2000/3/5 礼拝説教「耳をかたむけて」 詩編10:1-18 



 世の中には随筆家と呼ばれる人達がいます。今では「エッセイスト」というほうが通りがいいかもしれませんが、そういう人達の中で、優れた随筆を残した人々には科学者が多くいる、というのは面白い事実だと思います。著名なところでは、夏目漱石の弟子でもあった寺田寅彦、また雪の研究者として有名な中谷宇吉郎などがいます。これらの人達のエッセーは、いわゆる文学者が書くのとはまた違った切り口から日常の現象を見ている、という点でユニークなものがあります。例えば寺田寅彦の随筆の中には、「最初の電車は混んでいるが、すぐ後に空いている電車が続いてくる」というものがあります。経験的に私たちも感じていることですが、寺田さんはさすがに学者でありまして、すぐに実際の情況を調べて統計をとり、仮説の証明をする、というところが非凡なところでしょう。いずれにせよ、エッセーは個人の経験をもとに語ることが普通だといえます。個人の感じたことを思うままに書き連ねる、あの兼好法師の「つれづれなるままに…」というのがその神髄を表わしているといえましょう。

 今日ともに聴いたみ言葉も、やはり個人の経験を刻んだものであると感じられます。特に前半の部分では、現実のありさまが嘆きのごとくに語られています。そもそも、この詩編10編というのは、もともと詩編9編と一続きになったものと考えられます。というのは、これは原文でないとわからないのですが、詩のひとまとまりの言葉の始めがそれぞれヘブライ語のアルファベット順にならんでいる、という構成になっています。詩編9編の始めはアレフで、終わりはキー。10編はそれに続いて、ラメドから始まって、最後はタブで終わっています。

 では、詩編9編はどういう内容であるか。そのテーマは、感謝であり、讃美です。王のように描かれた神を讃美する詩編です。14節以降の後半では「神に逆らう者」が出てきます。これが、10編に引き続いて用いられるテーマです。つまり、神を信じない者によって迫害される人が描き出されています。

 10編は「なぜ?」という単語で始まります。1節の逐語訳をすれば、「なぜ、主よ、あなたは立つのか、遠くに?」となります。「なぜ、主よ?」という問いかけは、私たちにも身近なものでしょう。しかもそういう問いを投げかけるときは、往々にして私たちの苦難の時です。そのような時に、神が私のそばにいない。隠れている。まさに私が傲慢な者に陥れようとされているのに。ここでの悩みは二つあります。つまり、敵がいること。そして、神が見えないこと、です。神が見えていれば、敵の存在も気にならないでしょう。しかし、その支えが感じられない、というのです。これは信仰者にとっては根本的な問題です。

 3節から9節までは、「神に逆らう者」についての具体的な姿がつぶさに描かれています。彼にとっては自分の欲望が全てです。それは神と関わりなく求められるもの。なぜなら、「神は私を探し求めない」からです。彼らはこの世に在って自由です。彼らにとって、神の裁きは「あまりにも高い」。別の訳では、「彼らの遥か頭上にある」。神の裁きは遥かかなたの天にあるもので、彼らの視界には入ってきません。それは結局、彼らには関与しないのです。彼らは揺るがない。しかし信仰者は揺らいでいる。彼らは幸せである。しかし信仰者は不幸である。このような実際的経験によって、彼らは「神を見ない者」となっているのです。そして、このような行動が大手を振ってまかり通っていることによって、これはそのまま信仰者に対する試みとなっています。身近な、日常的なことにおいても、そんなことはありえない、と心で思っていても、「見てみろ、現実にこうじゃないか」といわれたら、私たちは揺らいでしまうのが現実です。現代の私たちは「経験主義」に染まってしまっています。何かを主張すれば、すぐに「証拠を見せろ」。モノを見なければ、物質を見なければ、私たちはそれを疑うようになっているのです。逆に、モノがあれば、おかしいと思ってしまうことでも信じてしまう、ということもあります。詐欺のようなこと、はたからみれば「そんなのなんで信じるのん」と思うようなことでも、やはりモノの故に信じているということが非常にしばしばあるのです。

 8節から11節では、神に逆らう者が比喩で描かれています。それは強盗であり、獅子であり、猟師です。これらに共通するものは何か? それは、相手がある、ということです。神に逆らう者は、自らが自己の欲望によって動くだけでなく、その欲によって他の人にも害を及ぼす、というのです。そして、実際に捕まる人がいる。「不運な人」が、彼らの餌食になっているのです。その結果が、11節の嘆きです。「神は私を忘れた」。これは神に逆らうものが発する「神は私を探さない」と同じことを意味します。こうして、神に逆らう者は新たに仲間を加えていくのです。

 しかし、信仰者はふたたび神を仰ぎ見ます。「立ち上がってください、主よ」。これは「クマー・ヤハウェ」です。1節の「なぜ、主よ?」は「ラマー・ヤハウェ」でした。ちょうど語呂合せのように、「なぜ」に対する答えが示されます。「立ち上がってください」。神が見えないときにあってなお、神を求める心。神が王として信仰者に経験されているが故に、こちらから見えることがない時も、神は常に見守っていることを感じることができます。しかも、彼は自分の力によって神に逆らう者に立ち向かうのではありません。御手を求めます。「み手を上げる」とは、神の力、また裁きの宣言を意味します。神は、悩みをゆだねる人を顧みる、孤児を助ける。このような確信はどこからくるのか? それは経験からではなく、信仰の力によるのです。それは、神が耳を傾けてくれるという確信です。そこから私たちは、神への信頼に立つことができるのです。この詩編は、動くことのない信頼によって結ばれています。神は聞き、そして行動する。「なぜ」から始まった詩は、神への信頼によって閉じられるのです。

 私の信仰がよってたつところは、私の経験によるのではない。また私の行動によるのでもない。まず、神が耳をかたむけること、そこにあるのです。人間の心は揺らぎ、時に信じられなくなるかもしれない。そのようなときにも、神は私たちの声を聴いている。聞こうとしている。それを思うとき、私たちは力付けられ、新しい一歩を踏み出すことができるのです。


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