理論より現実



法律の雑学について少しだけお話します。

憲法論にも大きく関係があります。

法学の世界では理屈では説明できないような事態がしばしば起こります。

一番よく知られる代表的なものが、民法にある「即時取得」(民法192条)という規定です。

例えば、AさんがBさんにカメラを貸しました。

ところがBさんはそのカメラを自分のものであると偽って、Cさんに売り渡してしまいました。

この事実が問題となった場合、カメラの所有者は最終的に誰になるでしょうか。

Aさんがカメラの所有権を失うとなると気の毒ですね。

貸したカメラを売られてしまった被害者ですから。

Cさんがカメラを取得できない場合も気の毒です。

Bさんが持ち主であると信じて買ったのに。

この場合、AさんとCさんのどちらが優先されるか。

民法の規定ではCさんが優先されます。

Cさんは、いわゆる「善意の第三者」です。

法律は基本的に善意の第三者を保護するようになっています。

(※一部例外はあります)

カメラを勝手に売られてしまった可哀想なAさんより、

なぜ善意の第三者というだけでCさんが優先されるのか。

答えは、「取引の安全」を重視するからです。

取引の安全とは法律用語です。

要するに、「公の秩序」を第一に考えるのです。

Bさんがカメラの持ち主であると信じたCさんの契約が取り消されるのであれば、

今後世の中の人は、安心して取引ができなくなってしまうからです。

モノを買うたびに本当の持ち主なのかどうか、いちいち疑わなくてはなりません。

そんなことをしていたら世の中が成り立たなくなります。

AさんとCさんを比較して、Cさんが気の毒だから軍配を上げたのではなく、

Cさんの背後にいる今後モノを買う人全員(公の秩序)に対して軍配を上げたということです。

しかし、この規定が法律論として論理的に説明できないのです。

AさんはBさんにカメラを貸しただけなので、カメラの所有者はAさんです。

Cさんは所有者ではないBさんからカメラを買いました。

そもそもBさんに所有権はないのだから、所有権はCさんに移りようがないのです。

Bさんは所有者ではないので「無」です。

Cさんは所有者になったので「有」です。

「無」から「有」が発生することの理屈が説明できないのです。

しかし、民法の規定で所有権がCさんに移ると定めています。

このことについていくつもの学説が出て、争っています。

バカバカしいでしょう?(笑)

これは確かに言葉遊びのような印象です。

現実にはCさんが持ち主になっているのですから。

これに近いことが昭和21年の憲法改正についても行われたのです。

憲法改正により帝国憲法(天皇主権)から日本国憲法(国民主権)に変わりました。

しかし、天皇主権の憲法を改正する対象物は天皇主権の憲法しかありえない。

天皇主権の憲法を改正して国民主権の憲法になるというのは理屈では説明できないのです。

自分をイメチェンしたら、イメチェン後の自分は当然自分ですよね(笑)

ところがイメチェンしたら他人になってしまった、というのがこの議論です。

憲法改正したら違う憲法になってしまったと。

この理屈が法学上説明できないと言っているのです。

外国では「君民対立」が基本の構図ですから、

国家が戦争に敗れてこのような事態になれば王制は廃止され、国民主権の革命となります。

日本の場合は、ポツダム宣言の受諾にあたり国体は存続できるのかと連合国側に質問したら、

バーンズ回答では「それは日本国民が決めることだ」と回答しました。

これについて日本は好意的に受け取りましたが、相手側は悪意だと思います。

普通の国ではこのような状況下で国民の自由意思で決めれば王制は廃止されるのです。

ところが、日本は世界で唯一の「君民一体」の国だったので、

奇跡的に天皇は残ることになった。

世界の常識では異例の事態が起こったのです。

だから法学では説明できない憲法改正になってしまったのです。

そこで、帝国憲法を改正して日本国憲法になったのは、改正手続きをとったものの、

実質は改正ではなく帝国憲法と関係のない新憲法の制定だ

、国体は断絶したと主張したのが八月革命説です。

こんなのは言葉遊びであって、バカバカしい話というのはわかります。

君民一体の国体には通用しない話です。

帝国憲法を改正して日本国憲法となっても、

現実には天皇は同じように日本国の中心に存在している。

国体は紛れもなく存続しているのです。

理論より目の前の現実を重視するのが「改正憲法説」です。

現実より理論を重視したのが「八月革命説」です。

さて、憲法無効論はどうでしょうか。

憲法は改正されても、現実には戦前も戦後も国家の中心に天皇陛下がおられ、

日本国は連続しているにもかかわらず、この現実(日本国憲法)は無効だと言っています。

現実よりも理論に持ち込もうとしているのです。

現実を無視して理論に持ち込んだら、

まず八月革命説(東大憲法学)に勝てませんよ、と私は言っているのです。

ファンタジーの議論では勝ち目はありません。

改正憲法説は理論を軽視しているのではなく、現実から理論を構築しているので、

現実無視の八月革命説には負けません。

理論より現実。

これは保守の大原則です。





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