古代に女系継承があったという詐欺
〜第24章「男系固執は明治以降の男尊女卑感情」
第25章「偉大なる女帝の歴史」についての考察〜
----------小林よしのり----------
八人十代の女帝は「男系男子」であり、皇統はすべて男系だという主張は、
実はこの皇統をめぐる議論が起きてから出てきたのであって、
それまでは八人の女帝が男系か女系かなど重要視されていない。
それどころか、歴史的には「女系継承」と考えられていたケースすら二例も存在していた。
一例目は、第37代斉明天皇(女帝)から第38代天智天皇への継承である。
天智天皇は、斉明天皇の実子。
すなわち、母から息子へ皇位が移ったのだから、素直にこれは「女系継承」と意識されていた。
しかし、斉明天皇は第34代舒明天皇の未亡人であり、
天智天皇を産んだのは天皇に即位する前だったということで、
あくまでも天智天皇は、男帝・舒明天皇の子として、男系に位置付けられるという、
少々ややこしい解釈・こじつけ・言い訳がなされ、
今ではこれを「男系継承」だったことにされている。
二例目は、第43代元明天皇(女帝)から第44代元正天皇(女帝)への継承である。
(中略)
元明天皇は天智天皇の娘、元正天皇は天武天皇の娘と、
「シナ男系制度」の感覚を無理にこじつければ、「男系継承」と言うこともできるが、
素朴に見れば、「女系継承」と見た方が自然である。
(243頁)
------------------------------
それでは、小林よしのり氏が述べる古代の女系継承について、
「日本書紀」、「続日本紀」には何と書いてあるか、改めて確認してみる。
◎天智天皇の即位について
----------日本書紀----------
巻第二十七天命開別尊(天智天皇)は舒明天皇の皇太子である。
母を天豊財重日足姫天皇(皇極天皇)という。
----------------------------
いきなり、天智天皇は舒明天皇の皇太子というところからはじまる。
これが天智天皇は神武天皇の男系子孫であるということを大前提にしているということである。
◎元明天皇から元正天皇への継承について
----------続日本紀----------
(元明天皇による譲位の詔)
今、いきいきとした若さも次第に衰え、年老いて政事にも倦み、
静かでのどかな境地を求めて、風や雲のようなとらわれない世界に、身をまかせたいと思う。
(中略)
そこで皇位の神器を皇太子(聖武天皇)に譲りたく思うが、
まだ年幼くて奥深い宮殿をはなれることができない。
(中略)
氷高(元正天皇)は、慈悲深く落ち着いた人柄であり、あでやかで美しい。
いま皇帝の位を内親王に譲るのであるが・・・
----------------------------
詔には、皇太子に譲りたいとあるが、幼少なので、
出来の良い娘に一度皇位を譲ると書いてある。
36歳で独身の娘に、皇位を譲ることが、なぜ女系継承になるのか、
まったく理解できない。
◎聖武天皇の即位について
----------続日本紀----------
(聖武天皇即位の詔)
元正天皇が仰せられる「この統治すべき国は、
汝の父にあたる天皇(文武天皇)が、汝に賜った天下の業である」というお言葉を承り、
恐縮していることを、皆承れと申し述べる。
「汝に天下を下し賜うときに、汝親王の年齢は若かったので、
荷が重く耐えられないだろうと思われ、皇祖母にあたられる元明天皇に天下の業を授けられた・・・
(中略)
天智天皇が万世に改ることがあってはならぬ常の典として、
立ててお敷きになった法に従い、ついにわが子に授けよ」と仰せられた詔に従い・・・・
----------------------------
聖武天皇の詔から、元正天皇は、文武天皇から聖武天皇に皇統をつなぐ
中継ぎ的役割を果たすということを自覚されていたことが伺える。
小林よしのり氏は「元正天皇は元明天皇の実子で、これは母から娘への譲位である。
しかも元正天皇の父は天皇ではなく、草壁皇子だ。
シナ男系制度の感覚を無理にこじつければ、男系継承と言うこともできるが、
素朴にみれば「女系継承」と見た方が自然である」
と述べる。
何が自然なのか誰が見ても理解不能だろう。
上記の詔をみれば、文武天皇から聖武天皇に皇統をつなぐ過程で、
元明天皇と元正天皇が中継ぎ的役割として即位されていたことがよくわかる。
[皇統] 天武天皇⇒ (草壁皇子) ⇒ 文武天皇⇒ 聖武天皇
持統天皇(妻) 元明天皇(妻) 元正天皇(姉)
[皇位] 天武天皇⇒持統天皇⇒文武天皇⇒元明天皇⇒元正天皇⇒聖武天皇
皇統は青文字の天武天皇⇒草壁皇子⇒文武天皇⇒聖武天皇とつながっているのだけれど、
皇位は間に持統天皇、元明天皇、元正天皇が入ってくる。
結局のところ、小林よしのり氏は皇位の継承と家督の相続が区別できていないため、
元明天皇と元正天皇が間に入る意味が理解できないだけのことなのだ。
中大兄皇子からみると、
舒明天皇(父)⇒皇極天皇(母)⇒孝徳天皇(叔父)⇒斉明天皇(母)⇒天智天皇(自分)
と継承されるわけだが、こういった継承過程は「家の世襲」では起こりえない。
斉明天皇が重祚していることだけを見ても、
皇位の継承が「家の世襲」と異なることは誰にでもわかるだろう。
元明天皇(女帝)から元正天皇(女帝)への継承が女系継承と言うが、
元正天皇から皇位を受け継いだ聖武天皇のお立場から考えると明快である。
文武天皇(父)⇒元明天皇(祖母)⇒元明天皇(伯母)⇒聖武天皇(自分)
こんなことは家督相続においては絶対に起こりえないことである。
小林よしのり氏は「皇位の世襲」と「家の世襲」との区別ができていないため、
上記の継承の意味が理解できず、
「少々ややこしい解釈・こじつけ・言い訳がなされ」ということになってしまうのである。
血統というのは普遍的存在であって、生まれてからの外的要因で変更することはない。
「母から子」「母から娘」という継承かどうかで男系か女系か変わるのであれば、
それはもう血統の論理から離れている。
皇位の正統性は血統により担保されるのではなかったのか。
----------小林よしのり----------
古代から前近代まで最高法規として存続していた
「養老令」の「継嗣令」には、こんな令文がある。
「およそ皇の兄弟、皇子をば、みな親王とせよ(女帝の子もまた同じ)」
(中略)
法的にも女系継承が認められていたことになるのだ!
(310頁)
--------------------------------
「女帝子亦同」については、中川八洋氏(筑波大学名誉教授)のように
「女帝の子もまた同じ」と読むのはおかしいという見解がある。
「女帝」という和製漢語が登場したのは平安時代以降であったようだし、
最初の「およそ皇の兄弟、皇子をば、みな親王とせよ」ということは、
「皇」には女帝も含まれるので、わざわざ注をつけて同じことを繰り返すとは考えにくい。
継嗣令の条文は遣唐使が持ち帰った唐令の封爵令を藍本としているため、
シナでは兄弟に姉妹を含まないし、子は皇女を含まれないから、
皇女を含めるためには訳注がどうしても必要になったという。
唐令の封爵令 《皇兄弟皇子、皆親王》
日本の継嗣令 《皇兄弟皇子。皆為親王。女帝子又同。》
「天皇の兄弟・皇子は、みな親王とすること(女帝の子もまた同じ)」と読むと、
女帝も天皇なのだから、同じことを繰り返していることになる。
かなり不自然である。
小林よしのり氏は「新田均はこの"女帝の子もまた同じ"というのは条文ではなく、
注に過ぎないと言ったが、それは間違い!これは"本注"といって、
注であっても法的拘束力を持って条文の一部を成す部分なのである(245頁)」と述べている。
しかし、我々がこれを注であると指摘するのは、法的拘束力があるかどうかということではなく、
なぜ本文ではなく注であるかということだ。
「養老令」のなかの「継嗣令」は4箇条で構成されており、
第1条は「皇兄弟子条」という定義規定で、
上記の「皇兄弟皇子。皆為親王。女帝子亦同」が記されている。
第2条は「継嗣条」といい、皇位継承順位について記されている。
そこには何と書いてあるかというと、
------------------------------
三位以上の継嗣については、みな嫡子が相承すること。
もし嫡子がいない場合、及び、罪疾がある場合には、嫡孫を立てること。
嫡孫がいなければ、次に嫡子の同母弟を立てること。
嫡子に同母弟がいなければ庶子を立てること。
庶子がいなければ、嫡孫の同母弟を立てること。
(後省略)
------------------------------
と続いていくのであるが、すでに気付いた人はいると思うが、
女性についての規定がまったく出てこないのだ。
「女帝の子もまた同じ」と言いながら、
皇位継承順位について女性に関する規定がまったく存在しないのは不可解である。
皇位継承を定めた「継嗣条」に女性皇族が即位できる規定がないのに、
その前条で女帝の子について規定すると、まったく意味が通らなくなってしまう。
そもそも女帝が存在しないのだから、「女帝の子も同じ」と規定する意味がないということだ。
そこで、「女帝子亦同」は、「皇女もまた同じ扱いとせよ」と読めば、非常にすっきりとする。
<皇兄弟皇子。皆為親王。>
すでに述べたとおり、これだけでは皇女が含まれるのかよくわからないことになる。
ここで、なぜ、<女帝子亦同>が小さく書かれた「注」だったのかというところが重要で、
第2条以下についてもこの「注」を適用し、
「皇女も同じ扱いとせよ」と考えれば、すべてすっきりするということである。
ところが、「皇女も同じ扱いとせよ」と読むと、
今度は「継嗣条」の皇位継承順位のところで女系を容認していると考えることもできる。
そこで、第4条の「王娶親王条」があり、そこには以下のように規定されている。
------------------------------
王が親王を娶ること、臣が五世の王を娶るのを許可すること。
ただし、五世の王は、親王を娶ることはできない
------------------------------
臣が五世以内の皇族を娶ることが不可能なので、
女系は容認できないということになるのだ。
つまり、皇女は皇族以外の男性と結婚できない規定となっているので、
女系皇族が誕生する余地はまったくなくなる。
したがって、「継嗣令」は女系継承など一切認めているものではないということが
わかっていただけだと思う。
さらに言うと、女性天皇には「生涯ご結婚の禁止、ご懐妊の禁止」という不文の法があった。
これまでの歴史において、8人(10代)の女性天皇は、すべて独身であられた。
皇位に就いてからは、譲位した後であれ、独身及びご懐妊の禁止という"法"をつらぬかれたのだ。
女系継承という概念が存在したのであれば、こんな厳しい"法"を女性天皇に求めるわけがない。
近世になってからのはじめての女帝となる明正天皇にいたっては、6歳で即位され、20歳で譲位されるが、
74年の生涯においてこの"法"を守り通された。
いまの感覚では、譲位した後は、ご結婚されてもいいように思えるが、
そこまで徹底されてきたということは、それだけ男系を守るという強い意志のもとに、
皇位は継承されてきたといえるのだ。
----------小林よしのり----------
そもそも古来、日本には皇位継承に関する成文法は存在しなかった。
シナから輸入した男系主義をベースにしながらも、さほど確固たるルールもなく、
その時その時の都合によって、臨機応変、女帝を立てたり、傍系に継がせたり、
母から息子へ、母から娘へ、子から親へ継がせたケースまであり、
実に融通無碍、柔軟に皇位継承が行われたのが実情で、
皇位継承は男系に限るなどという法が作られたことはなかったのである!
(241頁)
--------------------------------
男系主義がシナから輸入したなどということについては、
いまだ小林よしのり氏はなんら立証していないし、そもそもそんな事実はない。
なぜなら男系継承をシナの影響と言うのであれば、
少なくとも天孫降臨のニニギノ尊以降、シナの影響を受けていたということになる。
神話までシナの影響などというのであれば、もはや外国に去れと言うしかない。
世界史的に見ても血統を男系で継承するというのは、
人間の普遍的原理であって、シナ特有のものでも何でもない。
だから、「皇位継承を男系に限るなどという法」が作られなかったのであり、
白い紙に黒い文字で書かれた法律がなければ、伝統ではないというのは、
近代主義思想以外の何ものでもない。
----------小林よしのり----------
皇位継承について男系だの女系だのと言い始めたのは明治以降のことで、
二千六百年の伝統でも何でもない!
(245頁)
--------------------------------
人間が言い始めたら伝統で、言わなかったら伝統ではないのだろうか?
伝統というものの中には、当たり前すぎて、いちいち論ずるまでもないこともある。
明治以前の人は、なぜ皇室が存在するのかといった疑問など一切なかっただろう。
皇室廃絶論が出てきたのは、革新思想が生まれた近代以降である。
論じていなかった時代は伝統ではなかったと言うつもりか。
現代以前は「賞味期限」という概念はなかったから食べ物は腐らなかったと言っているのと同じ。
論じられていないことと、概念が存在していなかったことは別の話だ。
伊藤博文も「皇室典範義解」のなかで、
「本来は文字にするようなことではない」と述べているのはそういうことである。
文字にする以上は、男系と女系をしっかり区別しなくてはならないのは当然のことで、
立法過程において論じるのは当たり前のこととなる。
----------小林よしのり----------
歴史上の女帝が全員、即位後、独身を通したのも同様の理由で、
「皇婿」の立場が問題となり、また、女帝が子を産んだ場合、
皇位継承をめぐる争いが起こることなどが危惧されたため、
結果的にそうなったものと考えられており、
最初に「男系継承」を守るという目的があったわけではない!
(248頁)
--------------------------------
だったら「養老継嗣令」には、何のための「女帝の子もまた同じ」という規定があったと
自信満々に主張しているのだろうか。
さすがにもうここまでくると、論理破綻しているどころではない。
----------小林よしのり----------
何より重要なのは、推古天皇が日本で初めて「天皇」という君主号を用いたということである!
(中略)
「天皇」の称号こそが、シナに対する自主独立の宣言だった。
(259-260頁)
天智天皇の代から独自の律令編纂が始まる。
シナ文明からの自立も一層明確に目指すこととなったのである。
(262頁)
↓ ↓ ↓
称徳天皇を最後に女帝が登場しなくなったのは、
シナ男系主義が定着したのと共に、摂関政治、院政、武士の台頭によって、
天皇が権力の座から後退していったからである。
(270頁)
--------------------------------
「シナに対する自主独立の宣言だった」、
「シナ文明からの自立も一層明確に目指すこととなった」、と力強く描いていて、
なぜその後の時代になってから突如として「シナ男系主義が定着した」となってしまうのだろうか。
なにもシナ文明から独立を象徴する人物は古代だけでなく、
平安時代に「シナから学ぶものはない」といって遣唐使を廃止した菅原道真だってそうだし、
その後もずっと続いていく。
それなのに突如として「シナ男系主義」だけが定着するのだから意味不明となる。
日本は聖徳太子の遣隋使以降、シナの影響圏から完全に独立しているのだから、
あえてその後に、なぜシナ男系主義だけが定着したのか、まったく意味不明である。
さらにいうと、女帝が登場しなくなった理由について、
「摂関政治、院政、武士の台頭によって、天皇が権力の座から後退していった」ということであるなら、
男性天皇ではなくても、むしろ女帝でもいいのではないか。
女帝が登場しなくなった理由として、何の説明になっていない。
----------小林よしのり----------
文武天皇は25 歳で崩御してしまう。
遺児・首皇子(聖武天皇)はまだ7歳。
そこで次に即位したのはなんと、亡き文武天皇の母。
4人目の女帝、第43代元明天皇である。
これはまさしく孫の首皇子が成長するまでの「中継ぎ」だった。
(中略)
元明天皇は即位の9年目、55歳で退位した。
その当時、首皇子は15歳。
その父文武天皇が即位した時と同じ歳になっていた。
しかし、元明天皇はまだ若年だという理由で首皇子への譲位を見送った。
若くして即位し、結果として早死にした文武天皇の轍を踏まないためだったのだろう。
そこで代わりに譲位した相手がまた異例だった。
自分の娘(文武天皇の姉)に譲ったのだ。
第44 代元正天皇である。
(中略)
母から娘へ継いだのだから、当然、女系継承である!
「4代前の天武天皇の皇子・草壁皇子の娘だから男系」
という現在の解釈の方がどう見ても無理がある。
(中略)
それまでの女帝は、天皇・皇子の未亡人だったが、元正天皇は生涯独身だった。
以前から「中継ぎ天皇」として即位することが期待されていたからと見られる。
(265頁)
--------------------------------
この記述を読んで理解できるという人がいるのだろうか。
文武天皇が崩御したとき、首皇子が7歳だったので、
元明天皇が即位したのは「中継ぎ」で、
「以前から中継ぎとして期待されていた」生涯独身の元正天皇への継承は
「女系継承」だと言っているのだ。
元明天皇が譲位するとき、首皇子は文武天皇即位時の年齢と同じだったことについて、
小林よしのり氏は、「若くして即位し、早世した文武天皇と同じ轍を踏まないためだったのだろう」
と述べているが、彼の歴史への考察が非常に甘いことが伺える。
「強大な後見人を失った病弱な文武天皇は、度々退位を口にしたが、
認められぬまま、持統天皇の死からわずか5年後、25歳で崩御してしまう(265頁)」
文武天皇は誰に対して譲位したいと言っていたのか?
母である元明天皇である。
首皇子(聖武天皇)は病弱だったのか?
違う。
聖武天皇が文武天皇と同じ年齢で即位すると、高齢の元明天皇が崩御したとき、
文武天皇と同じく後見人がいなくなってしまうのだ。
聖武天皇の母は藤原不比等の娘で皇族出身ではなく、
出産以来、皇子とも対面できないほど精神を病んでおり、軟禁状態でそれどころではなかった。
このころ、天智・天武の皇子や、二世王など皇位継承資格者がゴロゴロいたので、
後見人のない状態で、若くして即位すると、どうなるかわからない情勢だと考えられていた。
そこで、元明天皇は有能な娘である元正天皇に継ぐことで、
首皇子の御代を安泰にさせようと考えていた。
だから、元明天皇による譲位の詔には、以下のように述べられている。
------------------------------
皇位の神器を皇太子(聖武天皇)に譲りたく思うが、
まだ年幼くて奥深い宮殿を出ることができない。
(中略)
氷高(元正天皇)は、慈悲深く、落ち着いた人柄であり、あでやかで美しい。
いま皇位譲る・・・
------------------------------
そして元正天皇は在位期間9年で、24歳になった聖武天皇に譲位して、
太上天皇として24年間、母役として後見役を務めたのだ。
もし、元正天皇が即位せずに、内親王のままであったなら、
聖武天皇の強力な後見役とはなれなかっただろう。
これを見れば、元明天皇から元正天皇への継承が、
女系継承などと言えるはずがないということがよくわかる。
----------小林よしのり----------
孝謙天皇は「中継ぎ」とはいえない。
後継者が全く決まっていなかったからである。
(268頁)
-------------------------------
小林よしのり氏が述べる「中継ぎ」の概念とはいったい何なのだろうか。
まずこれを明確にしないと議論が成り立たない。
例えば、斉明天皇や持統天皇は、のちに皇子や皇孫が即位しているので、
女系継承であって「中継ぎ」ではないというのは、
納得はしないものの、相手の主張として理解するが、
孝謙天皇は生涯独身なのだから、「中継ぎ」でなかったら皇統断絶ではないか。
「中継ぎ」の概念について、わたしは万世一系の皇統を補完する役割と考えている。
「皇位」としては正統な天皇であるが、「皇統」としては"中継ぎ"であるということだ。
----------小林よしのり----------
もともと日本は「双系制」の社会であり、
シナから「男系主義」の思想が入り、徐々に変容していった。
古代の女帝は、元来の日本の社会慣行に基づき、
当然の選択肢の一つとして登場したのである。
(中略)
完全に男系主義が定着した江戸時代であろうと、
事と次第によっては女帝が現れたという事実は重要である。
(270頁)
--------------------------------
小林よしのり氏は「シナ男系主義」に影響されすぎて、
男系と男系男子の区別もできなくなってきているのということか。
男系主義が定着した江戸時代であろうと、
女帝が現れたというのは女帝も男系だからではないか。
古代は純粋に「男系主義」で、中世以降は「男系男子主義」が中心だったということだ。
なぜ「男系男子主義」が中心になったのかというと、
ひとたび称徳天皇のような人が登場すれば、大変なことになるということを、
教訓として学んだからだろう。
古代は皇統の「中継ぎ」として、女帝をうまく活用したのだが、
「道鏡騒動」に懲りて、平安時代以降は、「女帝」よりも「幼帝」を選択したということだ。
----------小林よしのり----------
元明天皇は以前の3 人の女帝とは違って、崩御した天皇の后ではない。
政治的な実績もない。
それでも支障なく即位に至ったのは、律令制による国家体制が始動し、
従来ほどに天皇個人の資質が必要とされなくなったためと見られる。
(63 貢)
↓ ↓ ↓
孝謙天皇は「中継ぎ」とはいえない。
後継者が全く決まっていなかったからである。
一旦は聖武太上天皇が遺言で指名した王が皇太子となるが、一年足らずで皇太子の地位を
剥奪されてしまう。
先帝の遺勅すら平然と無視される権力闘争が行われていたのである。
(66頁)
--------------------------------
元明天皇の即位の時は、律令制による国家体制が始動し、
個人の資質が必要とされなかったと述べ、
ひ孫の孝謙天皇のころは、本来ならさらに国家体制が固まっているはずなのに、
先帝の遺勅が無視されるような権力闘争が行われたという。
どちらがどうなのか。
正解は、元明天皇即位のときにも権力闘争はあったということだ。
さらに細かい指摘をしておくと、元明天皇の夫である草壁皇子は早世したが
本来天皇になるべき人だったということで、岡宮御宇天皇として追尊されている。
元明天皇は一皇族の配偶者だったわけではない。
----------小林よしのり----------
明正天皇の譲位から120年経って、現在のところ最後となる女帝が登場する。
第117代後桜町天皇である。
後桜町天皇は典型的な「中継ぎ」だった。
弟の桃園天皇が崩御した時、その子(後の後桃園天皇)はわずか5歳で、
最初からその成長を待つ間という条件付きでの即位だった。
そして予告通り、在位9年、31歳で譲位した。
江戸時代の2人の女帝は、古代とはまったく違って、
政治的手腕など一切期待されず、統治の実績も全く残っていない。
(271頁)
--------------------------------
政治的手腕など一切期待されず、統治の実績もまったく残っていないのは、
江戸時代だけではなく、鎌倉時代以降ほとんどである。
5歳の皇子が即位することは、前例に照らしておかしくはなかったのだけれど、
宝暦事件のあとだっただけに、幼少の天皇は避けたかったと考えられ、
桃園天皇の遺詔があったということにして、
天皇の姉であった後桜町天皇が即位したという経緯があった。
しかも、譲位した後桃園天皇は皇子もなく早世したことで、
後桜町天皇は、皇位継承危機に際して、上皇として傍系の光格天皇の即位というかたちで、
難しい状況を乗り切っている。今上陛下は光格天皇の直系子孫となる。
実績がまったく残っていないとは、あまりに失敬な話である。