憲法制定権と八月革命説
主権(憲法制定権)の変更と改正限界説について、
少しだけマニアックな話をさせていただきます。
戦前からの憲法学における通説は、「憲法改正限界説」となります。
「君主主権の憲法」を改正するにはその「君主主権の憲法」の枠を超えることができない。
超えてしまった場合は、それは改正とは呼ばず、新憲法の制定となります。
それに対して京大憲法学では憲法改正“無限界説”が唱えられました。
佐々木惣一博士によると主権者は自らの意思で主権者を変更することも可能だと。
私は東大憲法学派ではありませんが、
京大憲法学派の無限界説について東大派は次のように反論するでしょう。
憲法制定意思>憲法典>憲法改正権
これはカール・シュミットの憲法論です。
憲法改正権というのは、憲法制定意思に基づき憲法典で付与された権限なので、
新たな憲法を作り出す権限は含まれない。
よって憲法改正による主権の変更は、
憲法典に付与された権限を超えており、改正によってはできない。
やってしまえば改正ではなく、新憲法の制定になる。
「憲法制定権力」の存在を前提とする以上、東大憲法学のほうが理にかなっていると思います。
だから、今も通説であり続けるのでしょう。
東大憲法学が通説なのは、憲法学者が左翼ばかりなのではなく、
真面目に勉強したらそういう結論になってしまう構造なのです。
佐々木惣一博士の見解は、「憲法制定者には自殺する権限もある」みたいな話で、
ちょっと法学一般論としては受け入れられにくいところがあるのではないでしょうか。
憲法制定権力を認めている以上、そうなってしまうのです。
それよりも、憲法学テキストの最初に書かれている
「実質的意味の憲法」、「形式的意味の憲法(憲法典)」といった表現を活用・強調すれば、
八月革命説は覆すことができます。
主権(憲法制定権)というのは、制度上設けているだけに過ぎず、形式的意味の憲法に含まれる。
天皇が国家の中心に存在するということは、実質的意味の憲法は変動していない。
したがって、大日本帝国憲法から日本国憲法への変更は
改正の限界は超えていない、と考えることもできるでしょう。
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