「渡部昇一氏への最終回答」を分析する
〜第35章〜
「渡部昇一氏への最終回答」は、学術論的な議論からは、
かけ離れた酷い内容であった。
そして、本来は渡部昇一氏が反論するものではあるが、
勝手ながら私なりに「最終回答」を分析してみることにした。
----------渡部昇一氏の質問----------
明治の皇室典範及びその義解についてどうお考えですか?
----------小林よしのり-------------
元来、皇位継承制度は「不文法」であり、
その時代ごとの事情により、かなり柔軟に運用されていました。
(356頁)
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小林よしのり氏は「不文法」というものをまったく理解していないようだ。
「不文法」というのは、文字にする必要がないほど、
人々によって当然のごとく受け継いでいるもので、
成文法ではないから柔軟に運用されるなどということではない。
むしろ、文字にしてある「成文法」は改正により柔軟に運用できるが、
「不文法」は一世代の人間の理性によって勝手に変えられるという性質ものではないというのが、
保守思想の基本原理となる。
いかに小林氏が伝統を尊重するという仕組みが理解できていないかということを
物語る記述であるということだ。
----------小林よしのり----------
重視すべきなのは、明治典範でも典範義解でもなく、二千年来の皇室の慣習法です。
そして、皇室の慣習を誰よりも熟知しておられるのは天皇陛下です。
つまり、重視すべきものは天皇陛下の御意思だけなのです。
(356頁)
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二千年来の皇室の慣習法で、女系継承なるものは一度も存在したことはない。
その上で明治天皇は男系継承を維持するために、
現在旧宮家といわれている人たちの祖先に永世皇族を強く望まれたし、
皇女4人を嫁がせになられた。
小林よしのり氏は、今上陛下が伝統を熟知しておられて、
明治天皇は熟知しておられないという考えなのだろうか。
そうであるならば、その根拠を示してもらいたいものだ。
私には今上陛下が明治天皇より伝統を熟知されているなどとお考えになっておられるとは思えないし、
明治天皇及び歴代天皇の御意志を忠実に受け継ごうとお考えになっていると思っている。
----------渡部昇一氏の質問----------
小林さんは「今上陛下は女系天皇に御賛成だ」という御意見のようですが、
その陛下の御意見の出所をどこに置いておられるか確認させてください。
----------小林よしのり--------------
今上陛下に長く仕え、特に信任が厚いと言われる羽毛田宮内庁長官や、渡邉前侍従長が、
「私見」とは言っても、陛下の御意思をまったく無視して皇室典範改正、
まして「女性宮家創設」にまで踏み込んだ発言を行うとは決して考えられません。
(356-357頁)
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祭祀を重んじられる陛下のことを考えて、
小林よしのり氏が『天皇論』で祭祀簡素化を痛烈に批判しているが、
その祭祀簡素化を行ったのは羽毛田宮内庁長官であるし、
渡邉允前侍従長は、『諸君』(平成20年8月号)に掲載されたインタビューで
以下のようなことを述べている。
----------渡邉前侍従長----------
昭和天皇の例では、今の陛下のご年齢よりもだいぶ前から毎月の旬祭を年2回にされ、
69歳になられたころからは、いくつかの祭祀を御代拝によって行われたりした。
私も在任中、両陛下のお体にさわることがあってはならないと、
ご負担の軽減を何度もお勧めしましたが、
陛下は「いや、まだできるから」と、まともに取り合おうとはなさいませんでした。
宮内庁発表について少し説明を加えます。
2年ほど前から今年3月まで、宮中三殿を耐震構造にするための工事が行われていて、
ご神体には一時的に仮御殿に移っていただいた。
そのあいだ、仮御殿は手狭であるため、装束などの面で、祭祀の若干の簡略化がはかられていたのです。
両陛下のご負担を考えると、これをキッカケに、工事完了後も、
従来よりご負担のかからないやり方でお願いしようと考えました。
ところが、陛下はこれをお認めにならない。
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祭祀を重んじられる天皇陛下と、渡邉侍従長の意思が反していたことを、
渡邉允氏自らが公言している。
つまり、侍従長や宮内庁長官が
必ずしも陛下の御意思と同じであるなどということはないということの証明である。
そんな不確かな情報だけで、
二千年来の皇位継承の原則を変えるなどというこはあってはならないと考える。
----------渡部昇一氏の質問---------
神武天皇以来、今上天皇に至るまで女系天皇だと
小林さんが認められる天皇はどなたですか?
----------小林よしのり-------------
斉明天皇のところに「母から子へ天智天皇への女系継承」、
元明・元正天皇のところに「母から娘へ女系継承」と書きました。
女系継承と考えられるのはこの二例です。
これを男系継承と解釈するのは後付の理屈であり、
当時はあくまで母から子への継承と考えられていました。
(357頁)
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私はこの二例を女系継承という方が、後付の理屈であると考える。
というのは、『日本書紀』では天智天皇についての記述の冒頭に、
「天智天皇は舒明天皇の皇太子である」と書かれている。
元正天皇から皇位を継承した聖武天皇は即位の詔では
「元正天皇が仰せられるには、この統治すべき国は、
汝の父である天皇(文武天皇)が汝に賜った天下の業である」と記されている。
一方で、天智天皇と元正天皇について、
当時は女系継承と考えられていたという史料を見たことも聞いたこともない。
ということは、小林よしのり氏の主張の方が、「後付」なのではないか。
もし、この二例が女系継承であったと考えられていたという歴史的史料があるのなら、
是非示していただきたいと思う。
できなければ、小林氏の主張が「後付」だということだ。
----------渡部昇一氏の質問----------
(小林よしのり氏の主張は)秋篠宮家の親王殿下は、
皇位継承の順序において、愛子様より下ると断定してよいか。
----------小林よしのり---------------
わしが尊重するのは「男系」よりも「直系」ですから、
「傍系男子」の悠仁さまよりも「直系女子」の愛子さまの方が上となります。
(357頁)
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皇位継承法について直系・傍系という明確な概念は存在しないのであるが、
少なくとも特定の天皇から数えて、直系・傍系という区分ができるだろうと思う。
すべての歴代天皇は神武天皇の直系子孫となるが、
特定の天皇から特定の天皇という見方をすれば、直系・傍系の区別ができるということだ。
ということは現在の天皇陛下から直系・傍系ということを考えれば、
天皇陛下の直系卑属はすべて「直系」にあたる。
皇太子殿下が即位されたなら、悠仁親王殿下は天皇からみた直系卑属とはならないから傍系になる。
ところが、皇太子殿下に後継者がおられない場合、
いずれ秋篠宮殿下がご即位されることになるから、悠仁親王殿下は直系ということになる。
これが「神皇正統記」の考え方でもある。
つまり、今上陛下がご健在である以上、その直系卑属間で、直系・傍系という区分はない。
小林よしのり氏は皇位継承における直系・傍系の使い方すら知らないということになる。
----------小林よしのり----------
渡部氏は、わしが「男系継承では続かない」と議論すること自体、
悠仁さまに男子ができない等の不幸な事態を想定しており、
「不敬である」という理由で回答を拒否しました。
これは大東亜戦争末期、日本敗戦の可能性を議論することさえ
「非国民」と罵って禁じた者と全く同じ思考です。
最悪の事態を考え、それに対処するのが責任ある者の務めでしょうに、
渡部氏は「最悪の事態を考えるなんて、縁起でもない!」と思考停止する。
つまり、何が何でも本土決戦だ!必ず神風が吹く!」と言っているだけなのです。
(358頁)
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これはまったくのすり替え論法となる。
まず大東亜戦争末期との現状比較をしてみよう。
悠仁親王殿下のお子様が将来お一人の場合でも、男子誕生の確率は50%となる。
これは大東亜戦争開戦時における勝利の確率ぐらいではないだろうか。
そしてお子様が2人の場合は75%、3人の場合は87%。
まずこの状況を敗戦確実の大東亜戦争末期と比較することがフェアな論議といえるのだろうか。
しかし、私が述べる「すり替え論法」とはこういうことを言っているのではない。
小林よしのり氏は渡部昇一先生に対する前回の回答で
どのように述べていたかということを確認しておきたい。
「男系継承論者が主張する唯一の方策は、
旧宮家子孫男子に皇籍を取得させ、新宮家を創設することです」
これは「最悪の事態を考える」というレベルの記述ではなく、
悠仁親王殿下に男子ができない等の不幸な事態を"大前提"にしているということである。
最悪の事態を「想定」しておくことと、「大前提」にしておくことは、まったく異なる。
渡部昇一先生は、悠仁親王殿下のご不幸を「大前提」にした論理について、
「不敬である」述べているということだ。
そのことを踏まえた上で次の記述を見てみよう。
----------小林よしのり----------
そもそも、皇室の万一の不幸を想定して対策を考えることが「不敬」であり、
議論もしてはいけないというのなら、
「元号法」制定のために運動した人々も「不敬」だったのでしょうか?
敗戦時に「元号」を制定する法的根拠が消滅、
そのまま天皇が崩御したら「昭和」を最後に元号が制定できない状態のまま年月が経過していました。
一刻も早く「元号法」を制定する必要があったのに、
これも天皇の崩御という不幸を想定した問題なので「不敬」と言い出す者がいて、
なかなか議論にならなかったのです。
(中略)
渡部さん、あなたは元号法のために運動した人々は「不敬」だったとお考えですか?
(359頁)
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昭和天皇がいずれ崩御されるのは人間である以上、確実に決まっていたことだ。
悠仁親王殿下にご不幸があるかどうかというのは、確実ではない。
この二つを織り交ぜて論じるというのが「すり替え論法」であるということだ。
「元号法」制定について「不敬」と言って反対した人がいたというのなら、
おそらくは「言霊」信仰だったのだろう。
天皇陛下のお命が一日でも長くなるのであれば、
元号制定はその後でもいいという「恋闕」だったのかもしれない。
いずれにしても、まったく異なる性質の話を織り交ぜて論じるのは、
「すり替え」か「ペテン論法」である。
----------小林よしのり----------
この渡部氏の反論、やはり皇室問題の「しろうと」らしく何重にも間違っているので、
何から手をつければいいのか途方に暮れてしまいますが、順に説明していきましょう。
第一に、渡部氏は武烈天皇の姉妹を「少なくとも三人」と書いておられる。
何で三人などと書くのかわかりませんが、実は武烈天皇の姉妹は六人です。
姉五人に妹一人。
『古事記』にも『日本書紀』にも明確に書いてあります。
一体なぜ「少なくとも三人」などと書いたのですか?
(359頁)
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雑誌連載時には天智天皇を女性に描いたり(『SAPIO』6/23号)、
後桃園天皇を後桜町天皇の弟(『SAPIO』10/13・10/20号)と描いていた
小林よしのり氏が他人に「しろうと」とよく言えたものだと思う。
しかも、さらに渡部氏が「少なくとも3人の姉妹」と書いた理由について
まったく気付かないのは、小林氏が「しろうと」どころか「ドシロウト」だからだ。
仁賢天皇の皇女は確かに6人だが、後に登場するのは、
継体天皇妃となる手白香皇女、宣化天皇妃となる橘仲皇女、
安閑天皇妃となる春日山田皇女の3人だけである。
つまり、仁賢天皇には6人の皇女がいたのだけれど、武烈天皇崩御の時点で、
最低3人の姉妹がご存在されていたことだけはわかっているということだ。
残り3人の皇女は、どうなったのか記述がないので定かではない。
早世されたのかもしれない。
武烈天皇は18歳で崩御されているので、
その時点で6人全員の姉妹が生存されているとは限らない。
渡部氏が「少なくとも3人の姉妹」と書いたのは、極めて正確な表現となるのだ。
「武烈天皇の姉妹は『記紀』共に6人と書いてあるのに」
と知ったかぶりで述べる小林よしのり氏は、
仁賢天皇のところだけを読んでいるだけであって、
継体天皇、安閑天皇、宣化天皇のところまでしっかり読んでいれば、
渡部氏が述べたことの意味だけでも理解できたのである。
渡部氏の間違いを指摘したつもりだったのだろうが、皮肉にもそのことにより、
こんな質問をしなくてはならないほど「記紀」をまともに読めていない
「ドシロウト」だったということが判明することになった。
----------小林よしのり----------
第二に、武烈天皇の姉妹は仁賢天皇の皇女ですから、「男系女子」です。
仮に渡部氏が言うように「胤」が「男系」を示すとしても、
その中には武烈天皇の姉妹は当然含まれるはずです。
(359頁)
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仁賢天皇の皇女が即位したとして、その後はどうなるのだろうか?
皇胤は残せるのか?
結局、皇胤を"残す"ために、継体天皇にご即位いただいたということで、
首尾一貫していると思うが、小林よしのり氏の国語力では理解できないということだけなのか。
----------小林よしのり----------
武烈天皇の姉妹は、男系・女系に関係なく、
女子だから皇位を継げなかったのです。
なぜか。
その理由はまさに「シナ男系主義の影響」です。
三世紀頃の日本には、卑弥呼や神功皇后に見られるように、
女王や女帝の存在は珍しくありませんでした。
ところが、五世紀頃にはシナ文明の影響が非常に強くなります。
雄略天皇など「倭の五王」が讃・珍・済・興・武という
シナ風の名を持っていたのはその典型です。
そのためこの時代は女帝を立てることができなかったのです。
(359-360頁)
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武烈天皇の姉妹は女子だから皇位を継げなかったというが、
同ページに次のような記述があるのはどうなっているのだろうか。
----------小林よしのり----------
『日本書紀』の継体天皇条に、次のように書かれています。
「武烈天皇は五十七歳で、八年冬十二月八日におかくれになった。
もとより男子も女子もなく、跡継ぎが絶えてしまうところであった」
(講談社学術文庫・宇治谷孟訳)
男子しか跡継ぎになれないのであれば、「もとより男子なく」と書けば済むはずなのに、
「男子も女子もなく」と書いています。
これはせめて女子一人でもいれば、女系でつなぐこともあり得たという記述と推測されます。
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武烈天皇の姉妹は、女子だからシナ男系主義の影響で
皇位を継げなかったと書いたすぐあとに、
武烈天皇に女子一人でもいれば、女系でつなぐこともあり得たと言っている。
武烈天皇の姉妹はシナ男系主義の影響を受け、
どういうわけか武烈天皇の皇女はシナ男系主義の影響を受けないそうである。
必死になって自分に都合の良いと思う材料だけに飛びついているから、こういうことになるのだ。
さらに、小林よしのり氏は第18章で以下のような正反対のことを描いている。
それと渡部昇一氏への最終回答を照らし合わせると、もはや意味不明とる。
----------小林よしのり----------
5世紀の「倭の五王」の時代。
倭王「武」こと第21代雄略天皇が皇位継承のライバルとなる兄二人、
いとこ三人をことごとく殺したために、
次の皇位継承資格者がほとんどいなくなってしまった。
(中略)
雄略天皇が行ったのは顕著な例だが、
この時代には他にも皇位争いで多くの皇子が殺されている。
いくら皇位を得るためとはいえ、なぜ兄弟間でまで殺し合いが起きたのか?
それは兄弟といっても一夫多妻による「異母兄弟」であり、
それぞれが母方の親類である豪族と密接に結びつき、
その後押しで皇位を目指したからである。
(中略)
つまり、この頃の皇族は「女系」の帰属意識の方が強く、
「男系」の結合は極めて脆弱だったのだ。
(185頁)
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第18章では、「この頃の皇族は女系の帰属意識の方が強く、
男系の結合は極めて脆弱だったのだ」と述べ、
一方で第35章の渡部氏への回答では、
武烈天皇の姉妹が皇位を継承しなかったのは「シナ男系主義の影響」として、
「五世紀頃にはシナ文明の影響が非常に強くなり、
雄略天皇など倭の五王が讃・珍・済・興・武という
シナ風の名を持っていたのはその典型」と正反対のことをいう。
さらに極めつけは次の記述となる。
----------小林よしのり----------
清寧天皇の没後、「天の下治らしめすべき王無かりき」と『古事記』は記している。
そして、第17代、履中天皇の娘、飯豊皇女が事実上の皇位に就いたことが書かれ、
『日本書紀』にも飯豊皇女が政治を執ったと記している。
両書とも正式に即位したとは書いていないが、
天皇の臨時代理を務めたことは間違いなく、
後世の史書『扶桑略記』、『本朝皇胤紹運録』では飯豊皇女を天皇として扱っている。
(186頁)
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渡部氏に対する回答では、「シナ男系主義の影響により、武烈天皇の姉妹は、
男系・女系に関係なく、女子だから皇位を継げなかった」と述べ、
「天皇論追撃編」では、「倭の五王」といわれる時期から
継体天皇即位までの時代のど真ん中にあたる飯豊皇女が、事実上の皇位に就いたと描く。
こんな矛盾に満ちた論理が、碩学・渡部氏が真剣に答えるべきレベルの内容なのか。
もう少し細かい意見を述べさせていただくと、
「倭の五王」や「邪馬台国」などは、中国の歴史書の中でも、
非常にいい加減な部分にだけ登場する記述であり、
日本の正史には一切記されていない。
まず大前提でおさえておかなくてはならないのが、
日本史上、「邪馬台国」という国が存在したことも、
「卑弥呼」という人物が存在したという事実はない。
これは当時の中国人が日本人(かどうかもわからない)に対して蔑称として、
このような漢字を使用して呼んだということだ。
「魏志倭人伝」には、邪馬台国と戦っていた狗奴国に卑弥弓呼という男王がいたと書いてあるので、
おそらく周辺国の王に対する蔑称とする総称のようなものだったのだろう。
魏志倭人伝とは通称で、いわゆる『三国志』の中の『魏書』のなかに、
「東夷伝」というものがあり、その一部となる。
正史ではなく、周辺を記したもので、内容はかなりいい加減なものとなっており、
ごく一部以外はほとんど信用できない内容となっている。
「倭の五王」については、日本側からシナの皇帝に使者を送っていたということは事実である。
しかし、シナの史書にあるその内容はシナ側の解釈に過ぎない。
『日本書紀』によると、中国の皇帝から称号をもらったなどということは一切記されておらず、
反対に中国側が貢ぎ物を持ってきたということが強調されている。
つまり、シナは倭の王が朝貢にやってきたと書いてあるが、
日本側はそんな気はさらさらないということだ。
この当時の日本は朝鮮半島で激しい勢力争いをやっており、
シナの皇帝に使者を送って、日本の立場を認めるという称号をもらおうとしていたのだ。
当時の中国は南北朝時代で、朝鮮半島に影響力を持っていた南朝に使者を送っている。
ところが、そんな称号がたいした役にも立たなかったということで、
「武」と考えられている雄略天皇が使節をやめてしまったというのが実情だったのだろう。
あくまで朝鮮半島情勢であり、日本国内では、そんなことは何の関係もなかったので、
我が国のどの歴史書にも記憶すらされていないということである。
それにもかかわらず小林よしのり氏は渡部氏への最終回答で、
----------小林よしのり----------
ところが、五世紀頃にはシナ文明の影響が非常に強くなります。
雄略天皇など「倭の五王」が讃・珍・済・興・武という
シナ風の名を持っていたのはその典型です。
そのためこの時代は女帝を立てることができなかったのです。
(360頁)
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と書いている。
「あなたはいったいどこの国の歴史書をベースに考えているのですか?」
ということである。
しかも、中国の史書をベースにしながら、
日本は「シナ男系主義の影響を受けていた」という、
何の根拠もない主張を繰り広げている。
それだけならともかく、第18章では、
----------小林よしのり----------
5世紀の「倭の五王」の時代。
この頃の皇族は「女系」の帰属意識の方が強く、
「男系」の結合は極めて脆弱だったのだ。
(185頁)
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と書いており、自分の都合と裁量だけで、
その時代のシナの影響をコントロールしているのだ。
これが歴史の「後付」以外に何と言うのだろうか。
また、『新天皇論』第16章では、シナ男系主義が入ってきたのは
「7世紀後半の天智朝くらい(235頁)」と述べていた。
今回は5世紀ということだが、シナ文明の影響が非常に強くなってくるという
五世紀以前における皇位の男系継承は日本独自であったという反証になるのではないか?
男系継承がシナの影響だと言い出したら、
神話までシナの影響を受けていたということになるが、そこまではいえないから、
必ず○○頃に影響を受けていたという記述にならざるを得ないということだ。
以前は7世紀後半、今回は五世紀頃。いずれにしても、
それ以前からの男系継承は日本独自であったという反証になる。
----------小林よしのり----------
しかし、それでも、日本では女系を重視する習慣が残りました。
継体天皇は武烈天皇の姉である手白髪皇女を皇后として、
いわば「入り婿」になることで、
ようやく皇位に就くことが認められたのです。
このような下地があったからこそ、六世紀末、
シナ文明圏からの離脱が強く意識された時代に推古女帝が誕生し、
その女帝の御世に「天皇」の称号が成立したのです。
男系継承に固執するのはシナ文明への隷属に等しく、
そのような人に「シナから独立した日本文明」を誇る資格はありません。
(206 頁)
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ここまで来ると、もう述べている内容が無茶苦茶となる。
第25章で描いていたことを挙げておく。
「称徳天皇を最後に女帝が登場しなくなったのは、
シナ男系主義が定着したのと共に、摂関政治、院政、武士の台頭によって
天皇が権力の座から後退していったからである(270頁)」
6世紀末、女性である推古天皇が登場したのは、
「シナ文明圏からの離脱が強く意識された時代」であると述べつつも、
奈良時代末期から平安時代以降、再び「シナ男系主義が定着した」と述べているのだ。
要するに、元々日本独自の男系継承があり、5世紀にシナ男系主義の影響を受ける。
6世紀後半からシナ文明圏から離脱して、
8世紀からまたシナ男系主義が定着すると言っているわけだ。
こんなもの学術レベルの論議と言えるだろうか?
知的誠実さを感じられないどころか、中学生レベルの論理となる。
----------小林よしのり----------
また、渡部氏は、櫻井よしこ氏らが皇統論を語らなくなった理由は、
わしの批判で論破されたからではなく、悠仁さまのご誕生で
「みんなホッとして、議論しなくなっただけ」と書いておられるが、これは実に悪質な嘘八百です。
櫻井よしこ氏と大原康男氏は昨年、その名も『皇位継承の危機いまだ去らず』という共著を出版し、
「皇太子殿下、秋篠宮殿下の次世代を担う男系の男子は、現在、悠仁親王殿下お一人。
決して皇統の危機が解決された訳ではないのが現状です」と訴えていました。
(中略)
悠仁さまのご誕生で皇位継承の危機が去ったわけではないという認識は、
男系・女系の意見の相違を超え、ほぼ全員の論者に共通していたはずです。
ところが渡部氏は、悠仁さまの誕生でホッとして議論しなくなったといいます。
最初から、皇位継承問題など真面目に考えていなかったのでしょう。
(361頁)
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これも完全に「すり替え論法」か「ごまかし論法」となる。
皇太子殿下、秋篠宮殿下の次世代の皇位継承者がいないのと、
悠仁親王殿下の次世代に皇位継承者が未定であるということでは、
同じ危機でも危機レベルがまったく異なる。
悠仁親王殿下のご誕生により、とりあえずはホッとしているが、
危機が去ったわけではない。
ただし、小林よしのり氏ごときにいちいち反応しなくてはならないほどの
危機ではないということである。
八木秀次氏による「(新田均氏に)安心してお任せできる」という発言がその典型だろう。
小林よしのり氏ごときに、一々全員が反応しなくてはならないという考えが、
小林氏の思い上がりであるということである。
結論づけるなら、小林よしのり氏の「女系容認論」そのものが、
すべて小林氏の理性による「思い上がり」だということだ。
ここまで小林よしのり氏が無茶苦茶な論理を展開していることを指摘してきた。
こんな状況で「何を言おうと、一切対応するつもりはない」というのは、
まさに渡部昇一氏が前回のべておられるとおり、
一方的に屁をかまして逃亡するスカンクと同じである。
そして、小林よしのり氏によるハチャメチャの論理を唯一支える最後の砦が次の記述である。
----------小林よしのり----------
わしは三十年以上前の左翼学生に入れ知恵された「ゾンビ」で、
「天皇や皇室のことに突然目覚めて商売のタネにする人間」で、
「エゴマニアック」で、「もう少し症状が嵩ずると、もっとこわい病名がつき」、
その言論は「ピューマに対してスカンクが臭液を放ったようなもの」で、
描いているのは漫画ではなく「『臭画』あるいは『醜画』」だと。
で、こうして渡部氏の評価を全て受け入れたなら、皇統は安泰になるのですか?
未来永劫、一夫一婦制で必ず男子が生まれるようになるのですか?
わしが守りたいのは自分のメンツなんかじゃありません。
皇統を守りたいのです。
男系継承を固守して、それでも確実に皇統が続くという具体策があるのなら、
ぜひ教えてください。
(中略)
@皇籍取得してもいいという旧宮家子孫は実在するのか?
A旧宮家子孫の皇籍取得を国民が認めるか?
B側室なしで男系継承が続くか?
渡部氏がわしの三つの質問に有効な回答をして、安定的男系継承の具体策を示し、
よほど建設的な議論ができないかぎり、今後渡部氏が何を言おうと、
一切対応するつもりはありません。
(362頁)
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確実に皇統が続くという具体策?
二千年の我が皇室の歴史のなかで、そのようなことが一度でも存在したのだろうか。
明治天皇は側室との間に、かなり多くのお子様がおられたが、
成人された皇子はのちの大正天皇お一人だった。
そこで万世一系の維持に不安を持たれた明治天皇は、
伏見宮系の永世皇族を強く望まれ、皇女4人を嫁がせになった。
側室制度があった時代でも、連続して親子継承ができたのは、
欠史を除けば、光格天皇から今上陛下までの7代が最長となる。
側室制度があったからといって、直系継承(親子継承)ができるわけはないので、
庶子継承は確実な方策ではなかったということだ。
この問題を考える上で、以前のゴー宣ネット道場の動画について、
私と小林よしのり氏とのやりとりが一番わかりやすいと思う。
動画「皇統問題の核心を語る」で、小林よしのり氏は、
「側室制度なしに男系継承は不可能、これだけでもう終わっている話」と述べる。
私は「なぜそんなことが言い切れるのだろうか」と思い、
「一夫一婦制でも一組の夫婦から男子が誕生する確率は50%ではない。
子供の数が二人、三人と増えれば、男子誕生率は格段に上がっていく。
その上で宮家が複数家あれば、男系継承を継続できる可能性がないと
断言できるものではない」と述べた。
それに対する小林氏の反論は、晩婚少子化だの、何だの「状況論」ばかりとなった。
小林氏は、旧宮家が皇籍復帰しようとも、
側室制度なしでは男系継承は可能だという「制度論」から主張していたわけだが、
結局は、「状況論」でしか反論することはできなかったということだ。
我々は、男系継承でつなぐ可能性が残されているのでれば、
まずはそれを選択するべきではないかと述べているのに対して、
小林氏は、「確実に皇統が続くという具体策を示せ」と、すり替えて論じているのである。
つまり、小林氏は、最初は「男系継承は不可能」と断言し、
我々が「断言できるものではない」と反論すると、
「確実に皇統が続くという具体策を示せ」と
まったく関係のないことを言っているということになる。
渡部昇一氏は、男系でつなげるところまで、やれる努力はやっておくべきだと述べておられるのに、
「確実に皇統が続くという具体策を示せ」と批判するのは、
そもそも議論が成り立っていないということになる。
小林氏の方があえて議論を成立させることを避けている。
なぜなら、議論がかみ合えば完敗してしまうからだ。
わけのわからない直系論を正当化させるために、好き勝手に歴史を論じているが、
私ごときに矛盾点を指摘されているぐらいであるから、
碩学・渡部氏にかかれば、木っ端微塵にされることは間違いない。
小林氏もそれぐらいのことはわかっているのだろう。
だから、まったく見当違いの「確実に皇統が続くという具体策を示せ」という批判を行い、
できなかったら一切議論しないというスカンク戦法を貫いているということだ。
自分の論理が矛盾だらけで無茶苦茶になろうとも、最後はとにかくスカンク戦法で逃げる。
やっぱり小林氏が守りたいのは皇統ではなくメンツだということではないか。