2001/2/25 礼拝説教「神は待っている」 イザヤ書30:18-21 前川 裕教師

 「待つ」というタイトルで、愛児園の林先生が教会五十周年誌に原稿を寄せて下さいました。愛児園の子ども達には、年齢に応じた遊びの内容が取り入れられています。たとえば、ゆび編みは人気があるのだそうですが、年少組の子ども達にはちょっと難しい。それで「年中・年長組になったらできるで」と言って宥める。その子ども達が年中になると、さっそくやってきて「私もうひかりさんやから○○出来るな!」と嬉しそうに言います。あるいは、年長組の卒園が近くなると、ある絵本を読んであげている。ご存じのように、愛児園は全クラスがいりみだれて遊ぶのが普通ですから、年長さんだけが部屋に入って何かしている、あれは何か特別なことなんだろう、と他の子ども達は考える。その子ども達が年長になると、「ぶどうさんになったから、○○読んでちょうだい!」という。楽しみにして待っていることで、喜びも大きくなる、ということでした。

 現代というせわしない時代は、「待つ」ということをまるで罪悪のように考えているようです。早いことが評価され、手順の手際よさが求められ、無駄な時間が排除される。より効率よく時間を使うことは望ましいことではありますが、ともすれば「何に」余った時間を使うか、ということよりも、「時間を節約すること」それ自体が目的となってしまっていることがあります。そのような立場では、「待つ」ということは「時間の無駄である」と考えます。そしてそれが高じてくると、「待つ」ことが恐れとなります。「待ち時間」というのは、なにをしていいか分からない時間、空白の時間であり、それは自分の存在を脅かす忌避すべき時間、恐ろしい時間となるのです。

 今日の聖書にある背景は、アッシリアによるパレスチナ侵攻です。当時この地域で最大の勢力を誇ったアッシリアは、やはり強国であったエジプトと対抗し、その中間的な位置にあったパレスチナは度々戦場となりました。「こんなに苦しいのに、我々の神はどこへ行ったのか?」 人々はやはり「待つ」ことに疲れていました。いつになったら救いが来るのか。いつまで待てばいいのか。こんななかで救いを待ち続けること愚かなことではないか…。

 しかしイザヤは、そのような苦難の中でも、それでも主が必ず助けて下さる、という固い信仰を語っています。19節、「主はあなたの呼ぶ声に応えて必ず恵みを与えられる」のです。

 18節で、「主は…あなた達を待ち」とあります。また同じ節の最後には、「主を待ち望む人は、幸いである」とあります。原文では、この「待つ」「待ち望む」は同じ単語です。それは「待つ」「待ち望む」「期待して待つ」といった意味を持ちます。つまり、私たちが神を待ち望むのと同じく、神もまた私たちを待ち望んでいる、ということです。神は救いを与えるべき時を、ふさわしい時を待っているのです。主は確かに、20節、「災いのパンと苦しみの水」を私たちに与えた。苦難もまた神から与えられた賜物です。それは人間の目には苦難です。しかし神は全てを益としたもう方であるがゆえに、神にとって、また私たちにとって必要なことなのでしょう。私たちにはそれが分かりません。私たちは待たねばならないのです。

 「待つ」ための力はどこから来るのか? それは、「神もまた待っている」ことからです。たとえば一人でバスを待っているとしましょう。バスはなかなか来ない。時間がたつにつれてだんだん不安になってきます。本当にバスは来るのだろうか? いや時刻表通りでなくても、バスは運行している、ここに来るまでの途上のどこかでは必ず走っているのだからここにも必ず来るはずだ、と信じるからこそ待ち続けることが出来ます。逆にバスの運転手からすると、いつもあの停留所から乗ってくる乗客がいる、今日はずいぶん遅れてしまっているけれども、きっとあの停留所で待っているだろう、と。だからあそこまで確実にたどりつかなくては、と。バスもまた、待っているのです。お互いの信頼関係があって初めて待つことができるのでしょう。神もまた同じように待っています。それはバスとは違い、ある時刻になったら現われると決まっているものではない。しかし、確実に来るのです。

 20節後半には「あなたの目は常にあなたを導かれる方を見る」とあり、21節には「あなたの耳は背後から語られる言葉を聞く」とあります。どうも矛盾しているようです。前に見えて、後ろから声がする。これも、人間の心理を考えると案外正しいことに思えてきます。つまり、目の案内としては前にあったほうがよい。しかし声の案内としては、後ろからの方が安心できます。ところで、このような案内はいったいどこに向かってのものなのでしょうか? それは、神に向かってのものではないでしょうか。神が待っている、その場所へ向かうためのものです。神が待っているということがはっきりしているからこそ、そこへ向かうことができる。それを導くのはまた、神の姿であり、神の声であるのです。

 「私たちが神を待つ」よりも前に、「神が私たちを待っている」。このことに目を向ける時、私たちの歩みが変わるのです。