英米法学とドイツ系法学
政治思想における保守主義とは、英米法の考え方を重んじることにあるが、
英米法とは何かというと、国家には長い時間によって築き上げられた伝統・慣習があり、
それを“法”と呼び、人間が制定する“法律”と区別する。
“法”とは一世代の人間に作れるものではなく、
その国の伝統・慣習の中から発見するものである。
基本的には主権という概念はなく、
あえて述べるとすると主権は“法”のみに存在すると考える。
“法”こそが憲法であり、“法”に基づく政治を立憲政治と定義した。
一方、ドイツ系法学というのは、立法者の意志という概念が存在する。
フランス革命を正当化させるためにシェイエスが考え出した
“憲法制定権力”がその中心理論となる。
国王が立法者意思を持てば絶対王権の憲法となり、
国民が立法者意思を持てば国民主権の憲法になると考えた。
そこから憲法学が発展し、二十世紀、カール・シュミットによってその憲法理論が完成された。
それは
<
政治的意思としての憲法制定権→
憲法→
憲法律→
憲法律で付与された改正権>
とする定理となった。
これを“法段階説”という。
英米法がいう「法の支配」とは、伝統・慣習に基づく“法”に基づき
すべての法律が定められることであり、
あらゆる権力機関、例え絶対君主であろうと、“法”の下にある、という考え方である。
一方、ドイツ系法学でいう「法の支配」とは、あらゆる権力機関が
憲法制定意思に基づいて作られた法律に服さなければならないということ。
似ているようでまったく異なる。
伝統・慣習に基づく“法”に基軸を置くか、
人間による憲法制定意思に基づく“法律”に基軸を置くか、である。
明治までの日本は、国制を定める明文の憲法というものがなく、
不文の“法”が憲法として世の中の秩序を形成していた。
明治になって近代国家として成分憲法を定める必要性に迫られたが、
本来、日本に近い環境にあったイギリスは、
成文憲法を持っていなかったとから参考にすることができず、
プロイセン(ドイツ)憲法の影響を受けることになった。
しかし、大日本帝国憲法を起草した井上毅は、英米流の「法の支配」を熟知しており、
これから制定しようとする憲法に、「古事記」「日本書紀」からの
国の成り立ちを表そうと努力した。
それでも、あくまでプロイセン憲法の影響を受けたことと、
当時はドイツ法学が最先端だったことから、
日本国内の法学は、ドイツ系法学が主軸を占めることになった。
ドイツ系法学とは、まさしく憲法制定意思が重要視されるものであり、
そこから憲法改正限界説が発展した。
憲法改正限界説とは、「限界を超えてはならない説」というように思いがちだが、
実際はまったく異なる。
むしろ、限界を超えることを前提につくられたものだ。
あえて例えるなら、「約束は破るため存在する」といったようなことだろうか。
破るためにあえて約束をつくる。
これまで国王にあった憲法制定意思(制憲権)が、その限界点を超えて国民に移行した。
そこの限界点を超えたことによる、国民主権の正当性を説いたのであった。
定義により限界点を設定し、それを超えたことを説明することにより
自分たちの立場の正当性を導く論理なのだ。
そして、それが
<
@政治的意思としての憲法制定権→A憲法律→B憲法律で付与された改正権>
として確立された。
戦前の日本は、ドイツ法哲学が中心だったので、改正限界説が通説であった。
内実は左翼論理であっても、@の部分に天皇を当てはめれば問題なく成立したので、
天皇の統治権を示す憲法、欽定憲法として定義付けされた。
ところが、大東亜戦争の敗戦により占領され、GHQによって憲法改正を余儀なくされた。
それによってできた憲法が、民定憲法の形態をとっていたため、
憲法学上、大問題が起こったのだ。
国内の通説は改正限界説だった。
もう一度、憲法制定権力の構造を見てみよう。
<
政治的意思としての憲法制定権→
憲法律→
憲法律で付与された改正権>
改正限界説によれば、憲法制定権と憲法改正権を明確に区別することになる。
憲法の改正権とは、憲法制定権によって派生した憲法律の一部分に過ぎず、
憲法そのものを変えるという憲法制定権の要素は含まれない。
これが改正限界説の根幹である。
改正限界説に立てば、欽定憲法の改正による制定物は欽定憲法に限定されるべきであり、
欽定憲法の改正により民定憲法ができるのは理に反する。
そこでわが国の憲法学者は、帝国憲法と現行憲法の間には法的断絶が発生し、
現行憲法は帝国憲法と関係性のない新しい憲法として誕生したのだと考えた。
これがいわゆる「八月革命説」である。
憲法制定権に立脚した改正限界説に立つ以上、
八月革命説が通説になるのは自然の流れだ。
私は憲法無効説に対して、「帝国憲法違反=現行憲法無効」にはならないと指摘した。
なぜなら憲法が最高法規である以上、それを無効にする法的根拠が存在しないからだ。
すると、無効論者から「それは革命を正当化する論理」だという批判が返ってきた。
「憲法典の上に憲法なし」ではなく、国体という憲法典の上位規範が存在すると述べるのだ。
これがまったくの見当違いの反論であることは、すでにおわかりだと思う。
そもそも改正限界説が革命を正当化する論理であるからだ。
改正限界説の基本は、限界を超える改正が起こりえないと考えているのではなく、
改正の限界を超えた場合は、法的断絶が発生し、
前の憲法と異なる根本規範に立脚した憲法が生まれた、と考えるのだ。
つまり、改正限界説に立つことにより、憲法は最高法規であるから、
改正限界を超えた場合、改正前と改正後の憲法は対等関係となって、
「後法は前法を破る」という原則により、新憲法が有効となるのだ。
ここで規範国体を持ち出しても、何の意味もないことはおわかりだろう。
改正限界説の定理は、
<@
政治的意思による憲法制定権→A
憲法律→B
憲法律で付与された改正権>
であるから、規範国体というのは@の上位規範であり、
改正の限界を超えるというのは、
@の部分が違う規範による意思に入れ替わるだけだから、
そこでいくら規範国体を持ち出したところで、
規範そのものが変わってしまっているのだから何の意味もないのだ。
規範がA→Bに変更したとき、A=Bは対等関係になり、
「後法が前法を破る」原則により、Bが新憲法として成立する、という構図なのだ。
したがって、「憲法違反=憲法無効」ではない、という私の指摘に対して、
「それは革命を正当化する論理」と言ったところで、
天につばを吐いて、自分の顔にかかる、という結末になるのだ。
繰り返し述べるが、改正限界説はそもそもが革命を正当化する論理である。
また、ドイツ系法学は主権論が重要となり、「憲法制定権力=主権」となる。
無効論者は、改憲論者を「国民主権論者」と罵るが、
改正限界説を採用している段階で、主権論に組み込まれている。
国民主権論でないのであれば、天皇主権論者(天皇=憲法制定権者=欽定憲法)となり、
天皇主権から国民主権へ移行したという八月革命説を裏付けていることになるだけだ。
結果的にあさっての方角に向かって批判しているのと同じとなっている。
一方で、改正無限界説は、無限界に何でも好きなように改正できる制度ということではなく、
勝手に誰かが限界点を定義しないことにある。
無限界説というよりも「非限界説」(限界説にあらず)と表現した方が適切ではないだろうか。
そもそも憲法制定権力を認めないし、
憲法は伝統・慣習によって積み上げられてきたものであり、
制定できる権力はどこにも存在しないと考えるのだ。
その立場から帝国憲法と現行憲法の関係を考える場合、
欽定憲法や民定憲法といった憲法制定権の定義に左右されず、
純粋に中身だけで判断することになる。
憲法を起草するときには、伝統・慣習を基礎として、
祖先と歴史を共有できることが必要条件であり、
過去からの連続性と対立しない解釈を施さなければならない。
そのことをふまえると、日本国憲法は、第一条が存在することにより、
かろうじて国体は尊重され、
また、過去からの連続性と対立しない解釈によって運用することにより、
とりあえず有効と考えるとができると考える。
具体的には帝国憲法と日本国憲法を比較した場合、
天皇の役割はほとんど変わっておらず、天皇と国民の関係は一切変更していない。
変更したのは、重臣が決めていたことなどの一部が、国民や国会に移動しただけ。
一部政体が変更しただけと考えられ、憲法の本質的なところは共通する。
ただし、なるべく早いうちに、日本人だけの手によって、
より歴史・伝統を反映した憲法を制定することは望まれる。
憲法論議の結論としては、ドイツ系法学を継承し、
そもそもが革命を正当化する論理である改正限界説を採用する憲法無効説からの
「革命を正当化する論理」などという反論は、自家撞着であって、成り立たない。
改正限界説から近代法学に対する批判は不可能となる。
さらには、批判の根拠として規範国体を持ち出す場合は、
改正無限界説でなければできない。
改正限界説は、限界を超えた改正が行われないことを予定しているわけではなく、
むしろ物理的に根本規範が変わることを前提に成り立っている理論ので、
根本規範が変わったときに、元の規範を持ち出しても何の意味もなく、
「後法が前法を破る」ことにより、新しい規範が優先されるだけとなる。
したがって、憲法無効論はやはり、どこからどう見ても破綻している。
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