2000/9/17 礼拝説教「主を信じるものには災いが」 詩編34:1-23 前川 裕教師

 引用というのは難しいものです。もともとの文章からの切り取り方によって、本来とは全く違った意味に用いることもできるからです。本日の説教題の言葉、「主を信じるものには災いが」というのも、ちゃんと聖書にある言葉であることは、先程みなさんで一緒に確認したところです。しかし、このように切り取られてみると、聖書の言葉ではないような気がしてくるから不思議なものです。
 この不思議さはどこから来るのか? それは、「信じるものに災い」が来るわけがない、という観念が私たちのうちにあるからでしょう。「御利益信仰」というのはよく宗教への非難の言葉として用いられますが、そういう私たちも「不利益がない」とは決して思っていないのではないでしょうか。

 今日読んだ詩編34編は、アルファベットによる詩です。以前に詩編10編についてお話したときにも触れましたが、各節の最初の言葉がアー、べー、…とアルファベット順になっているという技巧的な詩です。日本でいえばイロハの順でしょうか。この前後の詩編と同じく、これもダビデが作者とされています。しかし内容から考えて、前半はダビデに由来する可能性もありますが、後半は別の詩を組み合わせたもののようです。さらに、原文では多くの節が3語+3語という組合せになっています。ちょうど俳句のように、といっても音節の数はまちまちですが、3つの部分でできているというわけです。
 「ダビデがアビメレクの前で」というのは、サム上21:11-16 に基づいています。ペリシテの王アキシュの前に連れ出されたダビデが、身の危険を避けるために気が狂った振りをし、それで助かった、という記事です。お気付きのように、王の名前が違います。詩編ではアビメレク、サムエル記ではアキシュです。もしかしたら、エジプトの王がパロ、日本でいえば総理とか首相とかでしょうか、という総称をもっていたように、ペリシテの王は一般的にアビメレクと呼ばれていたのかもしれません。ちなみにアビメレクとは「王の父」という意味です。ともあれ、危機一髪のところを助かったダビデの歌、という設定になっているわけです。
 2節、「どのようなときも」、すなわち「あらゆる時間において」わたしは主を称えます。3節の「貧しい人」とは、ここでは「圧迫されている人」です。3節では、この人たちにまず「聞いて、喜べ」といいます。受動的参加というか、まず讃美を受け入れることから始まり、4節、「共に主を称えよ」「一つになってあがめよう」と能動的参加への招きがあります。いきなり称え、崇めることは困難な時もあります。それでも、まず聞こう、そうすれば称えることへと押し出されるのだ、ということです。
 5節から、神の救いの手が語られます。私は主に求めた、すると神は答えてくださった。原語では「奇跡を行った」という意味にとれます。単に「答える」というよりも、行為を行うことがよりはっきりと示されます。6節「光と輝き」「伏せることはない」は、原語では命令形ととれます。「輝け」「伏せるな」です。力強い勧めの言葉ですね。7節にも「貧しい人」が出てきますが、こちらはむしろ経済的な意味です。いずれにせよ、苦しんでいる人のことであり、その人の声を神は聞き、「救ってくださった」。直訳では「見ている」です。あらゆる苦難の中においても常に神は私を「見ている」。具体的な神の行為のイメージがより豊かにわいてきませんか。8節の「主の使い」は「主」と同じこと、婉曲表現です。
 9節は「味わえ」と語られます。他に「理解せよ」とも訳せますが、「味わう」という言葉が引き出すイメージは大変感覚的、直感的です。9節前半の直訳は、「味わえ、見よ、なぜなら主は良いから。」となります。「よい」は「トブ」という言葉で、英語のgoodに当たりますが、現代でも広く日常的に用いられる言葉です。「味わう」という言葉との組合せから考えると、「主はおいしい」「主は甘い」と訳せるかもしれません。だからこそ、主のもとにあることは幸いなのです。主を恐れる人には何も欠けることがありません。11節の「若獅子」はギリシア訳旧約聖書では「富みある者」となっているようですが、いずれにせよ、力も富もある者が飢える、しかし主に求める人にはよいもの、つまり「トブ」が欠けることがない、というのです。こここそ、「おいしい」という意味が適するかもしれません。

 12節からは少し調子が変わります。一般に知恵文学の影響を受けている、といわれますが、教訓的な言葉が続きます。
 ところで、この詩編を通じて多く用いられている言葉のひとつに、「すべて」という語があります。原語で数えて8回でてきます。たとえば2節の「どのようなときも」であり、7節の「常に救い出して」であり、20節の「すべてから救い出し」です。他に新共同訳では訳されていない部分もあります。中途半端ではない、「すべて」こそが神にふさわしい言葉です。
 16節と17節は対照的な内容です。「目を注ぐ」とは、「目が…人の上にある」ということですう。しかし悪を行う者にたいしては、顔を向けられます。「神を見る」ことは、死を意味していました。しかも単なる死ではなく、「その名の記念を断つ」、つまり抹殺です。18節は、7節によく似ています。
 20節が今日の説教題ですが、この訳文では「〜が」と少し弱められた感じがします。直訳では「主に従う人には多くの悪がある」となります。「災い」は悪一般を意味する言葉です。つまり、神を信じる人には悪いことがある、と断言されています。しかし、これは私たちの人生からすれば、むしろ当たり前のことではないでしょうか。信じたら悪いことはもう寄ってこない、ということは決してありません。かえって悪いことがたくさん見えてきた、ということすらあるでしょう。ここでは、人間の生における真理が示されているのです。この点で、初めて宗教の答えるべき問いが投げかけられています。悪は存在する、では、神はどのような答えをわれわれに示すのか?
 問題は続く部分です。「そして、主はその全てから救い出す」。これもまた、断言です。「悪はある、しかし神は全てから救い出す」。このような力あるメッセージです。かつそれは、「骨の一本も失われない」。「ひとつも」は、「数多い悪」との対照です。いかに悪が多くとも、信ずる人が損なわれることはないのです。その逆が、22節。同じ災いであっても、主に逆らう人は命を失ってしまいます。
 主に従う者にも、災いは、悪は降りかかる。しかし、神はその全てを知り、全てから救い出す、という宣言があります。この主を求めて、絶えることなく賛美を歌いつづけましょう。