『ゴー宣道場』のデタラメ                       

                                   

小林よしのり氏が主催する「ゴー宣道場」の内容が単行本として出版された。

その活動そのものについては、とやかく述べる筋合いではないが、

第2章で記されている「皇室を語る弁え」という内容は、

あまりにデタラメであり、刷り込み、宣伝工作に満ち溢れた内容であったことから

厳しく批判しておかなくてはならないと考え、同著に対する分析をまとめた。

 

●基本的な事実誤認

 

まずは基本的な誤りについての指摘からはじめよう。

小林よしのり氏はいわゆる旧宮家に対して、

「今上陛下から二十世以上も離れている」と繰り返し述べている。

高森氏は『ゴー宣道場』で、「旧宮家から皇籍を取得してもらうとなると、

二十世以上離れていることになります」(95頁)と述べる。

 

これは単純な事実関係の誤認である。

今上陛下と旧宮家がつながる共通の祖先は、北朝三代崇光天皇の孫にあたる貞成親王となる。

貞成親王は世系第五十八で、今上陛下は世系第七十七となることから、

離れているのは正確には十九世である。

 

小林氏は『新天皇論』(192頁)で今上陛下と旧宮家がはじめてつながる共通の祖先を、

栄仁親王としているが、おそらく誰かが言い始めたことを検証もせずに鵜呑みにしているから、

同じような間違いを繰り返しているのだろう。

栄仁親王は確かに初代の伏見宮であるといえるが、

枝分かれするのは栄仁親王の孫の代からである。

こんなことは皇室の系図を確認すれば、誰にでもすぐにわかることだ。

 

小林氏は漫画家だから仕方がないとしても、高森氏は皇室の歴史の専門家ではなかったのか。

『ゴー宣道場』第2章に記されている基調講演では、

高森氏は「本日は皆さんに皇室125代の系図をお配りしましたが、

この系図さえろくろく見たことのないような人達が、

皇室典範はああだこうだと勝手なことばかり言っているのが現状です」(86頁)と述べている。

まずはあんたがしっかり見たらどうかと言いたいところだ。

皇室の系図をちゃんと見てれば、栄仁親王で枝分かれしていないことぐらいはすぐにわかる。

ろくろく確認もせずに、小林氏ともども誰かが言ったことを鵜呑みにしているから、

こんな基本的なこともわからないのである。

これが小林よしのり氏がいう“専門家”の有り様だからどうしようもない。

 

●皇太子不在の問題は女系論と関係なし

 

----------小林よしのり----------

現行の典範のままだと、まず皇太子殿下が即位されますが、

「皇太子」が空位になってしまうんです。

皇位継承順位で言えば皇太子殿下の次は秋篠宮殿下。

けれども秋篠宮は、皇太子殿下が即位しても「天皇陛下の子供」ではないですから、

「皇太子」にはなりません。

その時点から、われわれは皇太子がいない時代へ突入するんです。

(中略)

皇太子殿下と秋篠宮殿下は五歳しか離れていない。

八十歳か九十歳かわかりませんが、そういう年齢の新天皇が誕生することになります。

国民がこれをどういう感覚で迎えるか。

新しい時代というよりも、

「ああー、こんな年寄りの方が即位されるんだ」「新しい元号になっても大して続かないぞ」

という感覚を持ってしまうことは避けられない。

(98-99頁)

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これは女系論としては、まったくデタラメの論理である。

例えば、小林よしのり氏の主張が採用されたとしてみよう。

直系長子だとしても、必ず定期的にお子に恵まれない方がでてくる。

例えば、愛子内親王殿下が即位されることを想定して、それを考えてみると、

愛子内親王殿下がお子に恵まれなかったとした場合、

小林氏の論理だと、眞子内親王殿下、佳子内親王殿下、悠仁親王殿下と皇位継承順位が続くわけだが、

両内親王殿下は愛子殿下より年上であるし、悠仁親王殿下は五歳下となるが、

男女の平均寿命では微妙である。

つまり、直系長子継承であろうと、皇太子にお子が生まれなかったら、傍系に移行する過程で、

上で小林氏が述べているようなことは常に起こりうるということだ。

 

これを避けるためには、譲位の制度を復活させるか、

皇位継承順位を緩和させるなどの措置が必要になるということであって、

男系か女系か、直系長子かどうか、などという問題とは別次元の話である。

まったく違う話を織り交ぜて、自己正当化の論理を述べるという手法は、

典型的なプロパガンダ、刷り込みの論法である。

いまやそんなことをしなくてはならなくなっているのが、彼らの客観的な実情である。

 

●夫婦別姓とシナ男系主義

 

----------高森明勅----------

「シナ男系主義」を象徴するのが夫婦別姓です。

(中略)

ところが、日本の場合、文明的な体質が違うんですね。

ですから、それまではシナ男系主義の影響が浸透して別姓でしたが、

明治四年の太政官布告で「姓」は公式制度としては廃止し、

さらに明治31年の民法で夫婦は同姓になった。

(103頁)

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これはまったく歴史的な事実関係に基づかない記述となる。

日本の場合は「姓」と「家名」を区分していた。

これがシナ文系圏と決定的に異なる。

足利氏は八幡太郎義家につらなる正統な源氏の嫡系である。

姓は「源」であるが、家名はあくまで「足利」であるということだ。

源頼朝の妻である北条政子を例に挙げて、夫婦別姓が論じられることがあるが、

北条政子の姓は「平」である。

そもそもこういうことはシナ宗族制度ではあり得ないことだ。

例えば、足利家の家臣であった今川や細川は、足利の分家であるので、「姓」は源となる。

源→足利→今川という経緯である。

シナ文明圏である朝鮮半島では、「金」や「李」という姓は、

いくら分家しようが「金」や「李」のままである。

だから朝鮮半島や中国には同じ苗字の人間が非常に多い。

日本とは根本的に異なる。

明治以前はシナ男系主義の影響が浸透して別姓だったという高森氏は、

まったくの無知なのか、もしくは、わざとプロパガンダとして扇動しているのか以外に考えることはできない。

さあ、どちらでしょうか。

 

また、日本の歴史では「姓」の使い方についても、シナや朝鮮とは異なる事実が目立つ。

例えば、前田利家は豊臣秀吉から「羽柴」という姓をもらっている。

「羽柴」という姓を秀吉からもらった大名は数多くいる。

毛利は大江広元の末裔で、血統的な姓は「大江」であるが、

秀吉から「羽柴」姓をもらい、公式には「羽柴」を使用していたこともある。

上杉家にいたっては、元々は藤原の流れであるが、戦国時代には長尾景虎が上杉謙信となり、

江戸時代は吉良の血を受け継いでいる。

つまり、上杉家の血統的な姓は「藤原」→「平」→「源」と変化しているが、

上杉家当主の「姓」は、一時期「羽柴」を使っていた以外は「藤原」で通していたようだ。

 

シナ宗族制度の原則では「姓」をもらうなどという概念などは、

天地がひっくり返ってもあり得ない。

そういった独特の性質などもあって、日本の「姓」は、

血統的に受け継いでいる場合や、もらった場合、勝手に名乗っている場合など、

使い方が煩雑になっていたことで、明治になって苗字に統一したという経緯があるのだ。

明治になって単にシナ男系主義から離脱したなどという考え方は、

日本の姓のあり方や家名の歴史について知らない単細胞のような主張である。

 

----------高森明勅----------

夫婦別姓反対は、一面ではシナ男系主義反対と言っていい。

ですから別姓に反対する保守の人間が男系の縛りにこだわるのは、実は自己矛盾なんです。

(103頁)

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先に述べたように、夫婦別姓とシナ男系主義は何の関係もない。

日本にはシナ式の親族構造は入ってこなかったのは、歴史的事実であり、

日本独特の姓と苗字の文化が発展した。

嫁いだ女性はその家の人間になるというのは、日本独自の伝統的親族構造である。

夫婦別姓反対論は、日本の伝統的家族構造を破壊させるとして保守派は反対しているのであり、

シナ男系主義などまったく関係がない。

高森氏の主張は、保守派が主張する「夫婦別姓反対」と「男系護持」を対立させてやろうとする思想工作である。

まったく事実無根の論理を展開させて、保守派が自己矛盾であると錯覚させようとしているのだ。

残念ながらこんなものにひっかかるほど、日本の保守陣営は甘くない。

保守の論客たちは海千山千の強者ばかりである。

姑息な工作は背景があぶりだされ、自分の首を絞めるだけとなるだろう。

 

●男尊女卑について

 

----------笹幸恵----------

私は男尊女卑というのはあっていいと思っているのです。

むしろそういう世の中じゃないとうまく回らないとさえ思っています。

男尊女卑が文字通り、男性が尊くて女性が卑しいという意味の差別であるなら、

それは当然認められるものではないし、男であるだけで生まれつき優れているなどというのは、

今の世の中では受け入れられないことです。

しかし、私は“区別”は必要だと思っています。

そういう意味での現代版の男尊女卑ですね。

他に言い言葉が見つからないのでそう言いますが、区別は当然ある。

男性は力が強い。

他にも女性にはない、いいところがある。

逆に、女性にも男性にはない特性というか、良さが当然あります。

そこをお互いに尊重し合い、役割を認め合って支えあえばいいんじゃないかと。

男性は力を発揮して、女性はそれをますます手のひらで転がす、と。

これが現代版の男尊女卑。女は三歩後ろを歩いていればいいんだと私は思っているんです。

(116-117頁)

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笹さんは確かに良いことを述べていると思うが、

さらに保守的男女平等論者の私にとっては、まだ物足りない。

小林よしのり氏は「ゴー宣チェリブロ」で、櫻井よしこ氏のことをさして、

「保守といっても櫻井さん自身が現代合理主義の恩恵を受けていることについてどう考えるのか」

というような指摘をしていた。

櫻井さんは結婚して家庭を築いていないではないかということだ。

これを見たときに、小林よしのり氏は保守主義というものをまったく理解していないんだと感じた。

笹さんが「そういう世の中じゃないとうまく回らない」と指摘したことは重要で、

伝統的な男女の役割が秩序形成に含まれているという観点は欠かすことができない。

男性には男性の、女性には女性の役割分担が世の中の秩序を形成している。

 

そのことをふまえた上で、櫻井さんは男性の役割の部分で活躍されていると私は考える。

女性の中には女性の役割の中にとどまることのできない才能あふれた人が必ずおられる。

そういった人が、男性の役割のところに飛び込んで、活躍することについて

門戸を開いていくことが保守の寛容性であり、保守主義的な男女平等論であると考える。

そういった女性が、女性であるという理由だけで差別されてはいけないということだ。

 

ところがいま革新思想が中心になって進める男女共同参画社会というのは、

女性の役割でとどまりたいという多くの人に対してまでも、

男女を区別することなく、男性の役割のごとく働きなさいというか、

むしろ男女の役割が形成する秩序そのものを破壊し、新たな秩序を構築できると考える。

このように一概に男女平等観念といっても、革新思想が入っているかどうかでまったく違うのだ。

そもそも女性の社会進出を拒むことが右翼的であり原理主義と考えるなら、

とりあえず門戸を大きく開いておくのが保守であると考える。

そして、その前提を破壊するのが革新思想となる。

 

私は笹さんには、三歩下がって手のひらで男性を転がすなどということに留まってほしいとは思わない。

「本来、女性は三歩下がって男性を手のひらで転がすものだが、

私はあえて男性の役割のところで活躍したい」と語っていただきたいのだ。

日本のためには、櫻井よしこさんに三歩下がってもらっては困る。

男性的、あるいは男性以上の力を持っている人には、男性の役割で活躍していただきたい。

男性を手のひらで転がしたい女性には、どんどん転がせてもらいたい。

女性の役割に全うしようとしている女性に対して、

「男性の役割になりなさい、男女の役割を無くしなさい」というジェンダー論には断固反対する。

これが保守主義に基づく男女平等論だと考える。

 

●素晴らしい質問をぶち壊す

 

質疑応答の一幕で、一般の参加者から非常に良質な質問が投げかけられた。

 

----------質問者----------

私の立場はこれまでずっと男系論者です。

最近、小林先生の女系論を読んで、一部修正案を考えています。

男系絶対か、女系容認かという二者択一ではなく、折衷案として基本を男系に置きつつ、

言い方は悪いですが、“保険”として女系宮家を認めてはどうか。

(中略)

女系を容認した場合、愛子内親王が宮家を立ち上げて、配偶者を迎えられる。

その宮家と悠仁親王殿下の宮家が並立した場合、どちらに皇位継承順位の上位が与えられるのか。

私の考えでは悠仁親王に継承していただくのがいいと思うのですが、いかがでしょう。

(117-118頁)

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ものすごくまっとうな質問である。

女系容認論のなかでも非常に良識があると考えられる。

ところが、この質問に対する小林よしのり氏の第一声が

「あなたは設計主義的に頭の中だけで考えているんですね」

という開いた口が塞がらないような唖然とする発言である。

設計主義の意味をわかっているのか。

 

保守主義というのは理性を排除するものではない。

伝統を尊重しつつ、そのなかで理性をどのように活用するかということが大切なのだ。

この質問者の意見は、まずは伝統を尊重しつつ、

そうもいかない場合のために理性で準備をしておくべきではないかというスタンスである。

まずは二千年以上のこれまでのあり方をベースにすることが、なぜ設計主義なのか。

むしろ、直系第一子優先などというわが国の歴史・伝統に微塵も存在しない継承法が、

うまくいくと考えているのが、頭の中だけで考えている設計主義の典型である。

 

その発言のあと、天皇と国民は相思相愛関係の国体論を述べたあと、こういうことを述べる。

 

----------小林よしのり----------

今女性誌では愛子様はものすごく人気があるんです。

テレビでも悠仁様が誕生された時に特番を組んだんですが、

残念ながら視聴率が取れなかった。

愛子様の時は取れたんですよ。

これを単なるポピュリズムとして済ませていいのかどうか。

国民が何を望むかを考えてみてください。

「愛子様は女子だから、皇位継承は悠仁様に」と言った時に、

国民は「なんだ、愛子様じゃないのか」と、

男系主義者の意図とは逆に関心を失ってしまうのではないか。

(119頁)

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呆れてものも言えないレベルである。

百歩譲って旧宮家のことはいいとしても、悠仁親王殿下はどこからどう見ても、

二千年の歴史に照らして正統なる皇位継承資格者である。

悠仁親王殿下は天皇陛下の直系子孫である。

内孫のことを直系だとは思わない国民はいないだろう。

国民が悠仁親王殿下じゃ納得しないというのは、ポピュリズム以外に何と説明できるのだろうか。

 

視聴率が取れる・・・・。

前作『天皇論』はそういうことを一番に否定していたのではなかったのか。

人間というのは短期間にここまで変われるものなのか。

視聴率が取れるとか、取れないとか、そんな観点で天皇を決めて、

この先、何千年も皇室が続くと本当に考えているのだろうか。

もし本当に考えているのであれば、小林よしのり氏という人物は、

皇室について語る資格のない人間であると断言しておく。

 

----------小林よしのり----------

悠仁様が優先されることになれば、旧宮家復活とセットですから、

そこへ皇統を移したらどうなるか。

もし悠仁様の次ぎに男子が生まれなければ、

もう旧宮家から作った新宮家に皇位継承権を移すしかないんです。

それを国民が聞いたときに、

「なんか、“直系”からどんどん離れていくなあ」

「昭和天皇どころか大正天皇にも明治天皇にもつながっていない人たちだよな」

と国民が思い、皇室に対する求心力が失せていくと、本当の危機が訪れてしまうのです。

(119-120頁)

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悠仁親王殿下が優先されると、なぜ旧宮家復活とセットなのだろうか。

質問者は現在の皇室の枠組みの中で、男系を優先させてはどうかという主張であって、

それに対する答えにはなっていない。

質問者は悠仁親王殿下の優先と女性宮家のセットでは無理なのかという問題提起である。

ところが、小林よしのり氏の回答は、

悠仁親王殿下と旧宮家の復活のセットという話にすり替えている。

せっかく重要な問題提起であるのに、ごまかして台無しにしてしまっているのだ。

この質問者がその後に、どのような心境に至ったのか非常に興味があるところである。

 

また、上記の見解は小林氏の心の奥底にある気持ちの表れではないか。

悠仁親王殿下への継承の道筋が固まれば、

国民感情的にも女系天皇論は二度と日の目を見ることがないという直感である。

それならば愛子内親王殿下の人気がある今のうちに、

何とか女系論を展開しておかなくてはならないということだ。

なぜそのようなことをしなくてはならないのか。

小林よしのり氏の頭の中だけで考えた「天皇のあり方」を遂行するためではないか。

これぞまさしく設計主義以外の何ものでもない。

 

●露骨な刷り込み

 

----------高森明勅----------

新旧典範は共に直系主義であり、前近代でも直系優先は大切な原則でした。

今後も直系優先は維持されるべきだろうと思います。

(122頁)

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旧皇室典範は、直系男子に皇位継承資格者が不在となれば、

伏見宮系皇族が継承することになっていた。

おそらく「皇族降下準則」を持ち出して反論するのだろうが、

それについては、すでに山のように立証している。

それ以前に、旧典範でも新典範でも

悠仁親王殿下より愛子内親王殿下及び女系が優先される理屈は導くことはできない。

前近代でも直系が優先されたのは、傍系に対して直系が優先されたのであって、

男系の傍系より女系の直系が優先されたなどという事実は一例もない。

皇位継承の基軸となる原則はどちらなのかは、火を見るより明らかである。

 

皇室の歴史について知っている人間なら、ほとんど引っ掛かることはないが、

一般人相手にこのような刷り込みを繰り返しているのだろう。

我々は以前に刷り込みを繰り返した「道場」を知っている。

そのうちヘッドギアをつけたりしないか他人事ながら心配する。

 

真実は一つである。

刷り込まなければ勝てないような論理は、二千年の伝統の前にすべてが崩れ去る。

DNAに国体・伝統を重んじる本性が刻み込まれた日本人の前には無力と化すだろう。

 

 

 

 

 

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