びっくり仰天「新無効論」の新事実
       〜現行憲法は慣習法だった!?




憲法無効論に対して、一般的に向けられる大きな疑問は、

現行憲法体制でつくられた法秩序はどうなるのか、ということです。

現行憲法が無効であれば、戦後につくられた法律すべてが無効となり、

その間の裁判もすべて無効となり、

60年以上、政府も国会議員も裁判も、存在していなかったことになります。

世の中が大混乱するのではないか、という疑問です。


それに対して、新無効論(真正護憲論)では、

日本国憲法は“憲法”として無効であるが、“講和条約”としては有効となるので、

法秩序の安定性は維持されると主張しています。

これだけでは「何のこっちゃ」と思われるでしょうが、

要するに、現行憲法は講和条約として一般法の上位に位置して

機能しているということです。


帝国憲法⇒講和条約⇒一般法


私がここで疑問に思ったのは、講和条約はあくまで“条約”であって、

国内法としての効力は存在しないということです。

講和条約を一般法の上位の“法規”とするのであれば、

立法措置が講じられなければなりません。

法律でなければ強制力や拘束力がないのです。


先日、とある勉強会で、偶然、新無効論者の団体である

「国体護持塾」の代表者と一緒になり、

「新無効論の概説」というパンフレットをいただいた。

その中身を見ると、私の疑問部分について、びっくり仰天する内容が書かれていた。

現行憲法が講和条約なのであれば、

国内法としての立法措置が欠けているという私の疑問について、

「慣習法的に運用されている」と書かれていたのです。

現在の、政府や国会、最高裁判所に法的根拠はなく、

慣習法として運用されているというのです。

戦後の国会議員選挙もすべて慣習法。


そもそも慣習法なのであれば、なぜ講和条約などと言う必要性があるのでしょうか。

講和条約だけが明文化されていて、運用は慣習法だとは無茶苦茶な論理です。

なぜこんなおかしなことになったのかについては、安易に想像がつきます。

憲法無効論を考えた場合、必ず法秩序の問題がつきまとう。

そこで現行憲法の講和条約説を思いつき、「これだ!」ということになった。

ところが、しばらくしてから国内法としての立法措置の問題に気づいてしまった。

いまさら引っ込みがつかないので、間の矛盾を無理矢理埋めようとしたのでしょう。

こんな思いつきの、しかも無理な後付の理屈であるものが、

国会でまともに論議されることなどあり得るでしょうか。

普通の大人の判断力があれば、わかると思います。


ごく希にではありますが、確かに法規について

慣習法的運用が行われるケースはあります。

民法における譲渡担保権などがそうです。

譲渡担保権は民法条文には存在しません。

しかし、これらは判例があるから条文と同等の効力があるのであって、

判例にすらなっていない慣習法が実定法と同等との効力があるなど、

大学で法学を多少なりとも学んだことのある人なら唖然とするレベルの論理です。


さらにおかしいのは新無効論の現行憲法が“憲法”としては無効であるが、

講和条約として有効という論理に、帝国憲法第76条第1項を持ち出して、

「無効行為の転換」という主張を行っています。

帝国憲法76条第1項とは

「法律規則命令又ハ何等ノ名稱ヲ用ヰタルニ拘ラス

此ノ憲法ニ矛盾セサル現行ノ法令ハ總テ遵由ノ效力ヲ有ス」という規定ですが、

現代語訳しますと

「法律・規則・命令又は何らかの名称を持ちいていても、

この憲法に矛盾しない現行の法令は、

すべて遵守すべき効力を有している」となります。

この規定は何のために設けられたのかというと、

帝国憲法が施行される前からある法令については、

憲法の内容に矛盾しないものは、そのまま効力を持つことを確認するものです。

簡潔に説明すれば憲法施行における経過措置です。


それについて新無効論では、

「本来は帝国憲法が制定される前の法令に関するものですが、

制定前というのは帝国憲法の効力が生じていない場合のことを意味しますので、

占領されて独立を奪われたGHQ占領時代には

帝国憲法の効力が停止されていた場合と同じ状況なのです」と説明しています。

しかし、占領中であろうと何だろうと、帝国憲法の内容と矛盾しないものが

法律として効力があるのは当たり前のことです。

問題なのは帝国憲法の内容と矛盾する部分の処理が、

どのように無効から有効に転換するのか明確な説明がありません。

一文だけ示されているのが、講和条約だったら

帝国憲法の内容に矛盾しないということです。

講和条約という名称、看板が掲げられていれば、

その内容の矛盾は関係なく成立するというのは、

あまりに非論理的というか乱暴な議論となるでしょう。

講和条約を間に挟めば無効なものが有効になると述べているのです。

しかも、講和条約としては有効であろうと何だろうと、

結局、国内法としての運用は、慣習法だと言うのだから、

何のための無効行為の転換理論なのか、さっぱりわかりません。

まあ、先ほど分析したように、つぎはぎのための後付の理屈だから、

こんな学術論としては目も当てられない悲惨な論理となるのでしょう。


まともに相手にするのも馬鹿らしいですが、

もう少し新無効論の講和条約説の問題点を指摘してみましょう。

新無効論は、現行憲法の運用を慣習法として説明していますが、

その内容は3つに分類されるとしています。


@帝国憲法の本質部分に関係する内容

A帝国憲法の技術的規定に関係する内容

B帝国憲法に抵触しない内容



@は現行憲法第1条などに関係するようです。

主権の存する国民の総意と定めてあるのは、

国民主権思想なので帝国憲法の本質部分に反するということです。

Aは国体の本質とは直接関係なく、技術的な部分だということで、

おそらく参議院などがこれに当たるものと考えられます。

帝国憲法体制では貴族院が果たしていた役割を、参議院が担っています。

Bは帝国憲法の規定に反しない新しい項目ということになります。

地方自治などがこれに当たります。

@は慣習法としても無効、AとBは、慣習法として有効だといいます。


そもそも現行憲法のどの条項が@ABに分類されるのか、

新無効論では明らかにしていません。

現行憲法の条文は全部で99条ありますが、

なぜ@ABのどれかにそれぞれ分類していないのでしょうか。

天皇条項は第1条から第8条までとなりますが、どの部分が@なのか、全部なのか、

明確にしてもらいたいものです。

憲法9条はどうなのでしょうか。

新無効論では、自衛隊は憲法9条に反していることから現行憲法に効力がなく、

帝国憲法が現存していることの根拠としていますが、

9条はどう考えてもAに分類されるはずです。

ですから、彼らの理屈でいえば、日本国憲法という

講和条約に基づく慣習法に違反しているだけですから、

帝国憲法の現存とは直接関係がないはずです。

憲法9条が帝国憲法が現存する根拠になるのであれば、

結果的にはその慣習法に意味がないと述べていることになります。

そうでなければ帝国憲法と矛盾する内容の部分は、

違反やりたい放題ということになります。

違反すれば帝国憲法が現存していると主張できるからです。

それこそ法秩序の大混乱を導くでしょう。

講和条約に基づく慣習法(現行憲法)の法的拘束力はいったい何なのでしょうか。

追求をはじめたらきりがありません。

講和条約に基づく慣習法(衆議院、参議院)によって、

生み出された数々の一般法もまた、@ABに分類しなくてはならないでしょう。

論理矛盾、意味不明、理解不能、非現実的、のオンパレードです。


私は保守思想を大切にしていることから、

歴史・伝統から築き上げられた慣習法の存在を重く考える立場の人間です。

そして、その慣習法に基づき法律を制定するのが

伝統を重んじる近代法治国家の姿だと考えます。

その法治国家の部分が慣習法だということは、

現在の日本は法治国家ではないということです。


本来の伝統を重んじる国家のあり方は、

<慣習法⇒憲法律⇒法律>

となります。

新無効論では、

<慣習法⇒憲法律(帝国憲法)⇒慣習法(日本国憲法)⇒法律>

となります。

これを見た人で、どなたか意味のわかる人はいるでしょうか。

実定法の役割部分が慣習法になっている。

やはり現代日本は法治国家ではないと述べているのです。

法治国家ではないという論者から、

新無効論による法的安定性の維持などと言われて、

いったい何の説得力があるというのでしょうか。


まだまだ突っ込みどころ満載ですが、きりがないので、

とりあえずはここらあたりで止めておきます。


繰り返しますが、現在の参議院議員の立場に法的根拠はなく、

慣習法として運用されている、というのが新無効論です。

あなたは真面目にこんな論に賛同しますか?

本当にこのような論が、世の中でまともに論じられると思いますか?







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