理性主義という左翼思想
かつて我が国に消費税を導入するとき、自民党は参議院選挙で大敗し、
社会党マドンナ旋風が巻き起こり、世論は消費税反対一色となった。
現在は消費税そのものに反対する人はほとんどいなくなった。
かつては総理大臣にしたい人No1に田中真紀子がなったりした。
いまそんなことを思う人はいない。
これが世論である。世論とはうつろうもの。
人間の理性などというものは脆弱なものである。
この理性により、国家制度を構築することができるというのが理性(万能)主義であり、
社会主義思想や共産主義思想の元となる考え方である。
わたしは理性主義というものを、革新思想として厳しく批判している。
表面上、共産主義はもう存在しなくなったが、現在における最大の敵は、
一見左翼とわからない理性主義というものである。
マルクス、レーニンは流行らないから、ルソーの理性主義を持ち出している。
理性というものを中心に、国や社会を考えることが、どれだけ危険であり、
理性そのものが脆弱であるということについては注意しておかなくてはならない。
『国家の品格』での藤原正彦氏の言葉を借りれば、
論理というものは、出発点が間違っていれば、
論理が通れば通るほど、止めどなく間違った方向にいくことになる。
理性の脆弱さを一つの例で説明してみよう。
わたしが競馬で1万円負けてしまったとしよう。
これを取り返すべく、翌日に大穴を的中させて、10万円獲得した。
さて、わたしは負けを「取り返した」と言えるでしょうか?
実生活に置き換えれば、わたしは確実に負けを取り返した。
ところが、論理の上では、取り返したことにならない。
なぜなら、最初に1万円を負けていなかったら、わたしの所持金は11万円となっていたはずだ。
1万円が足りない。
もっと極端なことを言えば、競馬で1万円負けた翌日、
宝くじで3億円当たったとしても、負けは取り返しておらず、
本来なら所持金は3億1万円だったはずである。
詭弁のように思われるかもしれないが、これは数学の上では深刻な問題で、
かつて渡部昇一氏から、人間と亀との競争で、
論理の上では10m先を行く亀を人間が永遠に追い越すことができないという
古代ギリシャのパラドックスを聞いて、衝撃を受けたことを思い出す。
人間と亀との距離は限りなく詰まっていくのであるが、永遠に小さな間隔となっていき、
計算上はいつまでも追いつかないという。
「現実」にはあっという間に追い抜いていく。
平面上の二本の直線が交わることについて、計算上はどうしても説明がつかず、
気が狂って自殺した数学者が何人もいたそうだ。
実は数学者に自殺者は多い。
前提をひとつ間違えると、理性では説明つかなくなる。
現実と理性・論理のパラドックスとなる。
殺人すら"絶対悪"であるということを、論理的に説明することは不可能だという話がよくある。
つまり、殺人を正当化する論理など、いくらでも成立するからである。
小林よしのり氏は、これと皇室の伝統とは別だと述べているが、
実は皇室だけではなく、我々の身の回りのことのほとんどは、
本質を論理で説明することは不可能なのだ。
科学技術も同じ。
飛行機がなぜ飛ぶのかということについて、究極には説明することができない。
科学というのは、一言で言うと、同じ環境で、10回実験して、10回同じ結果になることをいう。
単純に言うと、飛行機は、10回飛ばして、10回飛ぶから、飛ぶのだとしか説明できない。
もちろん、細かい部分的な機能を説明していくことになるが、
その細かい技術を突き詰めていけば、
必ず最後は、○○が××となって△△となるという説明になる。
何回実験しても、○○→××→△△になるということしか言えないのだ。
最後には同じ答えを繰り返すだけとなる。
最近、よく社会科学、政策科学という学問を目にすることがあるが、
社会というのは、まったく同じ環境で同じ実験を繰り返すことができない。
人間の社会生活が絡んでくると、必ずその時々において条件が異なることから、
政治や社会に"科学"なるものは、存在する余地がないのだ。
実験のできない社会制度において、知性・理性により制度を構築できるというのは、
理性の過信であり、人間の傲慢である。
事業を興して、会社を一つ作ったとする。
頭の良い人間が、いくら下準備を重ねても、思いもよらなかった問題が必ず発生する。
その問題を解決しながら、そして実際に動かしながら、会社というものは形成されていく。
国というのは会社など比較にならないほど、複雑な要素を含んでいる。
人間の知性などにより、社会秩序を構築できるなどというのは思い上がりである。
たたき上げの中小企業のオヤジさんたちは、設計主義となる共産主義思想などにはひっかからない。
ひっかかるのは、一流大学の教授や学生ばかりである。
国というのは、動かしながら、形づくっていくもので、それが"国柄"となる。
人間には人柄があるように、国には国柄がある。
長く続いている国ほど、独特の国柄が存在する。
世界最古の国である日本では、天皇を頂点とする国柄のことを"国体"と呼ぶ。
理性というものには、根拠がないという話に戻ると、
わたしが以前、左翼の人と議論した内容が非常にわかりやすいのではないかと思うので、
そのやりとりの一部を紹介してみたいと思う。
男女共同参画についての議論だったのだが、
わたしの主張は「法律上の権利としては男女平等を保証しているが、
実社会の多くでは、男性が中心に仕事をして、女性が家庭を守るという選択をしている。
これは日本社会が伝統と現代的価値観との整合性を保とうとしている姿である」というものだった。
これに対して、左翼の人が、「家庭を守るという選択をしている女性は、
そう思わされているとも言える」と反論した。
それに対して、わたしは「それじゃ、すべての女性は男性と肩を並べて仕事するべきだと主張する女性もまた、
そう思わされているだけと言えるのではないか。
そちらが正しいという根拠は何ですか?」と述べると、相手の人は言葉に詰まった。
「そう思わされているだけ」と言ってしまったら、どちらにも当てはまるし、
もっというと、何が正しいのかということを論理的に説明することなど不可能である。
その議論をしたときは、ちょうどイラク戦争のときだったのだが、
意地悪なわたしは、さらに「あなたの言っていることは、アラブ人の女性にブルカを取れと言っているに等しい。
ネオコンと同じだ」と言った。
イラク戦争に猛反対をされていたその人は、何も言えずに悔しそうだった。
あらゆるものごとについて、何が正しくて、何が誤りなのかということは、
論理的に説明ができない。
しかし、説明ができなくとも、時間とともに規律や秩序が生まれる。
そして「正しいものは正しいのだ」と言うしかないのだ。
中国では人々が列に並ばない、割り込まなければ前に行けないというのは有名な話である。
北京五輪のとき、鉄道や公共施設で当局が強制的に並ぶように圧力をかけたが、
オリンピックが終わると、また並ばなくなったそうだ。
日本人は誰もが強制されることなく列には自然に並ぶ。
これは人間の理性によりつくられた秩序ではなく、
長い歴史の中で構築された文明人としてのあり方である。
中国人を列に並ばせようとするなら、理性では不可能で、銃を突きつけるしかない。
理性により秩序を形成させることなどできない。
自分の妻は新堂冬樹などのハードボイルドな小説を好む。
たとえば借金苦からいろんな事件に発展するものなど、
社会の底辺に潜む闇のような話が多い。
ところが、こんな小説は外国ではまったく通用しない。
「なぜこんな人間にお金を貸すのだろうか?」
「この人はどうして保証人などというものになるのだろうか?」
たちまち様々な疑問が沸いて出てきて、話がなかなかのみこめないだろう。
日本では信用社会が完成している。
人を信じるというのは世界では当たり前ではない。
口約束で契約が成立することも珍しい話ではない。これは暗黙の了解ともいう。
すぐに書面にしてほしいと言ったら、しらける場合もある。
岡ア久彦氏の「これから色々な局面で、どんどん中国には抜かれていくだろう。
しかし、日本にとっては何の問題もない。
日本はこれまでと同じように高度の文明を維持していくだけだ」
という言葉を聞いたときは、目から鱗が落ちた思いだった。
中国のGDPはいずれ世界一になるのではないかということについて、
渡部昇一氏は「小便の量も世界一である」と揶揄する。
「金」と「理性」というものだけでは、高度な文明という点で、
この先中国は日本に追いつくことはできない。
理性と伝統との関係について、もう少し踏み込んで考えてみる。
一つのところにとどまらない民族にとっては、時間による秩序が生まれにくい。
だから強力な絶対神が生まれたのだとも考えられる。
宗教や伝統をのぞけば、あらゆるものごとや価値基準に根拠がないということで、
近代の啓蒙思想以降、この分野について、哲学者が悪戦苦闘するのだが、
結局は、そんなもの見つからないと考える保守思想と、
理性というのはどんどん進歩するのだという革新思想に分かれることになった。
理性万能主義というのは、人間は時代とともに、どんどん進歩すると考える。
なぜ理性に根拠をおくことができるのかというと、
最も新しい理性が最高なのだという考え方となる。
過去の時代は野蛮な時代であって、人間は時代とともに進歩するということだ。
小林氏が述べていることを要約すると次の通りになる。
<現代人の理性は最高である。この理性で歴史について考えると、
これまでの皇統は、シナ宗族制度の影響を受けた野蛮な形態であることが改めてわかった。
この楔を現代人により解き放つべきだ!>
これは理性万能主義の考え方そのものである。
皇學館大学の新田均教授は、小林氏との論争で、
現状分析から歴史再解釈により結論を導くことが理性万能主義の論理講造であると指摘をしたわけだが、
もう一つ付け加えるとするなら、
現状分析をする理性が最高に位置するという面が、
もっとも理性万能主義の特徴であるといえる。
理性万能主義は、歴史を野蛮であると切り捨て、現代人が最高であるととらえるが、
わたしは逆に、歴史、伝統に背くことが、
最も野蛮であると断言するし、歴史が証明していると考える。
歴史・伝統を軽んじた人たちを列挙しよう。
フランス革命のジャコバン党、社会主義者のヒットラー、
共産主義者のスターリン、毛沢東、金日成、ポルポト、等々。
こういった人たちは、必ず大虐殺を行う。
革命というのは、例外なく強権・圧政の政治となる。
伝統を否定したとしても、理性では秩序を構築することができないから
恐怖政治とならざるを得ない。
歴史・伝統を無視すると、人は必ず野蛮人と化すのである。
伝統に対する謙虚な姿勢があれば、人は傲慢になることなく、
さらに美しい伝統と秩序を形成していくことになる。
その結晶が二千年の秩序を受け継ぐ我が国体なのだ。
この悠久の叡智の集積となる国体に、
「なぜ男系でなくてはならないのか明確な説明がない」ということは、
納得できる論理がなければ、自分は承諾しないという、理性主義となるのだ。
森羅万象、世の中には論理で説明できないことの方が、ほとんどである。
「神話と歴史の区別」というと、小林氏は「神話を否定した!」というが、
神の存在などは、論理では説明がつかない象徴的なものとなる。
説明がつくものと、説明がつかないもの、
という基準でものごとを区別して考えるのは、唯物論である。
唯物論であり、理性万能主義ということになれば、典型的な革新思想となるのだ。
小林よしのり氏は自分が革新的思考であるということに気づいていないことが、
また悲劇を生んでいる。そのことが、もはや多重人格者のような矛盾を引き起こしているのだ。
----------小林よしのり----------
元々わしはサヨクだったのだ。
学んで変わっていった過程も読者に見せているし、読者と共に成長している。
もちろん今も変わり続けている。
(『SAPIO』平成22年6月23日号)
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「読者と共に成長している。もちろん今も変わり続けている」ということであれば、
さらにどんどん成長して、
「やっぱり女系はまずかった」というところに行き着いてしまったらどうするというのか。
未来の自分のことがわかるなどと言ってしまえば、もはやマルクス主義と同じである。
こういうことがあり得るから、
理性主義というものを疑えという保守主義の存在意義があるのではないか。
伝統を否定するのではなく、また理性を否定するのではなく、
伝統のもとに理性がどのように位置づけられるのかという、
保守思想の論理講造を知るまでは、
小林よしのり氏の思想的迷走状態は続いていくことになるだろう。