保守主義とデモクラシー
マスコミでは民主主義(デモクラシー)は
普遍的価値であるようなことがよく述べられている。
しかし、民主主義とはなんぞやという問題については
根本的なところは誰も語ることはできないのではないか。
たとえば、議会制民主主義という制度や
アメリカの大統領選挙は民主主義を抑制しているということを、
どれだけの方がご存じだろうか。
アメリカ大統領選挙は直接投票ではなく、
間接投票だ。選挙する人間を選挙するという、
回りくどいことをすることにより、直接民主主義を抑制しようとする。
アメリカはあまり好きなれない要素が多々あるが、
建国者たちは保守主義を徹底的に理解した哲人たちであった。
合衆国憲法には国民主権なる要素はまったく含まれていない。
代議制民主主義もまたデモクラシーを抑制している。
A、B、Cと様々な政策があるなかで、一つ一つに意志決定を求めるのではなく、
代議士ひとりに集約して投票する。
そうなると、代議士の人間性や思想哲学が重要視されなければならない。
つまり、国民の民意と国会の意志とは必ずしも一致することではない。
そうかといって、いつ解散になるかわからない衆院議員は
目先の大衆意志に惑わせられることが大いにあり得る。
だから、解散がなく、衆院より長い任期をまっとうできる参議院というものが一方にあるのだ。
つまり、そもそも議会制度というのは民主主義、
瞬間的な大衆意志を抑制する仕組みになっている。
世論調査が日々変動していることからわかるように、
瞬間的な大衆意志に政治の正統性を委ねることはできないのだ。
では、民衆の意志に正しさを求めることができないのであれば、
議会制による政治の決定の正しさは、何が担保するのか。
それは、先人の叡智の積み重ねである国体(法)に背いていないかどうかである。
長く続けるということを簡単に語る人がいる。
それは数年や数十年の話だ。継続というのは意外に難しい。
たとえば、我が家では食事の前に
「いただきますを10回唱和してから食べよう」という決まり事をつくったとする。
数十年続けばすごいものだ。
世代にまたがって数百年できるだろうか。
家や地域には数百年続けているような儀礼や祭りが何気に存在するが、
それは結構すごいことでもある。
逆にいえば、正しくないものは絶対に長く続かない。
共産主義や社会主義は百年もたたずして崩壊したし、
北朝鮮という国が数百年も続いていくわけがない。どこかで誰かが止めるだろう。
人間というものは不都合なものを排除する本性を持っているからだ。
2670年もの間、同じことが繰り返されているというのは、
世界史的にみても神がかり的な偉大なことで、
世界的には驚愕されているという事実も知る必要がある。
小林よしのり氏は
「わしが考えるのは、未来永劫皇室がどうやったら残っていくかということだけだ……
だから女系容認論になった」ということだが、
あなたの言っていることは、先の例え話でいうと、
食事の前の合掌を10回から5回にすれば、残りやすいのではないかと述べているに過ぎない。
小林さんの皇位継承論は唯物論的である。
ただ物理的に継承できればそれでいいと述べているに過ぎない。
そんな考えでこれからも本当に長く続くのか疑問である。
無事ここまで長く続けられてきたことにもまた先人たちの叡智がある。
長く続けるということは簡単ではない。
小林よしのり氏の天皇陛下に対する恋闕の情は確かであると信じよう。
しかし、水島社長がいう、125代続く2670年間の天皇に対する
"畏れ"というものがまったく感じられない。
天皇に対する"恋闕"と"知性"だけが小林氏の結論を導いている。
これが水島社長と小林氏を分ける根源的な部分であるように思う。
皇統維持ということについては、
そもそも一定の時期に危機的な状況が到来するものなのかもしれない。
その時々に危機を乗り越えて正統性が保たれていると考えることもできる。
その継承の過程にさえ、人間の知性など及びもしない要素が含まれている可能性が高い。
安易な知性が正統性を失わせることになると、
それこそが未来の皇室存続を危うくすることにもなる。
ここで先人たちの叡智を拝借しながら、ひとつ危機を乗り越えることで、
そのことが未来の日本人にとって、正統性を受け継ぐことの理解につながり、
後世に叡智を残すことになるのではないか。
己の理性の限界を知る。長く続けられている時間の正統性について謙虚に耳を傾ける。
これが保守思想の出発点だ。
出発点を見誤った論理は、いずれ破綻するのは自明の理となろう。