2000/07/30 礼拝説教「『創造者責任』制度」 ホセア書11:1-9 



 預言書ということで、私がなんとなく持つイメージがあります。それは、人々の堕落を非難し、神の厳しい裁きを伝える、というものです。預言者を通して語られる、神の厳しい審判の言葉の集成、というイメージです。しかし、今日私たちが共に聞いた御言葉について、「旧約聖書が神の愛について語ったもっとも偉大でもっとも美しい」言葉である、とある注解者は書いています。



 最初の部分、1節から4節までは、神のなしたことと民のなしたことが対置されています。「まだ幼かった」子供のイスラエルを、神がすでに愛していた、そしてエジプトから呼び寄せて「我が子」とした、というのですが、彼らは神から「去って行き」ました。バアルという、カナン地方にもともとあった神を拝み、犠牲を捧げている、と非難しています。エジプトのくびきからの逃れさせたのはヤーウェであるのに、カナンの神バアルを信じている、というのです。

 また、「歩くことを教えた」のも神でした。教育者として、幼かった民を育てあげた、というのです。がしかし民は、神が癒し主であると悟らなかった。

 いずれも、自らの本当の導き手を知ることなく、あるいは他の神の力だと誤解し、あるいは人間自身の力だとうぬぼれ、真の神の存在を見失っているというのです。

 4節ではさらに神の愛なる行為が語られます。人間を導くのは「綱」である。しかしそれは動物のときのそれではなく、「人間の綱」、すなわち「愛のきずな」によるのです。嫌がる者を無理矢理に引っ張っていくのではない。人と人とのつながり、コミュニケーションを用いているのです。このような形で「神のみえざる手」を経験することは、私たちにもまれではありません。この4節では、先の1ー2節、3節のように、神の行為に対する人間の行為は述べられていません。人間の背きにもかかわらず、神のなしたことがいかに大きかったか、を暗示させます。



 真ん中の部分、5節から7節までは、私が持っている預言書のイメージに近いものです。一転して、厳しい言葉の連続です。この部分は、当時の時代状況を反映しているといわれます。エジプトとアッシリアという二大強国に挟まれた状態のパレスチナでは、どのように政治的な駆け引きをするかに、国の存亡がかかっていました。「エジプトの地に帰ることもできず」とは、あの奴隷であった状態ですら戻ることができないということ。あるいは、エジプトとの同盟によってアッシリアに対抗しようとしたが、そんなことはできないで、結局は奴隷状態に陥る。それどころか事態はもっと悪くなり、「アッシリアが彼らの王となる」のです。イスラエルの王は打ち負かされ、アッシリアの支配下に陥る、と。それは、彼らが神に立ち返ることを拒否し、人間的な政治駆け引きによって生き延びようとしたからです。

 そのような人間的な行いの結果が、6節です。剣によって町は支配される。「たわごと」すなわちおべんちゃらを言うような者たちは滅ぼされ、また「たくらみ」すなわち人間的な戦略は打ち負かされます。

 7節の「たとえ彼らが天に向かって叫んでも」の部分では、もともとのヘブライ語テキストが壊れているために、いくつかの意訳がなされています。「天」の部分は「バアル」、つまりヤハウェではない神のことと考えられています。バアルに頼んだところで、助けられるわけはない、と断言します。



 8節から9節は、突然風景が変わります。厳しい裁きの言葉から、一転して哀れみの言葉が続きます。これまでの離反や罪にもかかわらず、それでもなお神はイスラエルを見放さない、いや、見放すことができない、というのです。アドマやツエボイムはソドム・ゴモラとともに滅びた町であると伝えられています。そのようには、イスラエルを滅ぼさない、と。しかも、神が「激しく心を動かし、憐れみに胸を焼かれる」と。人間的ともいえる神の姿がここにあります。しかし、人間ならば残酷にもなれましょう。神はそうではありません。「私は神であり、人間ではない」と宣言されます。「聖なる者」であるからこそ、人間を超えた憐れみを示せるのです。



 ところで、最近は、食品の注意書や、電気製品などの使用法についての注意などが非常に多くなったと思いませんか。「そこまで書かなくても」と思わず口に出してしまいそうな、わかりきったようなことまで事細かに書かれています。これは、近年になって施行された「PL法」という法律のためです。これは「製造物責任法」のことで、要は製品に関して何か事故があったら、作った人に責任がありますよ、ということです。なので、製造者はできるだけ自分の責任を回避するために、まず注意書を細かくすることで「注意義務は果たしている」としようとしているのです。しかし、使うほうも人間であり、人間とはずぼらなものです。楽をしようとします。ゆえに、そのような注意書などは読もうとしません。それで、同じような事故が繰り返されます。

 預言書というのも、この注意書に似ているかもしれません。神は預言者を通して口をすっぱくして注意を促した。しかし、民は全然言うことなど気にかけない。そのゆえに、裁きのときが迫っている。このような民ですから、もう神が責任を負う必要もないのかもしれません。もし神と人間とに関してPL法の裁判があったら、神のほうが勝利することでしょう。それだけ、神は自分の義務を果たしている。

 人間同士の裁判なら、そうかもしれません。しかし、人間を創ったのは、神であった。そして、エジプトから導き出して自分の民としたのも神であった。自分の民として育て、慈しんできたからこそ、今や手放すことのできない民であるのです。それは、「つくった責任があるから」といった義務的な理由にとどまらない。むしろ、それを超えている。創造者は、創造者としての責任からではなく、被造物に対する愛のゆえに民を憐れんでいるのです。これが、人間のPL法との大きな違いでしょう。

 このような、人間的な思いをはるかに超えた神の愛の中に生かされていることを覚えつつ、新しい一週間を歩み始めましょう。


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