承された場合、
「継体天皇新王朝説」と同じで別の王朝に簒奪されたというのなら、
そもそも20世ですらないということになるはずだ。
血縁の遠い傍系を問題視しているのか、
そもそも男系でもつながっていないと指摘しているのか明確にせず、
まったく違う話を巧みに織り交ぜて描いている。
これは完全にすり替えの論法と言わざるを得ないだろう。
小林よしのり氏が「全く別の王朝に簒奪されたとしか思えない」というのは、
旧宮家が神武天皇とつながっていないということなのであれば、
これまで主張していないまったく新しい問題提起となるので、
さらに詳しい論証を求めなければならない。
また、「二千年以上の歴史に真面目に向き合うなら、やはり傍系継承は3世が限度、
5世は例外中の例外、20世以上なんて論外と考えるしかない!(190頁)」
という基本原則など存在したのだろうか。
武烈天皇が後継者無しで崩御したあと、
大和朝廷がはじめに皇統につらなる男系子孫を迎えにいったのは継体天皇ではない。
丹波におられた倭彦王である。
倭彦王は応神系ではなく、仲哀天皇の5世孫にあたる。
大和朝廷からの迎えの使者を、倭彦王は自分を討ち取りにきたと勘違いして逃亡してしまったので、
次に白羽の矢が立ったのが、越前・近江にいた継体天皇であった。
この当時の皇統の直系は、仲哀⇒応神⇒仁徳⇒履中⇒市辺押磐⇒仁賢⇒武烈とつながっている。
応神系の継体天皇より先に、応神につながらない倭彦王が候補に挙がったということは、
先帝に近い血筋が最も重視されていたわけではなく、
あくまで神武天皇の男系子孫を基準に皇位は考えられていたということである。
さらにいうと、江戸時代、後桃園天皇が後継なくして崩御したとき、
後継候補に挙がったのが、閑院宮祐宮家の師仁親王と、伏見宮嘉禰(貞敬)親王であった。
関白・九条尚実らが閑院宮の師仁親王を推し、
後桜町上皇と近衛前久が伏見宮の貞敬親王を推して、十日間にも及ぶ議論の結果、
師仁親王が即位することになる。
今上陛下の直系の尊属にあたる光格天皇である。
光格天皇は東山天皇の3世孫にあたるが、伏見宮の貞敬親王を遡れば、
南北朝時代の崇光天皇(北朝3代)か、北朝を認めなければ、鎌倉時代の後伏見天皇となる。
小林よしのり氏が言う「傍系継承は3世が限度、5世は例外中の例外」などということであれば、
光格天皇即位のいきさつについて、伏見宮と閑院宮のどちらかということで
議論する余地などないはずである。
考え方によっては、伏見宮は現皇室の本家筋にあたり、
天皇の血統は、単純に世数のみで考えられていたというわけではなかったということだ。
歴史に真面目に向き合っていないのは小林よしのり氏である。
----------小林よしのり----------
男系論者が主張する、皇位の男系継承を維持するための方策はたった一つしかない。
「旧宮家」子孫の男系男子に「皇籍取得」させ、新たな宮家を創設するという案である。
(183頁)
5世紀終わりから、6世紀始めにかけて、大きな皇位継承の危機が2度続けて訪れた。
現在の皇位継承の危機はこの時代(武烈天皇崩御)以来のものなのだ。
(184頁)
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小林よしのり氏はまったく状況を見誤っている。
それは悠仁親王殿下のご誕生以前の議論である。
上記の記述は、小泉政権の皇室典範改正論議のときに、
そのまま当てはまるのであって、現在の危機レベルは一段階下がっている。
小林氏は自身が認めているとおり、有識者会議の報告書をめぐて大激論が行われていたとき、
皇位継承問題についてまったく関心がなかったから、
今になって時代遅れの議論をやっているというのが現状であろう。
現在の皇位継承危機は武烈天皇のときと同レベルではなく、
例えば武烈天皇に皇子が誕生したのと同じレベルということだ。
危機レベルはワンランク下がっている。
現状を当時に当てはめれば、
念のために継体天皇に皇族になっていただけないかどうかということになる。
また、明治期とも少し状況が似ているともいえる。
明治天皇の皇子はのちの大正天皇お一人で、周囲には伏見宮系の宮家が存在していた。
悠仁親王殿下を大正天皇に当てはめれば、状況は酷似している。
先人たちの叡智に倣うのであれば、まずは伏見宮系子孫の皇籍復帰を実現することであろう。
大正天皇は4人の皇子に恵まれたが、
2〜3世代あとに9人連続女子が誕生するという極端な状況となった。
しかし悠仁親王殿下の御子孫は、時代とともに徐々に拡大していくということも十分にあり得るのだから、
現在は武烈天皇崩御以来の危機ではないということは、誰にでもわかるだろう。
あとは、先人たちが築き上げてきた伝統に従い、
悠仁親王殿下の藩屏として旧宮家の復活か、
歴史上、一例もない女系の皇族を藩屏とするか、論ずればいいのである。
皇室、国体を護持する人間なら、
歴史・伝統に従うというのが本筋であろうことは口にするまでもないであろう。