憲法学を理解していなかった南出喜久治氏
私の憲法無効論に対する批判に対して、南出喜久治氏が国体護持塾ホームページで
「いはゆる「保守論壇」に問ふ(其の八)占領典憲パラダイムの転換を求めて(24.9.28)」
という反論らしきもの出しているが、
予想通り、政治哲学論・国体論と法学論をごちゃ混ぜにして、
煙に巻くという論法になっている。
私は法学理論の常識として、「帝国憲法違反イコール現行憲法無効」ではないと述べた。
それは憲法というのは法治国家における法体系の頂点に位置することから、
憲法を無効にする法的根拠が存在しない、ということにある。
それに対して南出氏は「憲法典の上に憲法なし」ということではない、と反論している。
憲法典の上位規範として国体が存在すると。
まったくそのとおりだ。
誰もそんなことに文句をつけていない。
実質的意味の憲法と、形式的意味の憲法(憲法典)があるのは、
憲法学では教科書の最初に出てくる。
私は西洋保守思想も少しばかりかじっているので、
明文化されているかどうかに関係なく伝統・慣習に基づき存在するものが“法”であり、
人間が制定するものが“法律”であるということも理解している。
伝統・慣習に反するものは憲法ではない。
そんなものは無効だ。
そこまではいい。
話がおかしくなるのは、南出氏が主張する憲法無効論が、
実定法学、実定憲法学上“遡及的無効”であるということだ。
英米法のように考えれば、憲法典の上位に古来の“法”が存在することから、
“法”に反する憲法典は憲法にあらず、捨て去ればいいということになる。
つまり、“破棄”もしくは“全面改正・新憲法制定”で十分に目的は達成される。
「無効である」というのは、効力を無くせばそれでいいのだ。
ところが、憲法無効論者が主張するように、
実際に存在する実定法を、遡及的に無効とするのであれば、
法治国家である以上は、それなりの法学理論に基づかなければならない。
そこで持ち出したのが、帝国憲法73条及び75条による改正手続き違反、
そして憲法改正限界説である。
おまけが占領中の憲法改正はハーグ条約違反ということ。
確かに他国による占領状態のなかで、国家の基本法に手をつけることは
ハーグ陸戦協定に違反する。
しかし、それはあくまで占領期間中だけのこと。
主権回復後、その国が何を憲法典とするかまでハーグ条約は関与しない。
当たり前だ。
主権国家の意思と行動は、主権国家の責任に帰属する。
こんなものは国際法の常識だ。
また、憲法改正手続き違反が新憲法の無効にはならないことは、
法実証主義以前に当たり前のこと。
新憲法を運用したことにより、憲法の最高法規という性質上、
自ら手続き違反したものを運用しておいて、自ら無効であるということはできない。
法的瑕疵が治癒されたと考えるのが一般論だ。
南出氏は帝国憲法改正の発議権が天皇にあるのだから、
占領中の憲法改正は、意思主義に反すると述べる。
意思主義というのは近代法の基本原理で、
意思の存在しない法律行為は無効である、ということだ。
そもそも意思主義というのは近代法の基本原則であるなら、
それを持ち出している点で、近代法学の手の中にある。
法体系の頂点に憲法が位置する以上、
憲法を無効にすることはできない、という論理を批判することは困難になる。
新しい憲法も某かの“意思”に基づいているからである。
意思の欠缺を認めたとしても、主権回復後の法治国家が憲法として運用した以上、
それはその国家の意思であって、意思主義の観点からも、
法学上は無効にすることはできない結論を導く。
次に問題なのが、無効論の根拠となっている“憲法改正限界説”だ。
南出氏は「憲法典の上に憲法なし。」ということに疑問を呈しながら、
“憲法制定権力”(制憲権)を批判している。
それは正しい。
ところが、憲法改正限界説の学問的根拠に
この“憲法制定権力”があるということをご存じないのだろうか。
憲法制定権力とは、憲法を主体的に制定できる権限がどこにあるか、ということだ。
憲法の存在根拠を示す考え方だ。
これこそフランス革命を正当化させる論理でもあった。
ここでいう憲法とは、単なる明文上の憲法典ではなく、
実質的な意味での憲法、つまり国制まで含む。
国制とは、国家のあり方だ。
「君主の治める国であり、国のあり方を決める権限は君主にある」、
となると憲法制定権力は君主になると考える。
君主の権限で定める憲法を“欽定憲法”と呼ぶ。
一方で、「国のあり方を決める権限は国民にある」、となると憲法制定権力は国民となる。
国民が主体となって定める憲法を“民定憲法”と呼ぶ。
その括りでいうと、帝国憲法は欽定憲法であり、日本国憲法は民定憲法となる。
欽定憲法を改正して民定憲法とするのは、改正の限界を超えている、
というのが改正限界説なのだ。
一方で、改正に限界はない、というのが“改正無限界説”となる。
南出氏は日本における戦前の憲法学の通説は改正限界説だったと述べ、
現行憲法の無効を主張しているが、改正限界説を述べている時点で、
実は近代法原理の範疇に入ってしまっているのだ。
つまり、憲法無効論者の無効理論というのは、近代法学に基づいているのである。
近代法学に基づき無効理論を述べながら、一方で、不都合な部分は近代法学を批判する。
こんな恣意的なものが学問として認められるはずもない。
日本は戦争に敗れて、現実として帝国憲法が改正されて日本国憲法になった。
そこで憲法学ではこれを法学的にどう説明するのか、ということになった。
憲法制定権力をふまえた改正限界説では、
欽定憲法改正による制定物は当然に欽定憲法に制限されるべきであり、
欽定憲法を改正して民定憲法ができるのは理に反すると考える。
そして、現行憲法は帝国憲法を改正された憲法ではなく、
便宜上、改正手続きを踏んで、新しい憲法が生み出されたと考えた。
つまり、戦前と戦後は法的に断絶したという結論に至った。
これがいわゆる“八月革命説”である。
一方、無効論者は、改正の限界を超えた憲法は無効だ、と主張するが、
その時点で近代法学の土俵に上がってしまっているので、
憲法が最高法規である以上、「後法は前法を破る」という
法学理論の前に敗れ去るだけである。
私が「後法は前法を破る」という説明のため、ロシア革命を引き合いに出したことで、
南出氏は「革命を正当化する理論だ」という初心者にありがちな批判を口にした。
もちろんロシア人にとって、ソ連憲法は無効なのである。
ところが、ソ連が崩壊して、ロシア共和国になったとき、
ロシアに革命を正当化する必要性などまったく存在しない。
ロシア帝国に反する憲法はすべて遡及的無効だと言ったところで
ニコライ一族はとっくに処刑されて跡形もないので、ロシア帝国を復元することはできない。
だったら、ロシア共和国は永久に憲法を持つことはできないのか。
そういうことにはならない。
ロシア共和国の憲法は、ロシア帝国から見れば憲法違反になるだろうが、
効力を持たないというわけにもいかない。
現在のロシア共和国には革命を起こした責任はなく、
むしろソ連体制を崩壊させて、元に戻そうとした。
ロシア憲法に効力があるというのは、革命を正当化させる論理ではない。
フランスも同じだ。
第三共和国憲法以前のものはとても憲法と呼べるような代物ではない。
だからといって、現在のフランス憲法が効力を持たないなどということにはならない。
実定憲法学は無視することはできないのだ。
南出氏は法学理論が怪しくなると、規範国体ということを持ち出して、
政治哲学論と法学理論を混同させる。
以下は南出氏の記述である。
------------------------------
規範の命は、その規範に違反する行為を無効であるとすることにある。
これを否定すれば規範は規範でなくなる。
行為規範としても、評価規範としても、当該規範に違反するものは法的保護に値しないこと、
それが「無効」といふ法的概念の意味である。
帝国憲法に違反した改正行為は無効である。
仮に、そのやうな明文規定がなくても、
憲法典の上位規範である規範としての國體(國體規範)に違反するものは無効である。
------------------------------
規範とは何かということを誰が決め、誰が規範に反して無効だと判断するのか。
「帝国憲法に違反した改正行為は無効である」というが、
これは実定法学であるということをわかっていないか、わざと混同させている。
ここで「改正行為は無効」といっているところがポイントだ。
「改正手続き違反」であれば、帝国憲法73条及び75条違反であるが、
手続き違反は繰り返し述べているとおり、実定法学の範疇なので、
手続き違反そのものが憲法無効を導くことはできない。
南出氏が「改正行為は無効」というからには、ここでは改正の限界を超えたことを示している。
しかし、これも法学理論の手の中にあることはすでに述べた。
南出氏のためにもう少しわかりやすく憲法学の流れ補足してさしあげよう。
なぜ憲法改正限界説が左翼憲法学の根拠になっているかというと、こういうことだ。
[政治的意思としての憲法制定権]→[憲法典]→[憲法典によって付与された改正権]
つまり、改正権というのは、憲法典によって与えられた権限であって、
憲法を創り出す権限ではない、ということである。
この論理でいけば、欽定憲法の改正権限には、当然のことながら民定憲法は含まれない。
憲法制定権力が変更しているからである。
改正限界説を採用する以上、憲法制定権力とは切り離せないことになり、
その前提で、改正限界を超えた場合は、
制憲権をふまえた憲法と憲法の対等関係で論じる以上、
「後法が前法を破る」という原則が適用され、無効論は八月革命説に敗れ去るのである。
仮に南出氏の改正限界説が制憲権に根拠をおかないものだと強弁したとしても、
それは単なる無限界説であって、
無限界説のなかで、現行憲法が帝国憲法に反するかどうか、論じているに過ぎない。
私がなぜ無限界説の立場をとるかというと、
欽定憲法や民定憲法という定義そのものを限定的にしか使用しないし、
帝国憲法から現行憲法への移行は、左翼がつくった改正限界という定義に拘束されず、
憲法の中身だけで判断できるからである。
南出氏は無限界説ということを、好きなように憲法を改正できると勘違いしているようだが、
無限界説の中にあっても、伝統・慣習に基づく不文律に反する憲法はつくれない、
という制約は当然にあるのだ。
無限界説とは、限界がないのではなく、
「誰かが勝手に限界をつくらない」という意味でも解釈できる。
限界点はあるだろうが、そんなものは誰にもわからない。
むしろ、限界説こそ実質的に無限界を導く憲法論であるということを
南出氏はわかっているのか。
そもそも限界点をつくるというのは、限界を超えることを前提につくられたものだ。
不適切な例えかもしれないが、「記録は破るためにある」といったものか。
あるいは、「立ち入り禁止」場所を設定して、
あえて立ち入って立ち入り禁止でなくしてしまうようなもの。
君主主権から国民主権というのはまさにこの論理だ。
勝手に限界点をつくって、それを超えることによって、
国民主権を実現した、と考えたのだ。
それが左翼の生み出した憲法制定権力という限界点である。
つまり、改正限界説の基本は、限界を超える改正が起こりえないと考えているのではなく、
改正の限界を超えた場合は、法的断絶が発生し、
前の憲法と異なる根本規範に立脚した憲法が生まれた、と考えるのだ。
南出氏はこの左翼発祥の限界説をベースにしながら、
限界を超えたら無効だと、勘違いしてしまった。
憲法学を基礎から学んでいなかった悲劇である。
私がそのことを指摘したら、
「憲法典の上位に規範国体が存在する。それに照らして無効だ」
というような反論を試みたが、それは無限界説としての説明であって、
政治哲学と法学理論を混同させた、
もはや、とても憲法学とは呼べない支離滅裂の論理なのである。
私は無限界説の立場として、日本国憲法第1条があることによって、
かろうじて憲法典としても国制としても、国体が継続することができたと考える。
様々な歴史的事情によりこの憲法を使い続けてきたが、
これから日本人の手によって、新しい憲法を制定すればいい。
続いて現行憲法講和条約説について、少しだけ批判を加えておこう。
南出氏が「新無効論」として述べたのは、
現行憲法は憲法ではなく講和条約になる、ということだ。
帝国憲法に反しない部分に限り、
帝国憲法と一般法との中間に位置する講和条約として存在しているという主張だ。
確かに日本政府とGHQが交渉しながらつくった経緯などもあるので、
そのような要素はないこともない。
しかし、それはあくまで
占領中に限ることだ。
占領中の日本政府の行動原理には2パターンあった。
一つが占領軍の黙認のもと、自主的に行うもので、
もう一つが占領軍の指示によって実施するものであった。
占領軍の黙認のもとに行うときの法的根拠は日本国憲法である。
一方の占領軍の指示には法的根拠は存在しない。
こんな状態のものを実質的にも形式的にも憲法と呼ぶことはできず、
その性質は占領基本法であった。
ところが、日本の主権回復後はそういう訳にはいかない。
日本政府の行動はすべて日本国憲法に服しているし、
日本の統治は、まぎれもなく日本国憲法に基づいて行われている。
これは講和条約では説明がつかない。
条約はあくまで条約である。
国内法として効力を持たせるためには、立法措置が必要となる。
現在、日本政府が日本国憲法に服している法的根拠は何なのか。
現行憲法に基づき裁判所から下された判決には従わなければならないが、
その法的根拠は何なのか。
現行憲法にだけ存在する参議院の法的根拠は何か。
法的強制力もないのに、日本政府及び日本人が自主的に従っているのか。
その部分の説明を聞いたことがない。
現行憲法の講和条約説というのは、
いきなり憲法が無効になれば法秩序が大混乱するのではないか、
という危惧に対する配慮の意味でも主張されているものだが、
戦後すべての裁判判例で、帝国憲法に反すると考えられるものはすべて無効になるのか。
指摘し始めればきりがないぐらい穴だらけの論理である。
南出氏は、改憲論は具体的方法論が示されていないというが、
憲法無効論はそれ以前に法学理論としては破綻しているのだ。
そもそも実定法学として遡及的無効にこだわっている理由は何なのか。
遡及効というのは、無効行為の以後一切の法律行為に効力を持たせないことに意味がある。
ところが、南出氏の講和条約説というのは、戦後の行為は講和条約として効力があるという。
言葉だけ遡及効といいながら、実質的には遡及効を否定している。
参議院を認めていることがまさにそれである。
何のための遡及的無効なのか。
南出氏の気持ちをすっきりさせるためだけにある。
もっといえば自分の頭の中の論理をすっきりさせているだけだ。
そう言えば「頭の中の意識を変えるだけで、憲法無効は実現できる」
という言葉も聞いたことがある。
日本国憲法は現実社会の中で憲法として機能している。
その現実から目をそらし、頭の中で何かを変革しようとしているのは、
何かの宗教か、左翼の設計思想と同じではないか。
マルクス主義は二十世紀最大の宗教とは良くいったものだ。
日本は法治国家である以上、法秩序の安定は図らなければならないし、
最低限の法学理論は尊重しなければならない。
建国以来の“法”に照らして、現行憲法が無効であるというなら、
破棄するか、改正手続きにより新憲法を制定すればいい。
それが無効な憲法に対する対処のあり方だ。
私は日本国憲法第1条について、
昭和天皇が「日本国体の精神のあったこと」と仰せられたごとく、
現行憲法すべてが歴史・伝統に反するものではないと考えているが、
日本人の手によって自らの憲法を制定する必要があると感じている。
よくGHQ憲法をいくら改正してもそれはGHQ憲法だという意見があるが、
それは事実に反する。
個別条文の部分改正だったらそうかもしれないが、
全面改正、新憲法制定ということであれば、これは正真正銘の日本人による憲法だ。
そうでなければ、現行憲法がGHQ憲法だという論理すら成り立たなくなる。
現行憲法もまた帝国憲法の改正手続きを踏んでいるのである。
私はそもそも憲法制定権力などという概念を認めていないから、
現行憲法が帝国憲法改正の限界を超えたなどという論理には与さないし、
現行憲法の帝国憲法からの連続性を認めつつ、あまりに素性がと内容が悪いので、
改正手続きによって、日本人による正しい憲法をつくるべきだという考えである。
最後に次の南出氏の記述について考えておきたい。
------------------------------
「憲法典の上に憲法なし。」とするのも、一つの見解に過ぎないのであつて、
それを主張したからと言つて、
それによつて効力論争が終了して決着が付くことは到底あり得ない。
それぞれの学説が検証されてその優劣を競ふことになる。
法学上の見解は、いづれも仮説に過ぎず、
これが正しいといふ証明がなされない限り仮説のままである。
法学は、哲学をも取り込んだものであることから、
最後は論理的説得力の有無によつて決まる。
(中略)
「効力論争はできないことになつてゐる」と強弁するのは、
異説を一切認めない朱子学に等しい考へであり、
学問をする謙虚さを失つた哀れさを感じる。
------------------------------
これまでの南出氏の著作物、発言等を知っている人からすれば、
随分と“しおらしい”記述であると思われるのではないか。
自分の論理は完全であるがごとく、
「誰も反論できない」と断言し、憲法改正論者を国賊と罵ってきたのは、
いったい誰だっただろうか。
異説をすべて排除したのが南出氏の「新無効論」である。
南出氏及びその周辺信者によるその言動があまりに目に余ったものだから、
私が「そんなの単なる仮説であって、他人を国賊と罵るのはおかしい」と忠告したのが、
ことのはじまりであった。
それが今は、南出氏が「仮説に過ぎず」と述べている。
随分と態度が変わったものだ。
自身で述べているとおり、「学問をする謙虚さ」を少しずつ理解できてきたのではないか。
最後にもう一度だけ論点を確認して締めくくろう。
政治学的、歴史学的に無効なのであれば、
その状態を解消すれば無効状態から脱することになる。
これは憲法改正手続きによる新憲法制定か、現行憲法破棄によって実現できる。
旧東側諸国では、その方法によって共産主義時代の清算を行ったケースが多い。
一方、法学論的に“遡及的無効”を主張するのであれば、
徹底して法学理論に基づいて論じなければならない。
それだけのことだ。
さらには、法体系の頂点となる憲法については、
「憲法違反イコール無効ではない」「後法が前法を破る」ということについて、
南出氏は革命を正当化する論理だと述べたが、
実は、改正限界説をベースに憲法無効論を唱える南出氏が、
革命正当化理論の手のひらで法学論を語っているのであり、
そんなもの左翼憲法学に勝てるわけがないと、むしろ私が指摘しているのだ。
そして都合が悪くなると、「規範国体が〜」といっても説得力すらない。
憲法無効論で述べる遡及的無効というのは、“法規”としての憲法である。
法体系における最高法規を無効とする法規は何なのか。
少なくともそのことだけは法学理論として説明しなければならない。
「憲法典の上位にある規範国体が云々」というのは、政治哲学論であって、
それを実現する法学理論が存在しなければ、実体社会を動かすことはできない。
政治学的、歴史学的、そして国体論を持ち出して、実定法学的な憲法無効論を述べるのは、
区別しなければならない分野を混同した論理である。
そして、最後に、「やはり、憲法無効論は破綻した論理である」ということを、改めて述べておく。
以上。
・・・と終わるつもりだったが、私が見たサイトには続きのページがあったようだ。
上記文書を作成してから気が付いた。
私の批判に対して具体的に反論していた。
しかし、上の記述で終了していることは明らかであろうし、
続きのページ以降に書かれているものを読んでも、やはり終了していた。
なので、上の記述を補足する意味で、ここから南出氏の反論内容を解剖分析していこう。
それと共に事実関係が異なることも説明しておく。
---------------南出氏---------------
私は、谷田川氏とは一度だけ会つたことがある。
それは、平成二十三年九月に奈良文化会館で「けんむの会」などが主催する
拉致救済のための集会が開かれたときのことである。
私も登壇して憲法と拉致のことについて述べたが、
司会者が、登壇者でもなく、集会のテーマとも関係のない
谷田川氏の天皇関係の著書だけを取り上げて紹介したので、
どこにでも天皇をダシにした書籍をわざわざ紹介してもらつて販売するやうな
「天皇商売」には感心できないと感じてゐた。
------------------------------------
まったく事実違い。
「けんむの会」主催ではなく、
「頑張れ日本全国行動委員会・奈良」と「救う会・奈良」のジョイント大会。
今年も同じジョイント大会がまもなく行われるそうだ(10月7日)。
昨年の大会はチャンネル桜の水島社長が講演されるということで、
雑誌原稿の締め切り日であったものの、時間をつくって京都から奈良に駆けつけた。
すると奈良竹田研究会の役員の方が、頑張れ日本奈良の役員もやっておられ、
私が会場にいるのを見つけ、拙著を紹介すると言っていただいた。
当時チャンネル桜で拙著をガンガン推していただいていたので、
水島氏に対する気遣いもあったのかもしれない。
ちなみに私は集会やシンポジウムに行って、
自分の本を宣伝してほしいなどと言ったことは一度もない。
この日も私の名前と著書が読み上げられたとき、恥ずかしくて立ち上がれなかった。
拙著が販売されたという事実も存在しない。
単なる誹謗中傷である。
---------------南出氏---------------
集会が終はつてから、谷田川氏が、その書籍を胸に掲げて私のところに歩み寄り、
「この著者です」と営業丸出しの自己紹介をしてきた。
------------------------------------
何の営業なのだろうか?
南出氏に自分を売り込めば本が売れるの?
南出氏に対して営業するとは何なのか。
自分を過信しているのか。
南出氏の名前はかねてから存じていたし、
拙著で渡部昇一先生と南出氏の対談本を参考文献に入れていたことから、
一言、挨拶をしにいっただけだ。
私は南出氏に名刺を渡すと、「君は無効論なのか?」と聞かれたので、
そんなことにこだわっていないと正直に述べた。
すると、そんなもの話になるか、といった態度で、私の名刺だけを一方的に受け取って、
自分の名刺も渡さずに去っていった。
これだけのことである。
---------------南出氏---------------
私は、上念氏や谷田川氏によるツイッターの件について電話し、
私の名前が一人歩きさせることを止めるべきであると抗議し、暴言を吐くことは議論ではなく、
折り目正しく対応するのであれば、公開討論に応じてもよいと告げた。
------------------------------------
(苦笑)
応じてもよいではなく、えらい剣幕で公開討論を申し込んできた。
上念氏については議論というより、発言について糾弾したいと言っていた。
そもそも私と上念氏は、ツイッターで絡まれた相手を撃退していただけで、迷惑を被っていた。
何で公開討論を応じなければならないのかと思い、「検討しておく」とだけ返答した。
ちなみに公開討論を申し込んだ相手は、上念氏と倉山氏と私に対してである。
---------------南出氏---------------
私は、公開討論を申し入れたが、それをチャンネル桜で行ふことは全く予定してゐなかつた。
ところが、その後、谷田川氏は、内密にチャンネル桜と交渉し、
水島氏を司会者とする討論に参加してほしいと求められた。
しかし、四月二十一日放送の番組もさうであつたが、私は、効力論争をしたいので、
もし、チャンネル桜でするのであれば、百地章氏と八木秀次氏と討論させてほしいと
当初から希望してゐたのに、それを実現してくれなかつたので、
どうせするのであれば、カルトなどと発言するだけの無内容の人物だけでなく、
やはり百地章氏と八木秀次氏にも出演してもらふことを強く希望した。
------------------------------------
やっぱり公開討論を申し込んだことを認めているわけだ・・・。
しかし、事実関係はもっと異なる。
再度、南出氏から電話がかかってきて、公開討論の件はどうなっているか、と詰め寄られたので、
私は公開討論など受ける義務はないと思っていたが一応、上念氏にその旨を伝えた。
すると、上念氏は一度議論をやっておいた方がいいという考えを示され、
チャンネル桜で行うことを即座に提案されて、チャンネル桜側も了承した。
そこからどういう訳か、私が双方の窓口になってしまった。
南出氏から百地章氏と八木秀次氏の出演要請があったことは事実であるが、
その旨をチャンネル桜に伝えると、今回は公開討論の場を提供するだけなので、
そういった申し出は受け入れられないとの回答があった。
至極当然のことであるので、私はその旨を正確に南出氏に伝えた。
---------------南出氏---------------
そして、もう一つ要望した。それは、四月二十一日放送の後で、
水島氏が同年三月二日の『国民運動、原理主義と現実主義の狭間で』の中で、
無効論は原理主義、改正論は現実主義であるとして無効論を批判してゐたことを知つたので、
効力論争の司会は、それなりの見識を持つた中立公正な人にしてもらひたいと希望した。
水島氏の討論番組では、水島氏自身が自己の主張をするのが通例のやうなので、
効力論争の司会としては不適切と思つた。
無効論が原理主義であり、改正論が現実主義であるとする認識は誤解であつて、
ロード・マップを示せる現実主義が無効論であることを理解して意味でも、
水島氏は司会ではなく改正論者の側として参加してもらふ方が適切である。
しかし、「それはできない」と水島氏の使者である谷田川氏が回答したため、
そんな不公正な方法では応ずることは難しいので、膠着状態になつてしまつたのである。
それを私が最終的に返事しないので、逃げたなどと一方的に勝利宣言をしたが、
いくらでも電話して私に最終確認をすればよいのに、
このやうな事情も全く明かさないでこんな印象操作を平気で行ふのである。
嘘の多い、ほんとうに品格がない人である。
------------------------------------
まったく事実に反する。
現在はどうか知らないが、この時点で水島氏は自身を無効論者だと公言していた。
水島氏は無効論者であるが、改憲論というだけで国賊と罵る行為はやめた方がいい、
というのが同番組での発言趣旨である。
水島氏は無効論の立場であるから、私が司会者を代えてほしいと要望するならまだわかるが、
南出氏が司会者の変更を要望するのはわがままであると感じ、
そんなことは通らないと思ったので、
「もし要求が通らなければ、この話が流れてもいいか」ということを最後に確認すると、
南出氏は司会の件は妥協した。
チャンネル桜からの最終回答は、さきほど述べたとおり、公開討論の場を提供するだけが原則。
番組という形態上、3対3の討論にしてもらいたい、ということだった。
研究者などの言論人だけでなく、議論ができれば一般人でも良いとの意向も示された。
私がその旨を南出氏に伝えると、
「真正護憲論のタレントは自分一人しかいない。なぜ3対1だと駄目なのか」
と詰め寄ってきたので、
「プロデューサーの意向を伝えているだけなので、私に言われても困る」と返答。
すると南出氏は「わかった。こちらからチャンネル桜に連絡する」と言い、
担当プロデューサーの名前を聞いてきたので答えた。
私がいつ連絡するのかと尋ねると、
「今週は東京都議会に請願を出すことになっているので、それが片付き次第、すぐに連絡する」
と答えて私との電話を切った。
私は一応その旨を担当プロデューサーに伝えておいたが、
その後、南出氏からチャンネル桜には一切連絡がなかったとのこと。
電話を切ってから東京都議会への請願を出し終わるまでの間に何があったのか、
その真相はわからない。
あれだけ公開討論を要望し、それまで常日頃からチャンネル桜も含む既存メディアで
持論を主張させてもらえないと不平を口にしていた南出氏だけに、
どういう心境の変化があったのか。
公開討論に出ればまずいと何かを察知したのかもしれない
これが事実関係であり、私がウソをつく理由はない。
はっきり言ってウソが多いのは南出氏である。
今回のやりとりで正直がっかりさせられた。
主張は違えども、南出氏は国士であると思っていた。
単なる思い違いであることがよくわかった。
---------------南出氏---------------
谷田川氏は、小林よしのり氏の論説に対し、
マッチ・ポンプの形で登場してきた人物であるとの理解から、
ご皇室のことで生業する天皇商売をする売文業者を嫌悪してゐる。
オウム真理教のことで、解説者として持て囃されてメディアに露出した
オウム商売の人々と同じ構造と考へてゐる。
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ここまで他人のことを罵りながら、南出氏は拙著をまったく読んでいないという。
単なる誹謗中傷、人格攻撃である。
そもそも私は影響力が大きいと思われた
小林よしのり氏の女系天皇論を放置しておくことはまずいと考え、
いても立ってもおられずインターネット上でその批判を展開した。
それが徐々に注目されるようになり、水島氏から出版の提案があったとき、
一度辞退していることは、すでに方々で公言している。
なぜなら私は売文業者どころか、単なるサラリーマンだったからである。
サラリーマンにとって、そんな大それたことをすることには躊躇があった。
しかし、水島氏の説得と、小林よしのり氏をそのまま放置しておくことはできない、
との思いから決断した。
そんな経緯も考えず、著作も読まず、
上記のような言動を簡単に吐き捨てる南出氏の人間性を私は疑う。
---------------南出氏---------------
渡部昇一氏も無効論を支持してゐるのに、谷田川氏は、渡部氏の番組に出してもらつて
渡部氏の無効論を批判せずに媚びを売つてゐる。
これも営業上の計算があるからである。
------------------------------------
渡部昇一氏の「大道無門」に出演したとき、皇統論の話がほとんどであった。
憲法無効論の話題が一瞬出たが、その時番組終了の数分前だったので、
そこから議論することはできないと判断し、
私は賛成するも反対するも表明せず、その場を流した。
そもそも渡部氏は、憲法学は専門外であることを公言しておられるし、
私は渡部氏の無効論は、法学理論ではなく政治論だと理解している。
私が南出氏を批判したのは、自身で憲法学者であると述べ、
法学理論として主張していたからである。
法学理論ならは根本的に間違っていると述べたまでである。
---------------南出氏---------------
(「憲法違反=無効」ではないというのが法学一般論という批判に対して)
近代法学といふ明確な確定理論が存在しないのに、
これしか法学が存在しないかの如き独りよがりの主張である。
社会科学が科学であれば、帰納法による証明しかなく、演繹法による証明は不可能である。
革命法学の仮説を帰納法による証明をせずに問答無用で真理だと主張するのは
科学ではなく宗教に他ならない。
近代法学が異論を挟まないほどの真理であることの証明責任は、
主張者にあるので、それをまづ証明しなさい。
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意味不明。
憲法そのものについては「憲法違反イコール無効」ではない、というのが法学一般論であるが、
異論を挟まないほどの真理であるなど誰も言っていない。
一般論はあくまで一般論である。
一般論に批判するのであれば、その論理的矛盾点と自説の学術的根拠とその論理性を
説明すればいいだけのことであって、それをしないで、
相手に「異論を挟まないほどの真理」であることの証明を求めるのは、単なる話のすり替えだ。
南出氏はこれまで「憲法違反イコール無効」という前提で主張を展開していたので、
こちらはそんなことにはならないことを、論理的に説明したわけである。
だったら、論理的に反論するべきであって、自身は一切の論理的な反論をせず、
相手側に「異論を挟まないほどの真理」であることを立証せよとは、
およそ学問と呼べるレベルの議論ではない。
---------------南出氏---------------
占領憲法が憲法として有効であるといふのであれば、これまで有効説と同様に、
どのやうな根拠に基づき、それが何時から有効となつたのかを明確に説明すべきである。
「近代法学」の論理なるものによつて有効になると主張するのであれば、
その「近代法学」とは何なのか。その具体的な内容と根拠の説明、
さらには、それ以外の見解が成り立たない理由を明確に示すべきである。
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これはすでに何度も述べていることだが、法典としての効力論を考えるのであれば、
現行憲法だけを見て、現実社会で機能しているかどうか、ということで判断することになる。
つまり、まずは“有効の推定”が働く。
政治哲学理念として無効なのであれば、即刻、捨て去る必要性があるし、
政治哲学理念でかろうじて有効なのであれば、
次にその法理的な効力論の根源を考えることになる。
左翼原理である改正限界説を除けば、無効の根拠は改正手続き違反だけである。
改正手続き違反の根拠は天皇の発議権の侵害、「意思の欠缺」であるから、
昭和天皇の御製や主権回復後のご発言から、
意思そのものが欠缺していなかったことが裏付けられることで、
法的瑕疵は治癒されたと考える。
したがって、南出氏の言葉を借りれば「始源的有効」であり、
帝国憲法との連続性として有効である。
---------------南出氏---------------
(憲法が法体系の頂点である以上、それを無効にする法的根拠は存在しないという批判に対して)
これは、憲法典を越える上位規範が存在するのか否かの議論である。
これが最大の問題である。
これを否定すれば國體は否定される。
國體の支配も立憲主義も否定される。
憲法は作られる法であり、祖法として発見される法ではないとすれば、
すべては革命思想になる。
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だったら最初から現行憲法の内容だけで、有効か無効かを論じればいい。
なぜ無効である根拠の中心に帝国憲法改正手続き違反を持ってきたのか。
それは「帝国憲法違反イコール無効」であると思っていたからだろう。
もしGHQ憲法が、今よりずっと歴史・伝統を反映していたとしても、
その改正は天皇の意思の欠缺に該当するから無効であると主張しなければ
主張の一貫性は崩れる。
つまり、上位規範などと持ち出している時点で、法学理論は崩れているのである。
ちなみに、私は憲法典を超える上位規範が存在しないなどと述べていないことは、
すでに説明しているとおりである。
---------------南出氏---------------
結局のところ、占領憲法が憲法として有効であるとするのであれば、
八月革命説と結論は同じことになる。
それでは、いつ時期に有効となつたのかを明らかにすべきである。
始源的か後発的かについて具体的に明らかにすべき必要がある。
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南出氏が八月革命説を理解していないことは、繰り返し述べているので、
読者はほぼ理解していることと思う。
南出氏は現行憲法の効力論が始源的なものか、後発的なものか、
ということにこだわっているようだが、こんなものは八月革命説と何の関係もない。
要するに八月革命説というのは、戦前と戦後の法的断絶をいっているのだ。
戦前と戦後の法的断絶とは、現行憲法というのは、
帝国憲法と性質の異なる新しい憲法が制定されたと考えるので、
帝国憲法から見れば関係のない始源的であって同時に後発的に効力をもっているのだ。
戦前と戦後の法的分断を意味するものは、すべて広い意味で八月革命説であって、
始源的か後発的かなど、何の意味もない議論なのだ。
大切なのは帝国憲法からの法的連続性があるかどうかであって、
私はすでに説明しているとおり、法的連続性があるという立場である。
---------------南出氏---------------
仄聞するに、少なくとも憲法学会に属してゐる学者に八月革命説を支持する者は居ない。
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これは八月革命説をまったく理解していないだけのこと。
南出氏は確か主権のない時期に革命など起こりようもない、といった、
まったく見当違いの批判をしていたのではなかったか。
だったら、現在の憲法学の通説は、現行憲法の効力についてどのように述べているのか、
説明してみなさい。
何度も述べたが、現在の憲法学では、改正限界説が通説で、
現行憲法は帝国憲法の限界を超えていると考えるのが、通説である。
こんなことを知らない憲法学者は一人もいない。
欽定憲法の改正による制定物は欽定憲法に限られ、
欽定憲法の改正により民定憲法となるのは理に反するというのが憲法学の一般通説である。
だから無効だと主張しているのが無効論だが、憲法が最高法規である以上、
憲法典と憲法典の関係は対等であることから、
「後法が前法破る」ことになり、現行憲法が有効になるという結論になる。
ここに戦前と戦後に法的な断絶が起こったと考えるのが、八月革命説である。
現在の憲法学会の主流はこの主張である。
---------------南出氏---------------
(占領憲法が国家としての憲法であれば、革命が起こったことになり、
無効論も八月革命説も同じことを言っているに過ぎない、という批判に対して)
全く意味が解らない。
占領憲法は憲法ではないとしてゐるので真正護憲論の批判にはなりえない。
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南出氏は、現行憲法は憲法ではないといいながら、
講和条約としての効力を認めるといっている。
結局、効力そのものは認めている。
内容はまったく同じものであるのに、憲法であったら「革命憲法」として無効、
憲法でなかったら「講和条約として有効」といっている。
これを自家撞着だと思わないのだろうか。
憲法であったら革命憲法あるようなものは、
講和条約であっても国内で機能することは無効であると考えるのが、
普通の論理構造ではないだろうか。
講和条約になった途端に無効なものが有効になるのか。
<八月革命説>
帝国憲法に違反→
革命憲法→
有効
<憲法無効説>
帝国憲法に違反→
革命憲法→講和条約として
有効
両者は最終的に憲法として有効か、講和条約として有効か、ということになり、
現行憲法が革命憲法であるということでは同じことを言っている。
自家撞着となっている講和条約説がこの先通説になるはずもなく、
その主張を唱えれば唱えるほど、八月革命説を支えるだけとなる。
---------------南出氏---------------
妥当性と実効性の意味が解つてゐないことを暴露してゐる。
帝国憲法は一部運用停止になつてゐるのであり、
これを以て妥当性と実効性が喪失したことにはならない。
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一部運用停止(実際は大部分の運用停止)になっていることを認めていることで、
妥当性はともかく、実効性がないことを証明している。
---------------南出氏---------------
「法の効力論」について、占領憲法には、妥当性と実効性があるとするが、
妥当性も実効性もないことはこれまで述べてきたとほりである。
占領憲法の核心部分である第九条の実効性は、約三年しか持たなかつたからである。
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現在、自衛隊が中長距離弾道ミサイルを保有できなかったり、
戦闘攻撃機に地上攻撃能力が備わっていなかったり、
集団的自衛権が認められていないのは、憲法9条の効力が発生しているからである。
そもそも帝国陸海軍ではなく「自衛隊」と呼んでいる時点で
憲法9条が効力を持っていることを証明している。
自衛隊存在の法的根拠が帝国憲法にあるなど、馬鹿げた理論であり、
それを証明するというのであれば、もう少しマシな論理を構築するべきである。
---------------南出氏---------------
占領憲法を「消す」といふのは、どうすることなのか判らないので、
どのやうにそれを実現するのかについて具体的に説明してもらひたい。
さらに、これに限らず、改正論者として、それをどのやうに実現するのかについての
ロード・マップも是非とも示してもらひたい。
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南出氏が左翼理論である改正限界説にこだわっているから、日本国憲法が憲法であるなら、
またも改正限界説にこだわって、日本国憲法の基本原則を変えることはできないと考えているだけ。
しかし、憲法改正手続きを経て新憲法を制定すれば、前の憲法は消え去ることになる。
ただ、それだけのこと。
---------------南出氏---------------
(「決定版・憲法無効論は破綻した論理」について)「國體」の存在を認めてゐるやうではあるが、
少なくとも憲法典を越える上位規範としての國體(規範國體)ではなく、
事実としての國體(文化國體)を認めるだけである。
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規範国体と文化国体の内容を説明していないのでよくわからない。
南出氏は、帝国憲法における規範国体とは
天皇の統治権などのことを述べているのではなかったのか。
その意味では、天皇と国民の関係は、戦前も戦後も一切変わっていないということを、私は述べた。
事実としての国体とあえていうなら、そのことではないか。
私が認めているという文化国体とは何ぞや?
---------------南出氏---------------
革命国家の憲法論を占領憲法の効力論として述べるといふことは、
占領憲法を「革命憲法」であると認めることになり、
実質的、結論的には革命説を主張してゐることになる。
しかし、後の論述で、帝国憲法の改正が占領憲法であるとして
法的連続性を認めてゐるのであるから、この点において矛盾破綻してゐる。
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まず、最低限のこととして、相手の述べている内容は理解するべきだ。
私は現行憲法の効力を、革命国家の憲法論(?)で説明していない。
無効だと叫んだところで、革命国家の憲法論(?)では、
憲法典が法体系の最高法規として考えれば、
新しい憲法が有効になるだけだと述べたにすぎない。
そもそも私は改正限界説を支持していない。
さらには、八月革命説は帝国憲法の改正手続きを利用して、
別の新しい憲法を生み出したと考え、法的連続性はないと主張している。
一方で、私は帝国憲法の改正により法的連続性があるということを主張している。
どこが矛盾破綻しているのか、さっぱり理解できない。
---------------南出氏---------------
法の効力について、私が尾高朝雄氏の見解を引用したことについて、
尾高氏の学説を理解してゐないなどとの批判をする言説が過去にもあつたが、
見当違ひも甚だしい。尾高氏がノモス主権論を唱へ、
これが國體主権論のヒントとなつたことから引用しただけであつて、
相原良一先生が尾高氏の見解を引用されたことを踏襲したまでである。
尾高氏は、妥当性と実効性について、一般的な定義をしてゐるのであつて、
何も特殊な見解を述べてはゐないのである。
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まったく論点をすり替えて逃げている。
見苦しい言い訳だ。
私は尾高氏の学説を理解していないなどと指摘した事実はない。
南出氏は、尾高氏が述べた「法の妥当性・実効性」ということを引用して、
現行憲法が無効であることを述べたが、
その用法が尾高氏が述べていたことと、まったく異なっていると批判したのだ。
要するに尾高氏が述べた「法の妥当性・実効性」を、
間違って使用していると述べているのだ。
南出氏は『占領憲法の正体』という著書のなかで、
現行憲法はその生誕の問題性から妥当性がないと述べ、
自衛隊が憲法違反であるから実効性はないと述べている。
ところが尾高氏はそんなことは述べていない。
尾高氏の説明によると、妥当性とは、
法として行わなければならないという要求を備えていることであり、
実効性とは、法が社会生活の事実によって「底礎」されていることとなる(『法哲学概論』)。
学説がどうのこうのという話以前に、用語の使い方が誤っていると述べているのである。
さらには尾高・宮沢論争で、尾高氏は現行憲法が無効だと唱えたのか?
尾高氏はドイツ法哲学を中心に学ばれたので、
伝統・慣習によって積み上げられたものが上位の“法”として存在する概念を
知らなかったようだが、彼の良識により、
憲法制定権力を主体とする国民主権概念を疑った。
これは無限界説に依拠した考えである、
一方の南出氏は、憲法無効論の根拠の軸に、
天皇の発議権や、統治権ということを置いている。
そして限界説を主張する。
やはり、尾高氏の学説を理解していないのではないだろうか。
---------------南出氏---------------
「憲法を無効とするタイミングは・・・独立回復した直後であれば可能性はあっただろう。」
とする主張は、真正護憲論を否定してゐることと矛盾する。
政治論なのか法理論なのか判別できない主張である。
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これはいい指摘だ。
私は政治学的に憲法典の効力を失わせる意味での無効と、
実定法学としての憲法典の無効を区別している。
私は天皇陛下をはじめ、国家機関の三権、
国民の99%以上が憲法として認めて運用している以上は、
妥当性と実効性を備えていると述べたが、
これには実定法学的な意味と、政治学的な意味の双方が含まれる。
本当に天皇陛下も国民も革命憲法だと思っていたら、
時間によって実効性が生まれなかっただろうと考えている。
昭和天皇が「この内容なら国体は変更していない」とお考えになられたように、
国民も「まあ、いいだろう」と思った背景には、
憲法そのものが革命憲法ではなかったことを裏付けていると見ることができる。
ただし、国体は変更していなかったものの、
占領中の憲法改正に違和感や問題意識があったことは事実であり、
占領中は当然のことながら主権が制限されているため必ずしも実効性があるとは言い難く、
主権回復後しばらくの間も実効性が備わっているとまではいえない状況はあった。
その間は、いくら法学的に帝国憲法と日本国憲法が対等であるとしても、
「後法が前法を破る」とまではいえないことから、
日本国憲法の無効確認をやって、帝国憲法に戻すか、
帝国憲法を改正したかたちの憲法を制定することは、法学理論上でも可能であった。
しかし、国家全体において完全に憲法として妥当性・実効性を持ってしまった以上、
実定法学上は無効にすることはできないと考える。
政治学上、無効であると考えるかどうかは、これは学説上、自由となる。
私は現在のところ、好ましくない状態ではあるものの、
かろうじて有効である、という立場である。
---------------南出氏---------------
「現行憲法第1条は、国民主権条項であるから、
限界を超えたと考えることもできると思いますが。・・・」として、国民主権を肯定してゐる。
そして、国民主権の概念を曖昧にして誤魔化してゐる。
天皇の地位は、主権の存する国民の総意に基づくといふことは、
前述のとほり、英文憲法では「the will of the people」であつて、
「人民の意志」とあり、日本国民とは限らない人民の過半数による意志(一般意志)が
天皇に対する生殺与奪の権を持つてゐるといふことを肯定することになる。
------------------------------------
「the will of the people」(人民の意志)などわが国の歴史・伝統には存在しない。
それ故に訳しようがないから、「国民の総意」としたのではないか。
つまりGHQの原文を、日本の歴史にあわせて正しく表現しようとした形跡であって、
その部分は素直に評価していいと考える。
日本人が国語によって国民の総意と表現したのであるから、それでいいではないか。
その当時の人は、真剣に国体の継続、帝国憲法との連続性を意識していたのであるから。
わざわざ、もう一度「人民の意志」と表現し直すのは、
単に根性がひん曲がっているだけのことである。
国民の総意とは、国民全員のことであるから、
歴史的な天皇と国民の形態を表現していると考えられる。
日本人であるなら、素直にそう考えるだけのことではないか。
わざわざこの規定を天皇の生殺与奪の権利だと考えるのは、そう考える人間の問題であって、
日本人であるなら「天皇の生殺与奪」なる発想は存在しない。
---------------南出氏---------------
「真正護憲論」と「左翼憲法学」とが、
「似ているも何も、結論だけが違うだけで、ほとんど同じだよ。」
とすることも意味不明である。
「現行憲法は帝国憲法と連続している」としながら、
帝国憲法に違反しても占領憲法は有効であるとすることは、
結局のところ革命論に立脚してゐることになる。
------------------------------------
意味不明だと言っていることが意味不明だ。
私は現行憲法が帝国憲法に違反しているなどと述べていない。
仮に違反していたとしても、法学上は憲法が無効になることはないと述べているだけだ。
憲法無効論と左翼憲法学の双方が、帝国憲法に違反している、改正の限界を超えている、
と主張しているのであるから、結論が違うだけでほとんど同じではないか。
中学生でも理解できそうなことだと思うのだが。
実際によく理解したという高校生は存在する。
---------------南出氏---------------
交戦権と自衛権に関して、「ケーディスですら、個別自衛権は国家としての自然権だといい、
マッカーサー原案に修正を加えたし、
その後の芦田修生などによる立法過程において終わっている話だ。」といふのは、
何の意味か解らない。
これは、「交戦権なき自衛権」の議論を避けてゐる。
そして、「事後法により日本が永久に講和条約を結べないなどということは
法理論としてはありえない素人の議論なんだ。
相手国は日本の国内事情によって、永久に日本と戦争状態を続けなければならないというのか。
馬鹿げた話だよ。」とするが、一部講和は、一部の国とは講和し、
残りの国とは講和しない(戦争継続)である
交戦権行使による国家意志であることを見落としてゐる。
------------------------------------
これは勝手に南出氏が独自で交戦権の定義をしているだけだ。
交戦権にどこまでが含まれるかは定義によって様々だ。
南出氏が勝手に交戦権に講和まで含めているだけであって、そうではない定義も成り立つ。
講和しないことは戦争継続であって交戦権に含まれるというが、
その場合の交戦状態の根拠は、講和しないことによる交戦なのではなく、
最初に戦争をはじめたときの交戦権行使が生きているという論理も成り立つ。
むしろそっちの方が自然だ。
だから、一部講和が交戦権の行使というのは、
論理的に何ら一貫しているわけではない。
---------------南出氏---------------
「帝国憲法75条」を類推適用できないとするが、そんな根拠はない。
類推解釈が禁止される刑法の罪刑法定主義とは全く視点の異なる問題である。
これほど法学の基礎知識が欠落した主張も珍しい。
------------------------------------
私の批判をまったく理解していない。
類推解釈というのは、当然のことながら法の文理解釈ではない。
そういう主張がされなければ無効ではないということでもあるから、
条文そのものから当然に無効が導かれるわけではない、ということを述べているのだ。
要するに類推解釈と述べている時点で、
「できないこともない」、「できるかも」ということだから、
無効理論の根拠としては極めて弱いということだ。
憲法無効の中心理論に類推適用という文言があるだけで、
根拠薄弱と自ら表明しているに等しいと批判しているのである。
---------------南出氏---------------
「天皇の意志主義に反する」といふのは、帝国憲法第七十五条のみならず、
第七十三条の問題である。
非独立の完全軍事占領下で自由意志があるとする方が異常な考へである。
------------------------------------
自由意思があることと、意思の欠缺は別の問題である。
例えば、強迫行為によってなされた法律行為は自由意思は存在しないが、
その行為そのものが意思に反するかどうかは別の話となる。
そもそも意思主義は近代法の基本原理である。
そうであるならば、独立回復した国家が憲法とした“意思”も存在するのであり、
意思と意思がぶつかれば、憲法という最高法規の関係上、
新しい意思に基づく憲法の正当性を定めることになってしまう。
近代法原理のなかで論争する以上、絶対に無効論が勝つことはないと述べているに過ぎない。
---------------南出氏---------------
昭和天皇は、昭和五十六年四月十七日の記者会見や独白録において、
自ら決断したのは、二・二六事件のときと、大東亜戦争の終結のときの
二回だけであつたと述べられてゐる。
つまり、帝国憲法改正発議、占領憲法の公布は、
自ら決断したことでないことを述べられてゐるのである。
------------------------------------
立憲君主制というものを根本的に理解していないのではないだろうか。
昭和天皇が「決断」されたというのは、
立憲君主の立場を逸脱した疑いのある行為だと認識されていることだ。
それが二・二六事件と終戦の御聖断である。
憲法改正の発議及び公布は、立憲君主制の範囲内のことであるから、
昭和天皇が仰せの「決断」には入らないのだ。
こんなのは立憲君主制というものを理解していれば、誰でも知っていることだと思うのだが。
---------------南出氏---------------
「皇室典範を皇室にお返しするべきでは、という意見がありますが。
・・・それは憲法無効論とは関係のない話だよ。」とするのは、
全く真正護憲論を知らないことを自白してゐることになる。
「皇族会議と枢密院を復活させれば、枢密顧問になるのは、
民主党の各大臣や首相経験者などとなろう。」とするが、
皇室会議は直ぐに復活できても、枢密院(正確には枢密顧問)は
機関欠損のまま皇室の自治と自律によつて運営されることになる。
------------------------------------
機関欠損にするかどうかは、誰が判断するのか。
そもそも戦前の皇室典範は、皇族会議と枢密顧問が
セットで機能することになっていたのであるから、
憲法及び皇室典範の無効を確認したのであれば、
復活した皇室典範に基づき、枢密顧問の整備が法的に要請されるはずだ。
華族制度など物理的に存在しない場合は、機関欠損として処理せざるをえないとしても、
可能なものはすぐに要請されなければおかしい。
人材がいないから枢密顧問が復活しないという理由では、
憲法や皇室典範の恣意的運用につながる。
それは法学上の法の支配とは呼べない。
---------------南出氏---------------
「彼らが現行憲法は講和条約というが、参議院は明らかに矛盾しているね。」
といふ意味が解らない。
帝国憲法下の機関である貴族院と
占領憲法(講和条約)下の機関である参議院とは全く別の機関である。
衆議院についても、帝国憲法下の機関の衆議院と占領憲法下の衆議院とは、
名称は同じでも別の機関である。
------------------------------------
講和条約説というのは、帝国憲法に違反しないかぎりにおいて
講和条約として有効だという主張ではないのか。
参議院は帝国憲法に反した制度である。
参議院の法的根拠は何か。
そもそも前述したとおり、講和条約というのは条約であって、
国内法的な効力を持たせるためには立法措置が必要となる。
別の機関だというのは、何ら説明にはなっていない。
その別の機関の法的根拠を尋ねているのだから。
---------------南出氏---------------
昭和天皇が昭和五十二年八月二十三日、那須の御用邸で、
「第一条ですね。あの条文は日本の国体の精神にあったことでありますから・・・」
と指摘して我田引水を試みるが、むしろ、そのとき、
「国体といふものが、日本の皇室は昔から国民の信頼によつて
万世一系を保つてゐたのであります。」
と述べられて、帝国憲法の実効性を認識してをられたのであるが、
谷田川氏はそのことを殊更に隠蔽してゐるのである。
------------------------------------
昭和天皇の「国体といふものが、日本の皇室は昔から国民の信頼によつて
万世一系を保つてゐたのであります」というご発言が
なぜ帝国憲法の実効性とつながるのか説明してもらいたい。
帝国憲法は明治からだが、万世一系は二千年以上の歴史がある。
しかも隠蔽しているのは南出氏である。
南出氏が後段に付け加えたご発言の冒頭には、
「今話したように」とついている。
現行憲法第1条に付け加えて仰せになっていることは一目瞭然である。
「国民の信頼によつて万世一系を保つてゐた」という部分は、
南出氏らが批判している国民の総意の部分である。
さらにいうと、昭和天皇はこのときのご会見でも、
帝国憲法を語るときは「明治憲法」と発言され、現行憲法と区別されている。
そして明治憲法の話をされたあとに、現行憲法の話に移行していくわけで、
その中で第一条について
「日本の国体の精神にあったことですから、そう法理的にやかましいことをいうよりも、
私はいいと思っています。」と仰せになっている。
どこをどう読んだら帝国憲法の実効性の認識につながるというのか。
陛下のご発言を曲解して、無理から反論しようとする、
非常に見苦しい行為であると言わざるをえない。
---------------南出氏---------------
天皇主権から国民主権へと委譲されたとする竹田氏に対して、
これを否定する谷田川氏は、竹田氏の「承詔必謹」説をどのやうに理解してゐるのか。
これは國體の変更になるといふ意味か。
そもそも、承詔必謹の意味も解つてゐないことによる謬説である。
------------------------------------
まったく事実無根の批判である。
竹田恒泰氏は天皇主権から国民主権へと委譲されたなど一言も述べていない。
むしろ、そういったことを否定されている。
私は竹田氏から憲法の話を何度も聞いているが、主権などは目に見えないものであり、
天皇にも国民にも存在しないというのが、氏の持論である。
それは昭和天皇が仰せになった「日本国体の精神」ではなかろうか。
---------------南出氏---------------
谷田川氏は、昭和天皇の御製である、
うれしくも国の掟のさだまりて あけゆく空のごとくもあるかな
を引用するが、それでは、明治天皇の御製である、
世はいかに開けゆくとも古の國のおきては違へざらなむ
をどのやうに受け止めるのであらうか、是非とも聞いてみたいところである。
------------------------------------
何だこれは?
昭和天皇の御製と、明治天皇の御製の優劣を問題にしているのか。
私は現行憲法施行に伴い昭和天皇が詠まれた御製に嘘があるはずもない、
ということをただ示しただけである。
南出氏は明治天皇の御製に照らして嘘があると言いたいのか?
何を問題にしているのか意味がわからない。
ただ言えることは、少なくとも昭和天皇は誰よりも明治天皇への思いが強かったと
お察しできることだ。
そういうことを全部ふまえた上での御製である。
私はただ、素直に昭和天皇の思いに従いたいと思っているだけである。
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