憲法無効論の議論は不毛である
日本国憲法成立の法理という言葉をご存知でしょうか。
あるいは日本国憲法誕生の法理とも言われます。
日本国憲法成立の法理とは、日本国憲法が存在する法的正当性は何かということです。
わが国の憲法学界では、日本国憲法成立の法理について、
大まかに3つの学説があります。
@改正憲法説
A八月革命説
B憲法無効説
日本国政府の立場は@の改正憲法説です。
大日本帝国憲法(以下、帝国憲法)の改正によって誕生したのが
日本国憲法であると考えます。
日本国憲法は大日本帝国憲法の改正憲法であるということです。
例えば、民法を改正すると、改正民法として法的連続性は維持されます。
憲法も同じで、大日本帝国憲法を改正憲法として法的連続性があると考えます。
一方で、憲法学界の通説はAの「八月革命説」です。
憲法改正には限界があり、帝国憲法を改正して日本国憲法とすることは不可能である。
内容がまったく異なるので、これはもはや改正とは呼べない。
GHQによる占領期間中の昭和21年に行われた憲法改正は、
「改正の限界」を超えていると考えます。
そして、憲法改正の限界を超えてしまった場合は、
改正手続きを経たといえども法的連続性は途絶え、
改正前の憲法と関係のない新しい憲法が成立したことになります。
民法を改正して出来たものが商法であれば、それは改正民法ではなく、
違う法律に変わったのであり、改正ではなく一から商法を制定したことになると。
すなわち帝国憲法と日本国憲法は法的に断絶したという考え方になるのです。
これを「法的な革命」と表現しました。
新旧憲法の間で法的な断絶が起こり、
昭和20年を境に日本国家は断絶したという結論になります。
これが八月革命説です。
憲法無効説は、考え方の根っこは「八月革命説」と同じで、結論だけが異なります。
国際法違反かつ改正の限界を超えた憲法改正は無効であり、
日本国憲法に効力はなく、無効であると考えます。
八月革命説では、憲法改正の限界を超えた場合は、法的な革命が生じたとみなしますが、
憲法無効説は、新憲法を無効とみなします。
法的革命か無効かというところで結論だけが異なり、そこにいたる考え方はまったく同じです。
戦後すぐ、日本を代表する憲法学者であった宮沢俊義は、
その憲法改正の限界を超えた原因に昭和20年8月のポツダム宣言受諾があったとして、
「八月革命説」を唱え、その弟子たちにより東大憲法学として発展・定着しました。
東大憲法学と憲法無効説は、日本国憲法がわが国の憲法であるという前提に立てば、
国体は断絶しているということで一致しているのです。
ただ憲法無効説は、現行憲法の効力は認めないので、
国体は断絶していないと主張しています。
もし、日本国憲法が「憲法」であるなら
戦前と戦後は法的に断絶している(革命)というところでは、
東大憲法学も憲法無効説も一致しています。
憲法無効説は愛国的観点から善意で主張しているのでしょうが、
先進主要国である日本が、国家として日本国憲法を「憲法」として運用しているこの現実の中で、
憲法だったら日本の国体は断絶しているなんて主張は、
結構危なっかしくはありやしませんか、というのが私の指摘です。
今の日本国憲法が「憲法」なのかどうか、
という点に絞って議論をすれば憲法無効説はかなり分が悪いでしょう。
日本国政府は戦後一貫して日本国憲法がわが国の「憲法」という前提で動いてきました。
国会は日本国憲法が前提に存在します。
国会議員の存在根拠は日本国憲法です。
最高裁判所は日本国憲法がわが国の憲法という前提で、相当の数の判決を出しています。
この現実の中で憲法ではないことを立証しなければ、
国体断絶を受け入れることになるというのは相当非現実的で、危険な思想となるのです。
一方、「改正憲法説」は、昭和21年の憲法改正は有効であると捉え、
今の憲法に不満があっても、国体断絶ではないという主張であり、
改正してもっとしっかりした憲法にしようとするもので、安定した危なくない主張です。
「改正憲法説」対「東大憲法学」の議論となれば、
論点は国家が法的に断絶しているかどうかということになります。
そうなると、改正憲法説は現実に沿った考え方になるので、議論は有利に展開できます。
政府の公式見解は戦前戦後で国家は断絶せず、一貫して続いているということであり、
第97代安倍晋三内閣総理大臣は、初代伊藤博文から数えてのことであり、
最近行われた第47回衆議院選挙は、
大日本帝国憲法施行直後の明治22年に行われた第1回衆議院選挙から数えてのことです。
現実には何も断絶など起こっていません。
ここを論点に真剣な議論が繰り広げられれば、おそらく「改正憲法説」が有利となるでしょう。
一方、「憲法無効説」対「東大憲法学」の議論となれば、
日本国憲法が「憲法」かどうかという点に絞って争うことになり、
日本人の99・9%以上が憲法と認識して運用されている現実の中で、
それが憲法ではないというのは非現実的な主張となり、
一般論として受け入れられることは難しいでしょう。
その結果、この議論に敗れ去り、当然のごとく現行憲法が「憲法」として認められ、
八月革命説が正しいということになれば、
国体は断絶したという八月革命説をベースとする戦後体制そのものが定着してしまうのです。
憲法無効説は、日本国憲法成立の違法性ばかりを論じていますが、
憲法というのは出来てしまって、国家が運用し、
妥当性と実効性を持ってしまえばそれで有効となってしまうのです。
憲法学では前憲法からの違法性と効力論は別の話となります。
フランスでも、第四共和国憲法の改正から成立した現在の第五共和国憲法は、
憲法裁判所から違憲判決が出されましたが、
憲法が法体系の頂点であるという性質上、それを制することはできず、そのまま続いています。
前の憲法との「違法性」と、現実に動いているという「妥当性と実効性」が天秤にかけられると、
妥当性と実効性が優先されてしまうのです。
憲法無効論者が、いかに現行憲法が無効であるかという理由を並べたてても、
東大憲法学からすると「だから何?」ということになります。
それらについて東大憲法学からは何ら異論はありません。
ただ、結論は無効なのではなく、
日本国憲法は明治の憲法とまったく関係のない憲法であるという
現通説を補強することになってしまうだけです。
憲法無効説には「法学論」としての議論と、「政治論」としての議論という二種類あると思います。
法学上の議論については前述の通り、憲法無効説にまったく学術根拠はありません。
政治論であるなら、憲法改正によって日本国憲法を一言一句消し去ることで納得できるはずです。
憲法無効説は、本来、政治論上の話であるべきものを、
憲法学を知らない人たちによって法学論のような顔をして出てくるから
話がややこしくなるのだと思います。
私は政治論としても現行憲法有効論ですが(もちろん護憲論ではありません)、
政治論としての有効・無効論には興味がありません。
やりたい人は好きにやっていただいたらいいと思いますが、
そのエネルギーを護憲派左翼に向けた方が、よほど生産性があるようには思うところです。