2000/12/31 礼拝説教「知らせ」 イザヤ60:1-7
もうずいぶん前になるでしょうか、テレビの番組で、3人の子供役がいて、ある一つの事柄についてそれぞれ違いの出るように振る舞う、というものがありました。その3人とは「よい子」「悪い子」「普通の子」でした。「普通である」という言葉。この言葉は、どういいかえることができるでしょうか。ある辞典によれば、「ひろく一般に通ずること」「どこにでも見受けるようなものであること。なみ。一般」とあります。別の辞典によると、「世間にざらにあり、なんら変わった所が見られない様子」「同類の多くがそうであるのと同じ程度」とありました。思えば、今年ほど「普通の子」という言葉が聞かれた年はなかったのではないでしょうか。少年犯罪が大きく、また幾度も報道されましたが、そのなかで何度もでてきたのが「彼は、彼女は普通の子なのに」という文句でした。
そのような文脈での「普通の子」とは、どのように定義できるのでしょうか。さきほど見た辞書の定義にあてはまるのでしょうか。「普通の」という言葉は、実は非常にあいまいに使われていることを実感します。「良い」「悪い」は比較的分かりやすい。成績であるとか日常態度とか、ある程度の共通の基準が人々の間にあるといえます。でも「普通の子」というものについてはどうか。それはまるで、十把ひとからげのように響きます。「普通の」という枠で囲ってしまうことは、その人を集団の中に埋没させ、見えなくすることなのです。「個性の尊重」が強く叫ばれる時代にあって、このことが意識されることは稀だと感じます。
宗教・信仰の領域においても同じことがいえるでしょう。「私はごく普通ですし、神仏は必要としません」というような言い方は一般的ですが、それは逆に、宗教の側が集団に安住し、個人に訴えるメッセージを語ってこなかったことが原因かもしれません。
今日共に聞いた御言葉を理解するうえでは、前の59章が欠かせません。59章にはなにが書かれているでしょうか。新共同訳では「救いを妨げるもの」という小見出しが付けられています。最初に、主が救えないのではない。お前たちの悪が救いを妨げているのだ、とはっきり告げられます。3節から8節まで、その悪が具体的に羅列されています。そのうえでのいまの人々の状態が、9節から15節に示されています。まったく、絶望的な状況です。
しかし、それで終わりではありませんでした。16節から20節には、このような人間の状況に驚いた主が、その力でもって救いをもらたすと述べられます。その頂点が、21節に示された契約です。「私の霊、私の言葉」は神自身が置いたものであり、とこしえに離れることはない、という約束です。
この契約がなされた状態を歌い上げるのが60章です。「起きよ、光を放て」という二つの命令によって始まります。「起きよ」とは「立ち上がれ」「踏みとどまれ」とも訳せます。59章に述べられたような悪にまみれた中から「立ち上がれ」と呼びかけます。そして「光を放て」。しかし、その光は私たちのうちから出るものではありません。もし私たちのうちからであるならば、心の変化によっていとも簡単に光は失われてしまうことでしょう。そうではない、「あなたを照らす光」があるのです。それは「主の栄光」です。ちょうど空の月が太陽の光を受けて輝くように、私たちは主の栄光を受けて、光ることが出来るのです。
闇、暗黒は地上を覆っています。今、人々はそんな地上にいます。しかし主の栄光という光は、上から注がれます。天から注がれます。地上から発する光ではない、地上の闇と同類ではない。全く別の世界から来るものです。それでこそ、闇の中で輝くことができるのです。
神のもとにある人々は、しかし直接の尊敬を受けるわけではありません。国々、王たちは光へと向かいます。人間的な誉れはあくまで経由点に過ぎません。光を受けている人間が偉いわけではない。神にこそ、栄光。神に至ることこそ、目的です。
その時には、人々がみな集うといいます。息子たち娘たちとは、代々のあらゆる子孫たちのこと。また世界中から宝、富みが集められる。らくだ、黄金、乳香、羊。あらゆる最高のものが捧げられることになるのです。
ここで呼びかけられている「あなた」とは誰か。それは59章20節で「シオン」と述べられています。シオンとは、直接的には神の町エルサレムです。また神の国における理想的な町の象徴ともいえます。このような、具体的な「町」のイメージが基本です。今までたどってきた聖書は、ある町、ある民族といった単位での話でした。でも、これは個人という単位でも読めるのではないでしょうか。歴史上のエルサレムに対してのみならず、今生きているこの私にも呼びかけている言葉であると。59章の悪の悲惨は、まさに私たちの状態ではないでしょうか。そう思って読むとき、その記述のリアルなことに驚かされます。
そして、悪の状態が事実であればこそ、続けて述べられる救いの出来事もまた事実なのです。私が悪を認めれば認めるほど、救いの素晴らしさがより輝いてくる。たしかに、地上は闇に包まれている。しかし天上には、太陽のように光が常にある。光は、私の努力によって発するもの、発しなければならないものでは決してない。私はただ「立ち上が」ればよい。光をただ「受け取」ればよいです。この知らせを信じ、受け入れたときに、開かれた目、「神の目」をもつことができるのです。
これは、ある町ある民族にただ広く告げられているだけではない。まさにこの「私」にたいして、「私」という特別な存在に対して、語りかけているのです。
「起きよ、光を放て。」 新しい年に向けて、もう一度立ち上がり、神の栄光をしっかり受けていきましょう。
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