憲法に無効という法理はない



私は現行憲法有効説という立場にはあるものの、

なるべく客観的に物事を見ていこうと思っていますので、

憲法論について冷静に整理してみようと思います。

確かに占領期間中の憲法改正には違法性があります。

そのことは客観的に認めざるをえないでしょう。

それでは、その違法性というのが決定的な無効要因なのかと言えば、

必ずしもそうとはなりません。

無効、取消の疑義はあるが、有効に成立したと言える余地はあります。

そして、決定的なのはむしろ、主権回復後に、

日本国憲法を国家の憲法として運用したことです。

それにより、違法性の疑義は払拭されたと見るしかないのです。

法学上、憲法というのは法体系の頂点なので、帝国憲法と現行憲法は対等となります。

改正前と改正後の憲法は対等です。

改正後の憲法が下ではありません。

そして、この対等である新旧憲法は連続しているか、断絶しているか、

という二者択一になるのです。

無効であると主張すればするほど断絶しているという

東大憲法学をサポートするだけになってしまいます。

憲法に無効という法学理論は存在しないからです。

法学上、「無効」という概念が登場するのはだいたい下記の二種類となります。


@上位法に下位法が違反する場合

A条文に無効規定がある法律行為


@は憲法に違反する一般法です。

例えば、民法の条文が憲法に違反した場合、下位法である民法の条文は無効となります。

Aは相手がある場合です。

例えば契約の無効など第三者に対しての主張となります。

では憲法の無効というのは現在において誰が誰に主張しますか?

まさかアメリカに主張するわけではないでしょう。

そうです。憲法というのは一人称なのです。

自分自身の問題。

例えば個人で考えた場合、自分が作った家訓を自分が無効だと言っていたら

頭のおかしい人ですよね。

これが一人称です。

じゃあ、他人に監禁されて、脅迫により家訓を変えられてしまったとする。

これは法的に問題があります。

第三者に対しては無効主張が可能です。

しかし、監禁状態から脱して晴れて自由の身になったとき、

どんな家訓にするかは自由です。

脅迫されて作らされた家訓をそのまま使うのも、捨て去るのも自由です。

それなのにさんざん家訓としたあげく、かなり時間が経ってから、

突然、この家訓は無効だなんて言っていたら、それも頭のおかしい人です。

家訓が気にくわないのであれば変えたらいい、というのが世界の常識。

自分のことだから。

これが一人称。

日本国憲法が気にくわないのであれば、変えたらいい、それだけで終わる話。

ただし、日本のような歴史のある国家はなるべく法的な断絶は起こさない方がいいので、

最初につくった憲法からの連続性を大事にしよう、というのが改正憲法説の論理です。

憲法無効論者が本来やらなければならない最大のポイントは、

日本国憲法が国家の憲法として効力を持っていないことの立証です。

これまで憲法無効論者は、

帝国憲法改正の違法性の主張さえしていればOKだと考えていたのですが、

それでは法学論として成り立ちません。

天皇陛下、内閣総理大臣、国会、最高裁判所、国民の99・9%以上が、

日本国憲法を国家の憲法と認識して運用しているこの現状で、

どのようにして日本国憲法に憲法としての効力がないことを立証するのか。

感情論としてだけ無効と言うのであれば、

そんなのは床屋談義であって、政治に何の影響も与えません。

何度も述べていますが、感情論として無効だと言いたいのであれば、

改正によって一言一句日本国憲法を消し去ればいいではないですか。

なぜそれではダメなのですか。

まともな憲法学を体得していない人が、

法学論のように憲法無効論を言い出したことが、そもそもの間違いなのです。

感情論と法学論を混同しないこと。

日本国憲法が国家の憲法としての効力がないなどという立証は夢物語だと思います。

そんなことをやっていれば左翼だけでなく世間一般からもバカにされます。

日本国憲法は名実ともに憲法である事実は揺るぎようがない。

そこで、わが国の憲法として認めざるをえない日本国憲法の正統性は何かということを考えたとき、

帝国憲法の改正にあるということを再確認しなくてはいけないのです。





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