憲法論を語る 印刷用画面
小林よしのり氏による『新天皇論』で第17章での竹田恒泰氏への批判は、
彼が「現憲法無効論」と「憲法改正論」の区別すらできていない無知蒙昧の発言であるということを指摘しました。
すると、「それはまったくその通りであるが、
あなたは憲法について、“無効論”なのか“改正論”なのかどちらなのか」
という質問を受けました。
今回はそのことについて少し述べてみたいと思います。
まず結論から述べると、極端なことを言えば、
私は「無効論」でも「改憲論」でも、どちらでも構わないと考えています。
ちょっと日和見的というか、逃げているような印象を受けられるかもしれませんが、
私はこの問題について自分なりの法理論をしっかり持っているつもりです。
そのあたりについてこれから説明していきます。
私が最も尊敬する国士の一人は南出喜久治弁護士です。
いわゆる「憲法無効論」の第一人者であります。
外国による占領中の憲法制定は無効である。
南出先生の論理を一言でいえば、被占領期における憲法の改正は、
大日本帝国憲法の改正規定に反するということです。
そもそも無効なものは永久に無効であり、
その後に何をやろうとも有効になることはあり得ないという考え方です。
つまり、「無」から「有」は絶対に生まれないという近代法理論の大原則です。
「無」から「有」は生まれないということについて、例えばわかりやすい法律論争を一つ紹介してみます。
私がAさんに自宅を売却したとする。
しかし、名義はまだAさんに変更しておらず、私の名義となっている。
名義が変わっていないことを良いことに、私はBさんにも自宅を売却したとしましょう。
AさんとBさんへ二重に譲渡したことになります。
この場合、民法及び判例では、先に名義変更した人が所有権を獲得することになります。
ここで問題になるのが、Bさんが先に名義変更を受けた場合です。
私がAさんに自宅を売却した時点で、実体上の所有権はAさんに移っています。
名義変更は第三者への対抗要件に過ぎず、私とAさんの間では物権変動はすでに発生しているのです。
だから、その時点で私は「無権利者」となっており、自分の所有でない物をBさんに売却したことになります。
Bさんは無権利者から家を買っても、権利者になることはありません。
「無」から「有」は発生しないということです。
ところが、現実はBさんが登記名義を受けた時点でBさんが所有者になるのです。
「無」から「有」が発生してしまっていることになります。
これは法理論ではどうしても説明することができず、いまだに法学者の間で論争となっている問題です。
つまり、「無」から「有」は絶対に生まれないということは、本来無効である日本国憲法を改正することはできない、
改正するという法理論はあり得ないという主張が「憲法無効論」です。
無効な法律行為は永久に無効となります。
無効な日本国憲法は、そもそも存在していないのであって、存在していないものは改正することができない。
存在するはずのない日本国憲法を改正するということは、GHQによる占領政策を容認することになります。
昭和20年という区切りで、大東亜戦争以前と以後を完全に分断し、
日本国家は戦勝国による占領によって新しく生まれたという考え方に帰結するしかありません。
憲法無効論は、そんなことをしてしまえば永久に戦後体制から脱却できないという主張で、
保守主義者としては一貫した論理となります。
分断された戦前と戦後を取り戻さないかぎり、
日本の復活はあり得ないという主張はまったく同意するところであり、
私も基本的には憲法無効論が原則であると考えています。
ではなぜそこまで述べているのに、憲法改正論もあり得ると考えるのか。
いったいどうすれば「無」から「有」を導くことができるのかということをここから説明していきます。
例えば、不動産の登記には「真正な登記名義の回復」というものがあります。
AさんがCさんに土地を売却したとする。
ところがまかり間違って土地の名義がBさんになってしまった。
本来ならAからBの名義変更を抹消して、名義をAに戻すという原状回復を行ってから、
AからCに名義移転するべきです。
Bへの移転は実体上存在しないのであり、無効なものは永久に有効となることはありません。
しかし、現実には名義をAに復することなく、BからCに移転させてしまうということが可能になっています。
法理論的には、AからBへの移転は無効なので、絶対にBの名義が有効となることはないのですが、
慣例上、便宜BからCに移転させてしまっていいということになっています。
「過程」よりも「現状」をもっとも重視するという考え方です。
一般的に法律はこのようなスタンスであると考えていいと思います。
これを憲法に照らして考えてみましょう。
Aが大日本帝国憲法、Bが日本国憲法、Cが大日本帝国憲法の改正憲法となります。
法理論でいえば、本来なら日本国憲法は無効であるとして廃棄し、
一旦は大日本帝国憲法に復さなくてはなりません。
ただし、大日本帝国憲法を改正した存在であるという“実体”が伴っておれば、
「真正な憲法の回復」という大名目のもとで現憲法を改正して、
本来あるべき憲法に作り替えるということができるのではないでしょうか。
実体が伴うのであれば、あくまで法手続上として、
「無」から「有」を生じさせることも可能であるという論理となります。
私は、新憲法草案が、大日本帝国憲法を正統に受け継ぐ内容となっているのであれば、
手続き上は憲法改正でも構わないと現時点では考えています。
実体上、大日本帝国憲法が継承されたということを示す最低条件は、
憲法と皇室典範が対等に並び立つことと、国民主権規定の排除となります。
皇室典範は国民が関与することなど許さない皇室の家法であるし、
主権は二千年の歴史を有する日本国そのものに存在します。
アメリカですら合衆国憲法には国民主権なる規定は存在しない。
だから、いくら憲法第9条を撤廃するような改憲案であっても、
最低限上記2点がクリアされなければ、絶対に賛成することはできません。
自民党の新憲法草案は上記2点をクリアしていない。
少し前に話題となった読売新聞の憲法改正試案などは、
まず国民主権規定が第一章に入り、第二章が天皇条項となっている。
いくら自衛軍を認めようとも、はるかに現憲法より酷い内容となっているので論外となります。
私は前述のとおり、現憲法無効論が原則であると考えていますが、
例外的に改正論を容認できるとすれば、繰り返しになりますが、
憲法と皇室典範を対等にすることと、国民主権規定を排除することが最低条件となります。
とにかく第9条だけでも改正したいというのは絶対に許されない。
少しでもそのようなことをやれば、それにより占領軍により作られた憲法に正統性があると、
実体上も完全に容認したことになります。
英語では憲法のことをconstitutionといって、言葉の本来の意味は「体質」や「気質」、「構造」ということです。
つまり憲法はその国の体質を表すべきものだということです
憲法だけは何があってもわが国の歴史と伝統に基づいた自主独立の精神のもとにつくらなくてはなりません。
無効論であれ、改正論であれ、大日本帝国憲法の精神を正統に引き継ぐ憲法を持たなければならないと考えます。