2003/4/17 洗足木曜日祈祷会奨励「洗い合う」 ヨハネによる福音書13:1-20 前川 裕教師

 海外に出かけるときに、一番気になるのは「病気」のことです。日本国内にいる場合と違って保険が効きませんから、もし病院に通うことになれば多額の出費となりますし、事情が違う土地では治療にも不安があります。特に歯は、意外なときに痛くなったりするので大変です。私はフィンランドに1年ほど留学していましたが、もちろん出かける前に日本で歯医者に行っておきました。

 しかし住み始めて二ヶ月くらい経った頃に、突然歯の詰め物が欠けてしまいました。幸いにして痛みこそありませんでしたが、まだ半年はいるわけですし、困ったなあ、という次第です。大学関連の病院に行くことになりました。幸い、学生ということで組合があり、それで治療費はずいぶん安く済むことがわかって安心しました。

 予約した時間に訪問すると、まず最初に医師から握手を求められます。「よく来たな」とは言いませんが、まず挨拶から始めるところがやはり文化の違いです。日本ならば、まず治療椅子に座らされ、治療の準備ができたところで医師が登場。挨拶もままならない状態から治療が始まる、といった具合でしょうか。これは、私にとってのカルチャーショックと言えました。

 欧米では、挨拶を重視します。それも、文字通り「触れ合う」ことによります。握手が一番よく見られますが、より親しい間柄の場合は首筋に接吻する、というのも日常的によく見られる風景です。日本では、お辞儀を中心としてお互いに距離を保ち合うのが通常でしょう。

 「足を洗う」木曜日のこの夜、イエスさまは自ら弟子たちの足を洗いました。それは、誰かに指示して洗わせたのではありません。イエスさまが自分の手で、弟子たちの足に触れたのです。これは、「触れる」文化の伝統に則ったやり方といえましょう。

 現代の我々は、「触れる」ことから遠ざかっていないでしょうか。土から、空気から、水から、そして人間から? 犬や猫といった動物は、触れることで相手の愛情を確認しようとします。犬は突進してきますし、猫は体を擦りつけます。私たち人間も動物でありますから、やはりこのようなありかたを受け継いでいるのです。ところが、現代はそのようなことをむしろ避ける方向に向かっています。世の中のぎすぎすした感じは、このことからも生まれてくるのかもしれません。

 もっとも、「触れる」ことは自分への危険も伴う行為です。触れるほど近ければ、相手は危害を加えてくるかもしれません。手が、足が攻撃してくるかもしれません。それゆえに、「触れる」ことは相手への信頼がなければできないのです。

 イエスさまは、弟子たちの足に触れました。そして、「このようにしなさい」と私たちに語りました。私たちもまた、私の隣人に触れなくてはなりません。それは危険なことかもしれません。しかしイエスさまが、まず率先して行ってくれました。私たちはそれに従うのみです。自分の満足のみを追い求めるのではなく、足を洗い合う関係へと招かれる。それが、この洗足木曜日の意義ではないでしょうか。