「皇族降下準則」で旧宮家は自動的に皇籍離脱していたというウソ
〜第19章「旧宮家復活なんてあり得るか?」についての考察〜
----------小林よしのり----------
昭和22年(1947年)に皇族を離れ、民間人となった11の宮家は全て、
600年以上前の南北朝時代に創設された「伏見宮家」の系統である。
今まで最も離れた傍系の天皇は継体天皇で、応神天皇の5世子孫。
だが旧宮家の者は、今上陛下とはなんと20数世代、40数親等も離れているのだ!!
旧宮家の子孫に皇籍を取得させて男系の血を繋ぐということは、
つまり600年も遡ったバイパス手術を行って、
国民(一般大衆)を皇族にするという、歴史上空前の「君臣の分義」の破壊行為なのだ!
(192頁)
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旧宮家のほとんどは、明治以降、現在の天皇の血筋から、
皇女を妃殿下として迎えているか、皇室に近い血族と縁組みをしている。
朝香、北白川、竹田の各家には明治天皇の皇女が嫁いでいる。
竹田恒泰氏は明治天皇の玄孫である。
現在、幼い男子のお子様がおられる東久邇宮家にいたっては、
明治天皇の皇女と、昭和天皇の長女をお迎えになっておられる。
明治天皇と昭和天皇の血が重なっているという文句なしの血統である。
かつて孝明天皇は伏見宮家への譲位を提案されたことがあるし、
明治天皇は、伏見宮系の「永世皇族」を希望され、
いざというときのために4人の皇女を嫁がせになられた。
ところが、どういう訳か、女系論者に限って、明治天皇や昭和天皇につながる
旧宮家の女系部分を一切無視し、
「600年遡らなければつながらない」ということばかりを連呼する。
一方で、どこの誰だからわからない男子が、女性皇族と結婚して生まれた子供は、
昭和天皇にも、大正天皇にも、明治天皇にもつながると言う。
これこそペテンであり、悪意に満ちあふれていると言わざるを得ない。
----------小林よしのり----------
旧宮家系の子孫男子も復帰できる者がいるならさっさと紹介して記者会見しろ!
仮にそんな人物が名乗りを上げたとしても、600 年、20 数代、40 親等も離れた、
もはや一般国民を、「直系の愛子内親王殿下よりも正統性がある」と、
国民を説得できるかどうか、やってみるがいい!
「どこの馬の骨だ!」と思われるのがオチだろう。
(165頁)
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神武天皇につながる男系男子で、
明治天皇や昭和天皇との血縁関係も深いということを説明すれば、
国民は納得しないだろうか。
少なくとも「どこの馬の骨」とはなるはずがない。
ところが、どういうわけか、愛子殿下の夫となられる方は、
「どこの馬の骨」とはならないという。
これは完全に情報操作であり、扇動している。
男系の血縁関係が遠くなれば、縁戚により近づけるというのは、
皇室の伝統であり、旧宮家の方々は、それを実践する正統な血縁関係を継承されている。
いまこそ、悠仁親王殿下の藩屏として、皇籍に復帰していただくことが、
皇統の安定のためには、何よりの方策であるということを述べておきたい。
----------小林よしのり----------
大正9(1920年)年に「皇族降下準則」を制定!
否応なく臣籍降下が行われる制度だった。
(197頁)
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「皇族降下準則」は否応なく臣籍降下が行われる制度だったというのはウソである。
まず基本的な国家の法体系による皇室典範の位置づけについて説明しておかなければならない。
立憲君主国家の法体系には、憲法を中心とする「政務法体系」と、
皇室典範を中心とする「宮務法体系」に分かれる。
政務法体系は国会で議決するものに対して、
宮務法体系については日本では皇族会議及び枢密院で議決されることとなっていた。
「皇族降下準則」は当然のことながら、宮務法体系に属する。
宮務法体系の頂点にある皇室典範の改正は、皇族会議の決議を要するのであるから、
「皇族降下準則」も皇族会議の諮詢を要するはずであった。
ところが、この準則は、皇族会議にかけると否決される可能性が高かったので、
枢密院の議決だけで成立した。
なぜそのようなことが可能であったのかというと、
「皇族降下準則」は、あくまで内規であったからである。
準則の根拠となったのは、皇室典範増補第1条
「王は勅旨又は情願に依り家名を賜い華族に列せしむることあるべし」である。
元々は、この増補により、増えすぎる皇族数を調整しようとしたのだが、
それでもうまく進まず、準則を策定したのだ。
ところが、皇族会議の諮詢を経ていない内規に過ぎない規定で、
皇族が自動的に臣籍降下するのは、さすがにおかしいという反発もあり、
運用面では先に記した皇室典範増補第1条の
「情願」による皇族降下があくまで基本となっていた。
つまり、皇族降下準則の効力があった期間に、
自動的に降下を命じられた皇族は一人もいないのである。
したがって、GHQにより強制的に皇籍離脱させられた旧宮家が、
いずれにしても「皇族降下準則」により、
自動的に皇籍離脱していたという言い方はおかしいのであり、
対象になっていたことは事実であるが、
皇籍離脱となったかどうかは、情勢に応じて判断されていたのだ。
----------小林よしのり----------
(新田均教授に対して)
大正9年の「皇族降下準則」について、これは自動的に皇籍離脱させるのではなく、
対象者が満15歳の時に皇族会議で正式に決まる規定だったから、
GHQによる11宮家全員一斉の皇籍離脱がなければ、
男系男子皇族が少なくなった状況を受け、宮家に残った人もいたはずだと言う。
ところが「準則」による皇籍離脱の最後の対象者、
東久邇盛彦氏が15歳を迎えたのは今から28年ほど前だ。
皇太子殿下が22歳、秋篠宮殿下が16歳で共に未婚、
他の宮家にもまだ男子誕生の可能性があった。
(中略)
この時点で、600年離れた傍系を残そうなんて思った人などいるわけがない!
(318頁)
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まず基本的な誤りを指摘しておくと、
皇族降下準則の宮家の対象者は、邦家親王の子から嫡系4世孫以下とすると、
最後の対象者は東久邇盛彦氏ではなく、
東久邇征彦氏か朝香明彦氏、もしくは竹田恒貴氏も入り、
21年ほど前になるはずだ。
そして、この仮説には大きな落とし穴がある。
11宮家全員一斉の皇籍離脱がなかった場合という想定は、2種類あると考えられる。
日本が戦争に負けなかった場合(引き分けも含め)と、
負けたけど、GHQが皇籍離脱を強制しなかった場合。
日本が戦争に負けなかった場合は、
皇太子殿下の晩婚化はなかった可能性が高いと考えることもでき、
すべての前提が崩れ去る。
また、GHQにより皇籍離脱を強制されていなかった場合は、
現皇室典範には皇籍離脱の規定が存在しないことから、
旧宮家の皇籍離脱はなかった。
つまり、小林よしのり氏の想定は、日本が戦争に負け、
尚かつ、明治の法体系がそのまま残された場合という、
極めて考えにくい状況が前提となっているのだ。
しかも、小林よしのり氏は15歳になれば自動的に対象者になったような
書き方をしているが、これは正しくない。
満15歳というのは、皇族降下準則が基準としている「皇族身位令」の規定であるが、
大正9年以降に実際に降下時の皇族の年齢は20歳以上で、
大学卒業程度の年齢となっている。
これは、皇族降下の名目は、あくまで皇族降下準則ではなく、
皇室典範増補第1条の「情願」となっていたからだ。
運用上において皇族降下準則は適用されていなかったということになる。
つまり、小林よしのり氏の「GHQにより皇籍離脱を強制されなかったとしても」という仮定は、
戦争に負けても憲法・皇室典範を改正されず、
尚かつ、対象となる皇族男子が中学3年生程度で、突然皇籍離脱させられてしまうという、
極端に自分に都合の良い条件ばかりを並べ立てているだけのことである。