保守主義とは

 

 

「保守系」「保守派」というと、どういったことをイメージされるだろうか。

「憲法9条改正」、「大東亜戦争肯定」、「外国人参政権反対」などが思い浮かぶだろうか。

「保守」というと、ある特定の主義・主張を持っている人たちの

総称のように考えている人が多いのではないかと思う。

チャンネル桜で放送された「ゴー宣チェリブロ」のなかで、

笹幸恵さんは、保守というものが何だかわからないという発言を行っていた。

笹さんは戦死者の遺骨収集を行っている豪傑である。

このことが我が国の「思想」の状況を物語る事実であるように思える。

 

日本の保守の旗印である、「自主独立」、「過去の戦争の肯定」、「外国人参政権の否定」などは、

中華人民共和国や旧ソ連では、すべて要件を満たしている。

中国は核兵器を保有しているし、シナ事変も正当化しているし、

外国人参政権どころか、自国民の参政権すら否定している。

 

日本の左翼は、「憲法9条を守る」、「平和主義」と言うが、

そのようなことを述べた共産主義国家は一つも存在しない。

日本の左翼が言っていることは、左翼思想とはまったく関係がなく、

日本を弱体化させるためのものに過ぎない。だから思想とは無関係なのだ。

こんなものに対抗する考えが、「思想」となるはずもない。

 

日本では「保守」というのは、単なる固有名詞として使用されている場合がほとんどだ。

しかし、元来、「保守」というのはそういうことではなく、

文字通り「守るべきものがある」ということである。

では「保守」とは何を守るのか。

 

昨今、メディアでは連日のごとく世論調査なるものが行われている。

代表的なものでは内閣支持率などがあり、個別の政策や問題についても、

賛成or反対というアンケート調査のようなものを繰り返している。

かつて首相になってほしい人という世論調査で、田中眞紀子が断トツでナンバー1という時代があった。

現在、田中眞紀子に総理大臣になってほしいという人はどれくらいいるだろうか。

世論というものはそういったものであり、これが人間の理性である。

現在の国民世論が末代まで正しいなどという保証はどこにもないし、

国民世論などというものに正統性を求めることなどできない。

人間の理性などフラフラとした脆弱なものなのだ。

 

だからこそ、幾世代もの長い時間において、取捨選択から耐え抜いた「伝統」こそが、

不完全な人間の拠り所となるのである。

伝統は国や社会の安定装置と言って過言ではない。

さしあたって伝統を尊重していくことが、国や社会の安定につながる。

 

人間は理性的生き物ある。もちろんのことながら理性を否定することなどできない。

しかし、理性に対して慢心すれば、必ず同じ失敗を繰り返し続けていくことになる。

そうならないための智惠が「伝統」ということになる。

「保守」とは何を守るのか。

理性による奢りを戒める「伝統」を守ることに他ならない。

ここを理解しているかどうかということが、保守であるか、

そうでないかの究極の分かれ目であると考える。

 

125代、2600年以上、一貫して続く伝統に対して、

「なぜ天皇は男系でなければいけないのか?この質問に対して明確に答えた人は未だ一人もいない。」

(『SAPIO』5/26号)

という発言がどういうことなのか、

正しい保守思想を身につけている人にとっては、あまりにもわかりやすすぎるものではなかろうかと思う。

 

 

 

 

 

 

 

もどる