2000/10/29 礼拝説教「創造のはじめに」 箴言8:22-31


 まず始めに確認しておきたいことは、ここでの「わたし」とは誰か、ということです。先ほど共に読んだところから少しさかのぼって、8章の初めを見てみましょう。1節には「知恵が呼びかけ、英知が声をあげているではないか」とあります。さらに、4節ではカギカッコがつけられている。これはヘブライ語の原文にはありません。聖書のヘブライ語にはカッコなどは使われていないのですが、内容に合わせて翻訳ではわかりやすくカッコをつけています。ともあれ、ここから「わたし」という口調になることから、ある語り手が現れていることがわかります。この「わたし」すなわち「知恵」が、今日の聖書箇所につながる「わたし」であります。「知恵」という抽象的なものが、まるで人間のように語る。こういうありかたは、古代オリエント世界にはよく見られるものでした。

 では、今日の22節に至るまでにはどのようなことが語られているのでしょうか?1〜3節は導入です。知恵はどこにいるのか? それは賢人の頭の中に深く隠されているものなのか? そうではない。 高いところ、道のそば、四つ角。あるいは城門のそば、町の入り口、城門の通路。誰にでも目につくところにいる、というのです。ただ、それが見えていない、ということになります。さらに前の7章では、知恵と同じようなところに立つ遊女と、それに誘われる男の姿が描かれているのですが、同じところに在っても、遊女は見え、知恵は見えない。そのようなあり方への警告であります。

 4〜11節は、知恵からの呼びかけです。知恵を、すなわち熟慮を、公平を、まことを、知識を、諭しを受け入れよ、と呼びかけます。10〜11節では、銀・金・真珠よりも素晴らしいのが知恵である、という明白な比較が述べられます。

 12〜21節では、知恵を受け入れることによる実りが並べられていきます。熟慮・知識・慎重さといった直接的なものから、成功、富・名誉、財産といったものまで述べられていきます。これらの総括が21節の「嗣業を得る」であり、「倉を満たす」といった表現といえます。

 このような知恵の素晴らしさを述べた後で、ではそのような素晴らしさはどこからくるのか。22節からは、その根拠、理由を述べている部分です。22節から29節までの内容は、22節に集約されています。すなわち、知恵は始めにあった、ということです。「造られた」という言葉は、ここでは鳥が巣の中で養われている、といった安心感、親近感を含むものです。神と知恵とは、親しい関係にあったことが高らかに歌われています。しかもそれは、聖書に記された最初の神の業よりも前である、というのです。その御業が次に具体的に述べられていきます。大地に先立って、海も存在しないとき。この表現から思い出されるのが、聖書の一番始め、創世期の最初の記述です。いわく「始めに神は天と地を創造された」。この天と地とより前に、知恵は神とともにあった、というのです。これは大変なことで、ある意味、創世期を超えた記述であるといえるかもしれません。

 山も丘もなかった。大地もなかった。26節には「地上の最初の塵も」とありますが、これは創世期2章の人間の創造の物語を思い出させます。塵から人間が作られたわけですが、その塵が存在する以前から、知恵はあった、ということです。人間の前に知恵があったということで、人間のあとに知恵が生み出されたのではない、まして人間が知恵を生みだしたのではない。そのような、人間に対する知恵の優越性が示されます。それゆえに、人間は知恵に従うべきであるのです。

 しかし、知恵はそれ独自で存在したわけではありません。25節には「生み出された」と述べられます。これは知恵もまた、神によって生み出されたものであることを示します。神によって生み出され、神とともにあり、人間に先んじた存在としての知恵。では、神にとっての知恵はどのようなものなのでしょう? それが30〜31節に述べられます。「巧みな者」とは、建築者という訳語もあてはめられます。何かを作り上げる者、作り上げることのできる者。それが知恵です。さらに、「主を楽しませる者」となります。どうやってか? 「楽を奏して」です。旧約では神に捧げるものとして音楽がよく取り上げられますが、ここでもやはりあてはまります。知恵はみずから音楽によって神を喜ばせる。それだけではなく、31節「地上の人々とともに」楽を奏する。知恵によって、人々は神を賛美することが可能になります。それによって、主を楽しませるのみならず、知恵自身も楽しむことができるのです。

 このような知恵の姿は、のちの新約にも影響を与えました。今日の聖書の箇所を読んで、ヨハネ福音書の冒頭を連想された方も多いことでしょう。主イエスの姿を旧約の知恵の姿と重ね合わせると、驚くほど類似が見られます。旧約において既にイエスが預言されていたということもできますし、イエスの姿を旧約の知恵に重ね合わせたということもできます。いずれにせよ、私たちは旧約と新約両方を通して、神の知恵のあり方を示されています。

 この知恵を示された私たちはどうすべきなのか? 今日の聖書に続く部分が語ります。「聞き従え」。私たちには従うことが示されています。従うこと、しかしこれがもっとも難しいものであるのは私たちがよく知っているところです。知恵が主によって生み出され、主のもとにあることから、やはり私たちは主に頼みます。「知恵を与えてください」。主のみが知恵を完全なものとすることができます。主の助けを祈りつつ、知恵の実を目指して日々を歩んでいきましょう。


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