やるのは人間
先ほども述べましたが、改正は無理でも、無効ならできるというのは幻想です。
改正ができない人間がやる無効確認などろくでもない結果を生みます。
同じく、無効確認できない人間の改憲案などしれたものでしょう。
何度も言いますが、やるのは人間です。
改憲(自主憲法制定)ができれば、無効確認もできます。
改憲ができなければ、無効確認もできません。
憲法無効論者は帝国憲法に対する尋常ならぬ羨望がありますが、
所詮は憲法ごときです。
「帝国憲法にさえ戻れば」と言っているのは、
「憲法9条さえあれば平和」と言っていることの裏返し。
所詮は憲法ごときです。
近代憲法とは、君民対立の国で、
絶対王制を制限することを目的に生まれてきたものです。
本来であれば君民一体の国である日本では、憲法など必要がなかった。
近代化に遅れた日本は、西洋から近代国家として認めてもらうために憲法を制定したのです。
それが大日本帝国憲法です。
そもそも日本人にとって近代憲法は必要なかったので、
日本人は憲法と言われてもピンとこない。
だからアメリカ人が作った憲法でも、
国体が護持されているなら「まあ、いいや」となったのです。
普通の国では絶対にあり得ないのだけど、
日本だからアメリカ人が作った憲法を主権回復から
60年以上も変えずに持ち続けているという事態が起こってしまったのです。
日本人にとって憲法とはそんなものです。
その成立過程に複雑な思いはあっても「まあ、いいや」と思っているのです。
国体は護持されています。
目くじら立てて、「無効でないとダメだ! 国体は破壊されている」と言っているのは、
西洋近代憲法の思想に毒されているのです。
井上毅をはじめ明治に憲法を策定した人々の思いの根底には、
「こんなもの本来は作る必要ないのだけど」というのがあったのだと思います。
ところが、その後の憲法学者がドイツに留学し、
ドイツ法哲学を持ち帰って帝国憲法に当てはめてしまった。
そこがそもそもの間違いなのです。
何度も言います。
所詮は憲法ごときです。
右も左も憲法に幻想を持ちすぎ。
やるのは人間です。