「男系継承はシナ宗族制度の影響で、日本の伝統ではない」という詐欺
〜第22章「男系継承はシナ宗族制の模倣」についての考察
第22章「男系継承はシナ宗族制の模倣」は、
『諸君』平成18 年10 月号に掲載された酒井信彦氏の論文
「男系天皇絶対論の危険性〜女系容認こそ日本文明だ」
の内容を、そのまま掲載している。
(※酒井氏の論文については、氏のブログで全文確認することができる)
ところが、酒井氏の論文と、小林氏の主張には、重大な相違点がある。
酒井氏の論文から、その部分について引用してみる。
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朝鮮の場合は明らかにシナの影響によって、この父系氏族制度が出来上がりました。
シナの父系氏族制度は、夏・殷・周という非常に古い時代の夏の時代頃から、
殆ど歴史と共に始まっているといって良いのです。
紀元前千年以上前から始まっていますが、朝鮮の場合はかなり遅れまして、
朝鮮にそういうシナの親族文明が入ってきて普及するのは、高麗時代と考えられています。
高麗時代というのは日本でいえば平安時代から鎌倉時代にかけてです。
モンゴル人に攻め込まれて降伏し、
モンゴル人の手先として日本に攻めてきた当時の朝鮮が高麗です。
それから李氏朝鮮になったら益々それが定着して、
シナと同じような父系親族制度が強固に出来上がった訳です。
このために朝鮮人の名前は、完全にシナ式の名前になりました。
つまり日本による統治の遥か以前に、創氏改名があった訳です。
そのように日本とシナ・朝鮮とでは、親族構造に関する文化・文明において、
根本的に大きな違いがあるという事なのです。
すなわち日本はシナから律令制度は受け入れましたが、
科挙制度や宦官制度を受け入れなかったように、
朝鮮と違って父系の親族制度も受容しなかったのです。
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このように酒井氏は、シナ宗族制度は朝鮮半島には入ったが、
日本には入ってこなかったと述べている。
そして、酒井氏の結論を要約すると、
「日本はシナ宗族制度が入ってこなかったのだから、日本文明を尊重するなら男系継承に固執する必要はない。
男系にこだわったら、シナ・朝鮮にかなわず、シナ文明にひれ伏すことになる」というものだ。
では、小林氏はどのように述べているのかを確認してみる。
----------小林よしのり----------
(シナ宗族制度について)この「宗族」の仕組み、
皇室及び皇位継承の仕組みにそっくりなことにお気づきだろうか?
(中略)
似ているのは当然で、古代日本の豪族・貴族層が一夫多妻制によって
シナ文明の男系主義の家族制度を輸入し、
それが皇室にのみ、側室制度という一夫多妻制と共に残ったというのが、
天皇が「男系継承」である理由なのだ。
「天皇の男系継承は、美しい日本の伝統・文化である」
「男系天皇こそが、日本の国体だ」とまで言う人がいるが、
これはシナの風習である!
(228-229頁)
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なんと酒井氏の論文の趣旨をそのまま使用しながら、
本質を読めていなかったということになる。
結論だけに惹かれて、論理の内容を見落としている。
もちろん、部分的には酒井氏に賛同できないという考え方もできる。
それならば、一般階層について、いつシナ宗族制度の影響がはじまって、
どの時期に影響がなくなるのか、明確に説明しなくてはならない。
「皇室のみに一夫多妻制と共に残った」と言うが、
なぜ皇室というごく限られたところにだけシナ男系主義の影響が残ったのか、
まったく説明がされていない。
酒井氏の論理は結論だけ飛躍しているのだが、分析は理路整然としている。
----------酒井信彦氏----------
もう一つ日本とシナ・朝鮮で大きく異なるのが親族構造です。
この親族構造の問題が、皇室典範問題を考える上で、絶対に必要な知識です。
親族構造というのは親子関係、親戚関係の在り方です。
一言でいいますと、シナ・朝鮮では父系制、父親の系統を継承した形の親族制度、
父系氏族制度といってよい制度が、極めて強固に出来上っています。
それをシナの場合は宗族といい、
朝鮮では門中・宗中というような言葉で表現しますが、
ある特定の父親の系統で出来上った血縁集団、親族集団が形成されている。
この親族集団の中の男女はお互いに絶対結婚してはいけません。
この集団は同じ姓を頭に頂いているので、それを「同姓不婚」といいます。
女の人は必ず他の氏族の男と結婚しなければならない。
そのかわり女の人は結婚しても前の姓が変わらず、元の姓をそのまま引き継ぎます。
父系制ですから子供は男でも女でも父親の姓を引き継ぎますから、母親と子供は姓が違います。
この夫婦別姓は今でも続いています。
日本で男女共同参画運動をやっている人の中には、
シナ・朝鮮は夫婦別姓でこれは非常に進んでいると誤解した人もいるようですが、
これは別に進んでいるのではなくて、
元々そういう親族制度が出来上っているからそういう事になったのです。
それに対して日本では、このような強固な父系の親族制度は形成されませんでした。
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このような親族構造がどの時代に日本に入ってきて、いつまで続けられたのか、
小林氏は説明できるのだろうか。
少なくとも皇室に、「同姓不婚」などという影響を受けていた事実は確認できない。
はっきり言って、酒井氏の主張を都合の良いところだけを引用したために、
本質について曲解したことになり、小林氏のシナ宗族制度論は支離滅裂の状態となっている。
小林氏の「シナ宗族制度論」については、反論するまでもなく、自滅しているのだ。
しかも、小林氏は「男系継承はシナ宗族制度の模倣」ということを、繰り返しているが、
その内容は微妙に変化している。
小林よしのり氏が述べたことについて、順を追っていくことで整理してみる。
◎チャンネル桜討論「皇位継承について考える」(平成22年3月6日)
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まず古代の段階でシナの男系主義が入ってくる。
これは宗族制度を前提にした男系主義が入ってくる。
けれど、そもそも推古天皇が女性で、天皇になられた時点で、
これはシナから見たら、男系絶対主義からいけば壊れるわけですね。
例えば斉明天皇から天智天皇、母から息子へとなされたときに、
これは事実上女系になってしまうのだけれど、
父親が天皇だからということで言い訳が後で考えられてくる。
そういう形で少しずつ変わっていく。
そして元明天皇から元正天皇、これは母から娘へと、これも女系になってしまうのだけれど、
これも父親で男系につながっているということでまた言い訳が考えられてくるという形で、
やはりシナ流の男系絶対主義が少しずつ、少しずつ形を変えていってしまうんです。
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はっきりと「宗族制度」を前提にした男系主義が入ってくると述べている。
推古天皇が即位された時点で男系絶対主義が壊れるということは、
推古天皇以前からシナ宗族制度が入っていたということになる。
まずそこは押さえておきたい。
◎『SAPIO』(平成22年5/26号)「男系継承はシナ宗族制の模倣」
酒井信彦氏の論文丸写し状態だったのだが、すでに指摘しているとおり、
酒井氏の論文趣旨は「シナ宗族制度は朝鮮半島には入ったが、
日本に入ってこなかったのだから、男系にこだわる必要がない」ということだった。
ところが天皇論追撃編では、はっきりと日本の男系継承はシナ宗族制度の影響であるということを描いている。
◎『SAPIO』(平成22年7/28日・8/4号)
「易姓革命なんか起こらない」(「新天皇論」第23章)
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シナの「宗族」に基づく「姓」の制度が日本に入ってきた。
成立したのは7世紀後半の天智朝くらいといわれる。
(235頁)
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それでは、7世紀後半までにすでに続いてきた男系継承は
どういうことなのだろうか。
ちなみに、上記のチャンネル桜「皇位継承を考える」では、
推古天皇即位以前にシナ宗族制度は入ってきたと述べている。
すでに混沌としてきている。
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ただし、例によって日本人はシナの制度を直輸入はしなかった。
第一に、シナでは絶対である「同姓不婚・異姓不養」の原則を取り入れなかった。
(中略)
日本の氏族はシナのように強固ではなく、氏族よりも、その中の「家」が重視されたのである。
(236頁)
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シナでは絶対である「同姓不婚・異姓不養」を取り入れず、
シナのように強固ではなく、氏族より「家」が重視されたということは、
「直輸入しなかった」どころか、まったく入っていなかったということではないか。
日本にはマクドナルドは入ってきたが、
ハンバーガーとフライドポテトは入ってこなかったと言っているのと同じ。
こういったことを、まさにペテンというのだろう。
◎『WiLL』(平成22年9月号)「男系主義がカルトである証明」
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男系固執主義の自称保守派は、
シナ文明の模倣である「男系継承」に囚われていながら、
「シナ文明から独立した日本文明」を誇りにしているのだから、これは致命的な自家撞着である。
わしがそれを指摘すると、新田はなんと、
「日本の男系主義は、そもそもシナ男系主義とは別の独自の男系主義だった」と言い出した。
ほおおお・・・
それなら、日本の男系主義なるものが、シナ文明の影響とまったく無関係に、
日本オリジナルで成立したと歴史的に証明してもらうしかないな〜〜。
それはいつの時代に、どこから出て来て、どうやって成立したのか?
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小林よしのり氏が行き詰まって、相当苦しんでいると見受けられる発言となる。
小林氏は「シナ宗族制度と無関係であることを証明しろ」と述べている。
無いものを証明しろというのは、「悪魔の証明」という。
存在しないことを証明するのは不可能だ。
法学でも同じで、他人に金を貸したと訴えるなら、貸したことを立証しなくてはならない。
意味もわからず突然に訴えられた人に「立証しろ」というのは酷だから当然である。
借りていないことを立証することは困難であり、貸した事実を立証しなくてはならない。
歴史論争でこれを述べていたのは誰か?
「慰安婦の軍による強制連行が無かったことを証明しろ」、
「南京大虐殺が無かったことを証明しろ」・・・・完全に左翼発想となっている。
小林氏は以下のようなことを述べている。
「男系はシナだけではない、イスラムでもヨーロッパでもあるなどと男系固執主義者が頓珍漢な言い訳してる。
日本の影響を受けた男系はシナの宗族制度だと言っているのだ!(229頁・欄外)」
立証しなくてはならないのは誰なのか。
完全に子供の喧嘩レベルの反論で、学術論ではない。
小林よしのり氏はシナ宗族制度に基づく姓の制度が入ってきたのは、
「7世紀後半の天智朝くらい」と述べているのだから、
そのはるか以前から続いている皇室の男系継承は、
シナ宗族制度と関係がないと述べていることになるのではないか。
天智天皇は第38代天皇となる。
「関係がある」と述べる方が、立証を求められるのが学術界の常識である。
◎『WiLL』(平成22年10月号)「皇統問題の議論は最終段階に入った」(「天皇論」第33章)
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シナ男系主義が入ってくる以前の日本は母系も重視した双系社会であり、
その伝統に従ってシナでは絶対にあり得なかった女帝が登場しているという
確固たる日本の歴史に基づいているのである。
(343頁)
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この時点で完全に意味不明となっている。
シナの男系絶対主義は推古天皇の即位で壊れたと述べていたのではなかったか。
その次に7世紀後半に「シナ宗族に基づく姓の制度」が入ってきたと書いているが、
小林氏が「母系も重視した双系社会」と述べる女帝のほとんどは、
6世紀後半から8世紀後半に集中している。
完全に論理そのものが成立していない。
しかも、「母系を重視した双系社会」であっても、
一貫して神武天皇の男系子孫により継承した事実は見逃すことができないだろう。
◎『WiLL』(1月号)「渡部昇一氏への最終回答」(「天皇論」第35章)
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武烈天皇の姉妹は、男系・女系に関係なく、女子だから皇位を継げなかったのです。
なぜか。
その理由はまさに「シナ男系主義の影響」です。
三世紀頃の日本には、卑弥呼や神功皇后に見られるように、女王や女帝の存在は珍しくありませんでした。
ところが、五世紀頃にはシナ文明の影響が非常に強くなります。
雄略天皇など「倭の五王」が讃・珍・済・興・武というシナ風の名を持っていたのはその典型です。
そのためこの時代は女帝を立てることができなかったのです。
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つい先ほど、「7世紀後半の天智朝くらい」と言っていたのが、
ここでは「五世紀頃にはシナ文明の影響が非常に強くなります」となっている。
言うことがころころ変化している。
しかし、いずれにしても五世紀以前における皇位の男系継承は
日本独自であったということを反証していることになる。
これらの支離滅裂な論調から、
なんとか小林氏の言いたいことを酌み取ると、こういうことになるのだろう。
シナ宗族制度は入ってこなかったが、シナ宗族制度の男系部分だけが入ってきたということ。
これをシナ宗族制度の"不完全"な模倣とごまかしているということだが、
男系部分だけだったら、イスラムでもヨーロッパでも男系だったわけで、
何のことはない、一般的な男系継承だったということになる。
日本では神武天皇の以前から男系だったわけで、
それもシナの影響だと言うのであれば、神話もシナの影響下にあったということで、
小林よしのり氏は日本人ではなく、シナ人だったということだ。
男系継承がシナ宗族制度の影響であるということについては、
高森明勅氏もチャンネル桜の討論会「皇位継承を考える」で発言している。
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シナ男系主義というものが前提としての知識がないと
議論が混乱すると思うので、説明させていただきたい。
朝鮮半島の事例をみると非常におもしろくて、
日本と同じような(シナの)男系主義でないベースがあって、
それにシナ男系主義は入ってくる。
日本の場合も同じような状況がありました。
厳密なシナ男系主義というと、同族婚は徹底的なタブーで、
皇族同士が結婚するというのは鬼畜の類と見られてしまう。
例えば第40代天武天皇のお后は兄である天智天皇の皇女だったが、
通常男系主義社会ではあり得ないこととなる。
なぜこのようなことが許されるのかというと、母親の血筋をカウントするからとなる。
朝鮮半島での王家の結婚の例を見ていると、同じように王族同士の結婚が多く見られる。
ところが、冊封体制のもとで、シナ文明への政治的・文化的に傾斜が深まると、
どんどんと男系主義的要素が入って、十世紀以降になると完全な夫婦別姓となる。
日本が明治31年の民法でこれを清算できたのは、
いまや夫婦別姓などとんでもないという意見が出ている背景には、
長い間シナ文明に埋没していた朝鮮半島と違って、独自の文化形成をし、
(日本独自の)ベーシックな親族関係の原理、
双系的社会というものを維持してきたということがある。
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シナ宗族制度が日本に入ってきたというのは
非常に疑わしい話であることはすでに指摘しているが、
高森氏は前半部分で、さらっと「日本も同じような状況にありました」
と述べている。
しかし、結局は後半部分で、
「朝鮮半島と違って、独自の文化形成をし、
独自のベーシックな親族関係の原理・双系的社会というものを維持してきた」と述べる。
皇室は神話から男系継承なのだから、シナ宗族制度が入ってきたというのであれば、
どの部分がその影響なのか論証しなくてはならない。
皇室で同族婚を禁じられていたという事実はないし、
多くの皇子が門籍に入ったことから明らかなように、
シナのような強固な一族集団を構築したこともない。
小林よしのり氏は漫画家なのだから仕方がないにしても、
高森氏は歴史学者であるというのなら、最低限この部分の説明をしなくてはならないだろう。
それが行われない以上、わたしは高森氏を学者であるとは認めない。
他人の論文を都合よくパクっているだけだ。
また、巧みに夫婦別姓論議を含めてくるところが、高森氏のプロパガンダ体質が伺える。
日本で庶民階級の世襲が非単系であったのは事実であるが、
庶民がそうだから、天皇もそうあるべしというのは、
庶民に職業選択の自由があるから、天皇にもあるべしと言っているのと同じ。
要するに、庶民と同じ基準で皇室を論じろといっているということだ。
これは形を変えた「皇室廃絶論」であると言っていいだろう。
このことについては、小林よしのり氏の記述にも見逃せない箇所がある。
----------小林よしのり----------
妻との間に女子しかいない場合に、妾に男子を産ませるとか、
遠縁の男子を養子に迎えるというようなことをしてまで男子に家を継がせ、
絶対に娘には継がせないなんて人はまずいない。
日本はもともと女系公認の国であり、男系・女系にはそれほどこだわらない。
それどころか日本には「夫婦養子」といって、夫婦で養子に入る場合まである。
男系でも女系でも血は繋がらないが家は続く。
血統すら絶対視しないのが、日本の伝統であり、文化である。
(226頁)
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「血統すら絶対視しないのが、日本の伝統」であり、
それを皇室に当てはめようとするのであれば、
それは単なる「皇統断絶論」ではないか。
自分が何を言っているのか理解しているのだろうか。
さらに明治以前の日本は夫婦別姓だったというのは高森氏お得意のプロパガンダで、
日本は「姓」と「家」というものを明確に区別してきたから、
シナ・朝鮮と比較して、一概にそうとは言えないところがあった。
例えば、女性が結婚した場合、相手の家の人間となるのであるが、
姓の観念は消すことができなかっただけ。
家を軸に戸籍制度をつくったら、夫婦同姓となるのは当然で、
夫婦同姓の「姓」は「家」を意味するからだ。
例えば、夫婦別姓についてよく例に出されるのが源頼朝の婦人の北条政子であるが、
北条氏は「平家」の流れである。
したがって北条政子の姓は「平」であって、北条は「家名」となる。
つまり、日本で言うところの夫婦同姓の「姓」とは「家」の概念なのであって、
これをもとに皇室も女系であっていいとうのは、
皇室を一般の「家」と同じであると見なすことになってしまうのである。
小林よしのり氏は『天皇論』で皇室は「家」ではないと述べていた。
高森氏は皇室を一般の「家」と同じだと考えているのだろうか?
「日本も明治の民法制定までは夫婦別姓だった」というのは、
夫婦別姓推進論者が、保守系に対しの反論として用意している
「夫婦別姓旧慣習説」というものである。
「旧慣習説」は誤りであるということは、近年の研究で指摘されており、
明治以前に夫婦別姓だったという資料的裏付けがないことが徐々に明らかとなっている。
近いうちに「江戸時代の農民は米を食べていなかった」、
「庶民には苗字がなかった」、という虚説と同じ扱いとなるだろう。
保守系を中心として「夫婦別姓反対論議」が盛んとなっているなか、
フェミニストが用いる「旧慣習説」を巧みに活用して、皇位継承制度を論じるとことが、
高森氏のプロパガンダ体質が表れているものと考えられる。
「夫婦別姓反対」、「女系天皇反対」を主張する保守系に対して、
その二つを対立させてやろうという情報工作活動だ。
インテリジェンスとはこういうことかと認識できる良い例だろう。
「シナ宗族制度」については、小林よしのり氏に反論するよりは、
酒井氏の主張について、的確に反論することが、
シナ宗族制度論を批判することについて適切であると考える。
酒井氏の主張のポイントは、シナ宗族制度に照らして、日本の男系継承を考えると、
女性天皇が存在したことにより、不完全なものとなり、
徹底して男系・男性継承を貫いているシナや朝鮮の家系と比較して不完全なものであるとし、
「日本の皇室の男系継承が圧倒的に美しいとするならば・・・シナ人・朝鮮人こそ、
日本人とは比べものにならないほど、これを美しいと感じる民族だと言わなければなりません」
ということだ。
ところが、なぜシナ宗族制度を基準として、
日本の皇室における男系継承を評価しなくてはならないのか、よくわからない。
我が国には男系継承を続ける日本ならではの理由があるという観点には思い至らないようだ。
そもそも男系のみが血統を承継していくというのは、
人間の自然な感覚であって、人類普遍の原理ということになる。
一般的な男系継承というのは「姓」の継承と考えられている。
鈴木なら鈴木という「姓」を男系により継承する。
イスラムでも、ヨーロッパでも、シナでも王家には「姓」がある。
では「姓」とは何か。
一言で説明すると他者との区別である。
シナの皇帝はもちろん、イスラム・西洋の王室というのは、力によって交代することがある。
シナの皇帝の歴史は、まさに易姓革命の歴史なのである。
「姓」というファミリーネームは、その国を支配してきた他者との区別である。
日本の皇室には「姓」が存在しない。
世界の王国は興廃を繰り返しているが、日本にはそれがなく、
他者と区別する必要がなかったからである。
「天皇の男系継承は、美しい日本の伝統・文化である」というのは、厳密に言うと正確ではない。
古代日本の文明は、天皇は、臣下に氏姓を与える超越的な地位にあり、
天皇に氏姓を与える上位の存在がなかったため、天皇は氏姓を持たなかった。
王朝成立以来、一貫して「姓」を持たない天皇が、
万世一系で継承するという世界でも他に類を見ない非常に独特な文明となる。
2670年前の建国以来、「姓」のない存在が続いていることが、
日本の皇室が何より美しく、高貴たる所以ではないか。
それが万世一系ということだ。
酒井信彦氏や小林よしのり氏など女系論を述べる人たちは、
例外なく「皇位の世襲」と「家の世襲」の区別ができていない。
何かとすぐに一般家庭の相続方式を皇室に当てはめようとする。
先に記したとおり、小林氏が夫婦養子を例に挙げて
「血統すら絶対視しないのが、日本の伝統」というのも、「家」のことを述べている。
皇位とは祭祀を司る"霊位"であって、家の当主ではない。
シナ宗族制度というのは「家産相続」の制度である。
例えば、小林よしのり氏は斉明天皇(母)から天智天皇(子)への継承は
結果的に女系継承であると述べている。
中大兄皇子からみると、
舒明天皇(父)⇒皇極天皇(母)⇒孝徳天皇(いとこ)⇒斉明天皇(母)⇒天智天皇(自分)
と継承されるわけだが、こういった継承過程は「家の世襲」では起こりえない。
斉明天皇が重祚していることだけを見ても、
皇位の継承が「家の世襲」と異なることは誰にでもわかるだろう。
また、元明天皇(母)から元正天皇(娘)への継承が女系継承と言うが、
元正天皇から皇位を受け継いだ聖武天皇のお立場から考えると明快である。
文武天皇(父)⇒元明天皇(祖母)⇒元明天皇(伯母)⇒聖武天皇(自分)
こんなことは家督相続においては絶対に起こりえないことである。
小林よしのり氏は「皇位の世襲」と「家の世襲」との区別ができていないため、
上記の継承の意味が理解できず、
男系継承を説明するために「少々ややこしい解釈・こじつけ・言い訳がなされた」
ということになってしまうのである。
小林よしのり氏は「男系絶対のなかでは、女帝は登場しない」という。
日本は女帝が存在したから男系絶対ではないと言いたいのだろうが、
このことが「皇位」と「家督」の区別ができていないことを物語る。
天皇位は家督ではないということについて、若干わかりづらい人もおられると思うので、
少しわかりやすくするため、徳川家を例に説明してみよう。
江戸時代には15代にわたり征夷大将軍がいた。
将軍は同時に徳川家の当主となった。
しかし、元来は征夷大将軍と徳川宗家とは別物である。
関ヶ原の戦いのあと、徳川家の当主であった家康が、征夷大将軍に任ぜられ、
それ以降、「将軍」と「徳川宗家」がワンセットとなった。
征夷大将軍というのは「役職」であり、徳川宗家は「家督」である。
例えば、第15代将軍である徳川慶喜は、14代家茂の死後、
将軍の後継に推されるのだがこれを固辞。
とりあえず徳川宗家は相続したが、しばらくは将軍就任を拒み続けた。
無礼ながらあえて、皇室を徳川で例えるなら、
皇位が征夷大将軍であり、徳川宗家に相当する「家」が存在しないということだ。
徳川宗家とは天領400万石を領有する「家督」であり、
征夷大将軍は天皇から授かる「地位」である。
徳川宗家イコール征夷大将軍となり、徳川宗家は家督相続なので、
女性将軍が誕生する余地はなかったのだ。
ところが、天皇という皇位は家督相続ではないので、江戸時代でも女性天皇はお二方おられた。
徳川宗家の相続では、当主が死亡・隠居した場合、
当主の弟を介して嫡子に継承するなどということはあり得ないが、
皇位は家督ではないので、弟や妹、娘など介して嫡子に継承されるというケースは数多く存在した。
そして皇室には「家」に相当する当主といった概念は存在しない。
それは天皇が祭祀を司る絶対無私の霊位だからである。
天皇はその上には一切の存在がないことから、
徳川に例えるのは本質的には正確さ欠くのであるが、
イメージしやすいようにあえて関係性を例示してみた。
これで「皇位の世襲」と「家督の世襲」の違いについて、少しイメージしていただけただろうか。
確かに徳川家は男系男子絶対という要素があった。
徳川宗家の家督と将軍は一体だったので、女性将軍が登場する余地はなかった。
皇位は男系絶対の中で、なぜ女帝が登場することになったのかというと、
皇位は家督ではなかったからである。
つまり、男系絶対の中では、「家督」は男系男子絶対となる。
しかし皇位は性質上、男系絶対であっても、男系男子絶対とはならないのである。
東京大学名誉教授である小堀桂一郎氏の話によると、
昔、シナからやってきたお坊さんが「百姓一王」という歌を詠んだという。
その意味は、一つの王朝が百代も続くことはあり得ないということの言い回しだそうだ。
事実、長いシナ大陸の歴史の中で、30代も王朝が続いたことは、ただの一度もない。
そんな国の宗族制度を、日本に当てはめるなど、そもそもおこがましいことであって、
他国に類例のない日本の皇室は、日本独自の文明としての国体なのだ。
私は先人たちが男系継承を続けたことについて、
反面教師としてのシナ文明の影響ではないかと考える。
皇室に「姓」を持たせることは、力による王朝交代の可能性をつくってしまう。
君臣の別を徹底させるために、絶対に男系で皇統をつなげることにより、
「姓」のない皇室を存続させることで、
何より永続的に皇室を存続させることにつながると考えたのだろうと思う。
つまり、男系継承そのものに、祖先の叡智が集積していると考えなくてはならない。
小林よしのり氏による浅はかな「シナ宗族制度論」などにより、
先人たちの叡智である2600年に及ぶ男系による皇統を断絶するようなことがあってはならない。
保守主義というものは、現時点での不完全な己の理性を疑い、
先人たちの叡智について、謙虚に耳を傾けることである。