2000/1/23 礼拝説教 「聖なる者となれ」 



 レビ記は27章まである書物ですが、その末尾の一文にこの本の性格が明らかにされています。すなわち27章34節に「以上は、主がシナイ山において、モーセを通してイスラエルの人々に示された戒めである」と述べられています。レビ記は「神からの戒めの書」とされ、沢山の規定が綴られています。今日わたしたちがともに聞いた箇所を含む17章から26章は、特に「神聖法典」という名前でも呼ばれており、一つのまとまりを持っていると考えられています。つまり、この部分には特に大事な内容が簡潔にまとめられている、ということです。この部分はイスラエルのバビロン捕囚時代にまとめられたと考えられています。イスラエル国家が崩壊し、信仰の拠り所であった神殿が破壊され、人々は異邦人の地へと連れていかれてしまいました。そのような中で、いかに自分たちの信仰を守るか。そのような共同体の危機感の中で、古い律法の伝承を出来るだけ保存し、次の世代に伝えていこうという意図を持った人々がこれらの法典をまとめたと思われます。特に19章には、あとで見るように、十戒と同内容もふくまれており、「捕囚期における律法の要約」と呼ぶ注解者もおります。このような規定集がいろいろな集会の機会に読まれ、契約の民の従うべき戒めとして教えられてきたのでしょう。このような文書の存在も、捕囚期を乗り越えたイスラエル宗教の力の一つであったに違いありません。

 さて今日ともに聞いた箇所では、特に日常生活や習慣についての規定が述べられています。そのなかでも注目したいのは、それらの規定において、イスラエルの民の相手となる人たちです。例えば10節には「貧しい者」「寄留者」が出てきます。13節には「雇い人」、14節には「耳の聞こえぬ者」「目の見えぬ者」といった具合です。現在においてすら弱い立場に置かれている人たちですが、はるか昔の社会ではより過酷な運命の元にありました。たとえばヨハネ福音書9章の生まれつき目の見えない人を癒す話でも出てくるように、障害を持っていることは神の罰の結果だと考えられていたので、それゆえ一層見下される立場にあったわけです。ところが、イスラエルのもっとも聖なる律法の中にそのようないわば「汚れている」と考えられていた人たちが現れてきているのです。なにか不釣り合いな、奇妙な感じを抱かれないでしょうか。

 丁寧に見ていくことにしましょう。9、10節では刈り取りでの決まりです。いわく「すべての収穫物を根こそぎ集めてしまってはいけない」ということです。それはなぜか。それらは貧しい者や寄留者のためのものであるから、と述べられています。彼らは豊かな実りを約束するような広い土地を持っていたわけではなかったでしょうし、おそらく糊口をしのぐことすら苦しかったと思われます。旧約聖書では『ルツ記』の中に落ち穂を集める外国人としてのナオミが出てきます。また「落ち穂拾い」といえばミレーの有名な絵画を思い出すかもしれません。あそこに描かれているのもやはり貧しい人たちでありました。『ルツ記』の成立は紀元前4から5世紀、ミレーは19世紀の人ですから、少なくとも二千五百年以上の間「落ち穂拾い」というありかた、すなわちそのような経済状態にあった人たちがいたわけです。彼らのために、穀物やぶどうなど収穫の一部はわざと残しておけ、と神は命じています。それは立場の弱い人たちに対する配慮を忘れるな、という警告でもあります。

 11節と12節では、十戒のうちの第3・7・8戒が繰り返されています。いずれも他者との関係がある内容になっていることに注目しましょう。社会のお互いの間でどのようにあるべきか、を定めています。盗むこと、嘘をつくこと、欺くこと。いずれも人間が為し、社会の乱れを引き起こすものです。さらに12節では、偽りの誓いということで、誓いをする相手の人間に対する欺き、さらには誓いの保証としての神への欺きが戒められています。

 13・14節では、再び社会的立場の弱い人たちが扱われています。13節冒頭には「隣人を虐げてはならない」とありますが、それはどういうことなのでしょう? 続く部分に具体的に示されています。まず第一に、雇い人の賃金はその日のうちに払うこと、とあります。この場合は日雇い労働者のことですが、もしその日のうちにお金をもらえなければその日の食事すらままならないような状態であったともいわれています。そのような人たちにとって、支払いの遅れは死活問題といえるでしょう。第二には、耳が聞こえない人を悪く言ってはならない、と。本人にはそれは聞こえませんが、その悪口によって本人はいずれ害を受けます。本人が反論しようもないような意地悪をしてはいけない、ということです。第三に、目の見えない人の前に障害物を置いてはならない、とありますが、これは第二のものとよく似ています。ここに出てくる三者のような、全く無力な人たちに対して悪意を持つことを神が禁じていることは、実際にそのようなことがあったことを窺わせますが、また律法がそれらの人々に特別な関心を示していることも私たちは知ることができます。

 15・16節は公正な裁判についての規定です。力あるものにおもねってはならない、ということは私たちの実感としてもよく分かりますが、弱いものをかばってはいけない、ということには違和感を抱かないでしょうか。もちろんこれは裁判の場に限ったことではありますが、私たちはやはり弱い者には味方したくなる者です。しかし神は、単に弱いからという理由だけで弱い者の贔屓をすることを禁じています。それは公正さを欠き、神の意志に合わないばかりか、裁判の相手に対して逆に批判をの余地を与えてしまい、いつまでも決着がつかないことになってしまいます。それは却って弱い者に不利となることでしょう。神はあくまで公正な裁判を求めているのです。そのためには、中傷や偽証は当然禁じられます。これは先の11、12節と具体化といえるでしょう。

 17節の「兄弟」は、血族としての兄弟のみならず、隣人をも含んでいると考えられます。16節まででは「嘘をつく」「欺く」「虐げる」といった表に現れてくる行為についての禁止でした。ここではさらに一歩進んで、「心の中で」憎むことをも禁止します。それは結局行為へとつながるからです。むしろ心の中の悪を追放することが、今まで述べてきたようなすべての悪をなくすことなのです。そうではなくて、もし隣人の中に悪を認めたら、自分の心の中で非難するのではなく、はっきりと戒めるべきであると勧めています。心の中では非難していても表向きはその隣人の悪を見逃しているなら、その人も共犯、同じ罪を犯すことになります。いや、それは見逃しているだけにより重い罪となるといえるでしょう。

 18節には復讐の禁止が挙げられます。旧約聖書の中には、同害報復、つまり「目には目を」という復讐のあり方についての有名な決まりがあります。それは出エジプト記21章24から25節、またレビ記24章20節にも記されています。復讐の禁止については、ユダヤ教の中でも早くから同害報復の見直しがなされていたようで、レビ記19章の規定はより進んだ後の時代の形であると考えられます。復讐の機会を狙うのではなく、却って隣人を愛することによって復讐の怒りを乗り越えよ、というのです。「隣人を愛せよ」。どのようにか? ここでも具体的に愛のあり方が示されています。いわく「自分自身のように」。他人であると考えるから自分と区別をし、あの人は自分より優れているからといっては妬み、あの人は自分よりも劣っているからといっては見下す。神のもとでは自分も他人もありません。他人の優れた点を自分のことのように喜び、劣っている点は自分のことのように悩み、改善しようとする。そのような神のもとにある共同体の一員としてのあり方が勧められています。

 今日の聖書においては、いずれも「他者」との関係が問われています。特に、最初に述べたように「弱い者」に対する関心が強く表れています。何度も出てくる、社会的に弱い立場にある人々への配慮は、当時の宗教的・社会的背景においては革新的な内容です。イスラエル宗教においては、人間世界における相互のあり方について、大変進んだ規定を持っていたことがわかります。そのような人間の関係についての関心は、イエスの思想の基礎となったといえましょう。

 最後の18節は、新約聖書のなかでイエスが律法の最重要部分の一つとして教えています。しかしそれだけがイエスとの共通点ではありません。社会的に弱い立場にある人々への配慮は、イエスにおいては具体的な行動として実現されていきます。イエスは律法の規定を消化し、自分のものとした上で、それを生きていったのです。貧しい人たち、社会的に虐げられた人たちを招き、癒し、力付ける。それらはまさにレビ記に描かれた神の戒めです。しかし戒めを単に言葉として語るのではなく、みずから体現していったイエス。神の律法を生きたものとした彼の内に、まさに「神の国」が現れているということができるでしょう。

 「隣人愛」という点において、旧約聖書の律法と新約聖書のイエスがつながります。そしてそれは神へと遡っていき、神の愛が明らかになるのです。レビ記の規定は決して無味乾燥なものではない、ということをイエスご自身が示しました。律法という入り口から入るか、イエスという入り口から入るか。「すべての道はローマに通ず」と同じように、「全ての聖書は神の愛に通ずる」のです。あなたはどちらから入りますか?

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