憲法は一人称である
南出氏の憲法「新無効論」が根本的に間違ったのは、
民法の無効理論を憲法に持ち込んだことだろう。
学者ではなく弁護士らしいことでもある。
民法の意思表示や契約は第三者があってのことなので遡及的無効に意味がある。
遡及的無効(遡及効)とは、その無効な法律行為にさかのぼって、
以後一切の法律行為の効果を無くすことをいう。
例えば、変な薬を飲まされて正常な意識が欠落しているときに、
自分の持つ土地を売却させられたとする。
近代法では意思主義が大原則なので、意思が存在しない法律行為は無効となり、
売却させられた土地がさらに第三者に売り渡されて、そこに住宅や店舗が立てられても、
最初の土地売却が無効なので、それ以後の行為もまた無効となり、
変な薬を飲まされた人が保護されるということだ。
ところが、憲法は「完全一人称」である。
憲法はその国だけの話。
無効だと思うなら捨て去ればいい、ただそれだけのこと。
だから世界的にも憲法の無効理論が発展しなかった。
民法に例えるなら、自分で変な薬を飲んで、自宅の庭に花を植えてしまったとする。
そんな花を植えるつもりはなく、正常な意識がなかったときなので、
花を植えた行為は無効だ、と言っても、
他の人からすれば、「そう思うんだったら勝手に花を抜けばいいだろう」という話になる。
これをさらに憲法の話に応用すると、自宅の庭にひまわりの花を植えていたが、
Aという男が押し入ってきて、脅してチューリップの花に変えさせられてしまった。
しばらくしてAが出ていったので、庭の花を再びひまわりにするか、
チューリップにするかは自分の自由になった。
この場合、自分と花の関係は一人称(私だけのこと)、
自分とAの関係は二人称(私に対してあなた)。
民法上における無効の意義は、自分以外の第三者に対して法律行為の無効を訴え、
原状回復を求めたり、損害賠償を請求できることにある。
損害賠償を請求するわけでもなく、
「ひまわりをチューリップに変えた行為は無効である」と訴えたところで、
「訴えの利益がない」ということで受け付けてもらえず、即刻却下される。
法律的な無効というのは「一人称」では、まったく意味がない。
憲法も同じで、どのような憲法にするかということでは外国は関係がなく、
国家として一人称の行為となる。
自分だけのことなので、いやなら変えるか破棄すればいい。
第二次世界大戦でフランスやオーストリアがドイツに占領されたときにつくられた憲法や、
ソ連からの強迫状態にあった旧東側諸国の憲法などは、
やはり破棄か改正によって捨て去されている。
日本は国内事情や国際情勢によって、「まあ、当面はチューリップでもいいか」と判断した。
それだけのことだ。
一人称の問題を無効にするというのは、自分が自分に無効と言っているわけだから、
法理論として客観的に見れば、
一人でぶつぶつ「おれのやったことは無効だ」とつぶやいている、
ちょっと怪しげな人だということになる。
要するに、一人称である憲法について無効というのは、法律的な意味はほとんどなく、
国家の決意の問題なのである。
憲法としては無効だが講和条約として云々・・・などと言っても、すべて一人称のことだから、
わざわざそんなことをする“訴えの利益”に相当するものが、何も存在しないので、
法学理論として発展しようがない。
もし私が憲法無効論者だったらこのように言うだろう。
日本国憲法は、占領中にGHQによりつくられたものだから無効である。
即刻破棄すべきだ。
そしてすでに日本人によってつくられた大日本帝国憲法があるのだから、
それをもう一度わが国の憲法としよう。
大日本帝国憲法を復刻するにあたり、
日本国憲法が本来の憲法であるべきものではなかったことを決議しよう。
これだと法理論上の問題は何もない。
やりたいか、やりたくないか、だけの政治上の問題となる。
すでに述べたように、一人称である憲法を無効にするというのは、
法的な意味ではなく国家の決意の問題であるから、これで十分なのである。
これなら改憲派と内容によっては共闘できるし、本当の敵があぶり出されていくだろう。
それをわざわざ「日本国憲法は憲法としては無効だが、講和条約としては有効」
などと実定法として無茶な理論を述べたところで、
支持を得られにくい上、結果的に護憲勢力を利することになるだけだ。
なぜ憲法無効ということについては比較的賛同されやすいのに、
講和条約説となるとほとんど理解されないのか、というのはこういうことである。
国を愛する国民の素朴な感情には、憲法が正しく変わればそれでいい、
という「一人称」の正しい発想が自然に根付いているからだ。
新無効論というのは、「策士策に溺れる」がごとく、理論に溺れて実体を見失っており、
結果的に自ら墓穴を掘っていることに等しい、ということだ。
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