2001/4/1 礼拝説教「母の願い」マタイ18:20-28

 今日の聖書の箇所、新共同訳では「ヤコブとヨハネの母の願い」という小見出しがつけられています。ところが、先程お聞きになっておわかりのように、本文には「ヤコブ」「ヨハネ」という名前は出てきません。では、どうしてこの二人の名前があがっているのでしょうか。「ゼベダイの息子たち」ということからも推測できます。また、マルコ福音書に並行する記事があります。これを読んでみましょう(マルコ10:35-45)。マルコでは、お願いをしているのがヤコブとヨハネの二人である、とはっきり記されています。現在の聖書の研究では、「短いものがより古いものである」という原則を用いて、またマルコ福音書がマタイ福音書よりも前に書かれたものである、という定説から、マルコの記事の方をよりもとの形に近いものであると考えています。つまり、マタイはマルコの記事に母親に関する記述を付け加えた、と考えるわけです。この考えから、たとえば次のような説明が出てきます。「マタイは、弟子たちへの当りをやわらげようとして、弟子たちが直接このような願いをしたのではなく、母親が願っていたことにして、弟子たちはむしろ受動的な立場であったように描き出そうとしている。」

 しかし、マルコの方がオリジナルであるというのもあくまで仮説に過ぎないことであり、かつ福音書が書かれたのはイエスの時代からは後であることから、マルコがオリジナルということも絶対視して良いものではないかもしれません。もしかしたら、マタイに残されている伝承のほうが古い可能性もあります。つまり、母親が含まれているほうがオリジナルに近く、マルコがその記事を削った、という可能性です。こうすると弟子たちにより厳しい内容となりますが、マルコ福音書全体のもつ弟子たちへの態度から考えると不可能ではないと思われます。では、母親の言辞を含む物語としてはどのような意味があるのでしょうか。

 ここで考えてみたいのは、「ゼベダイの息子たち」という称号です。この称号は、彼らの父がゼベダイであることを示していますが、では、その父ゼベダイはどこにいるのでしょうか。ご存じの通り、福音書の始め、彼らの召命記事に出てきます。しかし、ここでは父親は息子たちによって捨て去られた存在として出てきます。以後、父親は聖書には登場しません。置き去られた存在とされています。古代の社会では父親の権力が絶対であったわけですから、その父親を捨てていくということは非常に大きな意味をもつものです。社会的な地位・保証を失うといっていいでしょう。

 ところが、20章という福音書でも佳境に入るところで初めて、彼らの母親が登場します。この母親はいままでどこにいたのでしょう。イエスと共に付き従っていたのでしょうか。イエスには大勢の人々が従っていましたし、その中には女性がいたことも福音書に記されていますから、そのことは十分考えられます。二人の息子たちは母親は連れてきたのでしょうか。あるいは、母親が自らの意志で従ってきていたのでしょうか。福音書にはそれは説明されていません。

 ともあれ、母親はイエスのエルサレム入場に先立って、イエスにお願いをすることになるのです。その願いとは、二人の息子がイエスの王座の左右に座ることでした。日本風に言えば右大臣と左大臣にしてくれ、ということです。王に次ぐ位を得られるようにしてほしい、というのです。これは、この世の権力、現世的利益にしか目が行かない態度として批判の対象とされます。しかし、これは母親としては当然のことではないでしょうか。社会的地位をもつ父親を捨て去った以上、息子たちによくしてやろうと手伝えるのは母親しかいません。さらには、息子たちが権力者となることで母親自らの地位の安定をも考えていたのかもしれません。これはたしかに世俗的な頼みですが、母親としての切実な願いであることもまた確かなのです。

 この母親に対し、イエスの答えは否定的でした。というよりも、イエス自身には左右の座に座る者を決める権限はない、と答えます。福音書には記されていませんが、きっとこの母親は残念がったことでしょう。しかし、のちに彼女は重大な事実を知ることになります。それは、イエスの十字架です。マタイ27:56には、イエスの十字架の下にゼベダイの息子たちの母がいたことが記されています。彼女は十字架を見あげていました。その十字架には、罪状書きがついています。「ユダヤ人の王」。そしてその左右には、強盗のかけられた十字架。この左右の十字架は、まさにこの母親が願った位置でした。王なるイエスの左右に座する者。それは、罪人であるとされていた強盗たちでした。「私が願った左右の座とは、このことだったのか。」ゼベダイの子たちの母親は、どのような思いであったでしょうか。「私の息子たちがこの十字架にかけられなくて良かった」という安堵でしょうか。それとも「私はなんと愚かなことを頼んでいたのだろうか」という反省でしょうか。福音書は何も語りません。

 ただ一つ分かることがあります。それは、十字架の下に、この母親はいて、二人の息子はいなかった、ということです。26:56にあるように、弟子たちはすでにイエスのもとから逃げ去っていました。ゼベダイの息子たちも同じでした。しかし、その母親は残っていました。この母親のもともとの願いは、この十字架によって断ち切られました。母の願いは断たれました。しかし、その向こうには新しい道が開けつつありました。願いを失うことによって、新たな道を見いだすことになるのです。

 主の受難を覚えるこの期間、この母親の願いと同じく、私たちの願いも失われることで新たな道が開けることを信じて歩みたいと思います。


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