2003/4/27 礼拝説教「寄り添ってくる主」 ルカによる福音書24:13-35 前川 裕教師

 新しい教会堂になり、先週から新しい家具も入りました。これらのなかで、一つだけ私のイメージと違うものがあります。それは、説教者の立つ説教壇です。もちろん、見たとおりの非常に立派なものです。講壇としてみれば、これ以上のものを望むことが難しいくらいでしょう。大きな公会堂などにあっても、見劣りしないものだと思います。しかし、これが礼拝堂の講壇、イエスさまのメッセージを伝えるための壇だと考えたときに、私には違和感があるのです。

 イエスさまはどこでメッセージを語られたか? それは野であり、海岸であり、山でありました。時にはユダヤ教の会堂であるシナゴーグでも語られましたが、シナゴーグの内部は非常に簡素な作りになっています。このような豪華な講壇はありません。ましてや、野外においては講壇すらなかったのです。イエスさまはたとえば小舟の上から教えられました。

 教会はイエスさまのメッセージを伝える場である、と考えたとき、このような講壇、これは大きなものであるが故に、メッセージを聞く人との距離を感じさせるものなのですが、が必要なのだろうか、と自問してしまうのです。

 今日共に聞いたみことば、エマオの物語においても、イエスさまは道々、歩きながらメッセージを語られました。二人の弟子たちが、道すがら話し合っている。それは熱心なものであったことでしょう。「一切の出来事」、それはイエスさまの宣教、裁判、十字架、そして空の墓、それらすべてについて議論をしていたのです。弟子たちという、イエスさまにもっとも身近であった人たちは、それゆえに深く議論ができていたつもりなのでしょう。しかし、その弟子たちにイエスさまが近づいたとき、弟子たちはそれがイエスさま、まさに議論の渦中にある人物であると気づかなかったとは、なんたる皮肉でしょうか。「遮られていた」とは、たとえば神の意志により隠されていたとか、イエスさまがそれと分からないように変装していたということではありません。弟子たちが、その熱心さのゆえに議論に夢中になり、イエスさまに気づくことがなかったということでしょう。

 イエスさまの質問は、ずいぶん意地悪です。イエスさまは、この弟子たちと顔見知りであったに違いありません。それなのに、「その話はなんのことですか」と、とぼけたように尋ねているのです。これは弟子たちを試したと言えるのかもしれません。

 弟子たちの答えである19-24節は、福音書のエッセンスとも言える部分です。この部分には、イエスさまのメッセージ、裁判、十字架、そして空の墓といった福音書の要素が全て含まれています。この部分だけで、イエスさまのことを全て伝えていると言っても過言ではないでしょう。ところが、それを語っている当の弟子たちは、その意味を悟っていなかった、というのです。なんという逆説でしょう。彼らはイエスを語ることができたのです。しかし、彼らはその意味を分かっていなかったのです。

 イエスさまは、そんな彼らを叱責しつつも、励まし教えられました。この教えがどれほどの長さであったかは、福音書には示されていません。しかし、モーセから説き起こしていたとあるので、決して短時間ではなかったことでしょう。時間を掛けて、イエスさまのメッセージを語り直されたのです。

 弟子たちは目的の村に着いたとき、イエスさまを引き留めました。もし彼らが、これがイエスさまだと分かっていたら、当然のように強く引き留めたでしょう。ところが、彼らはこの見知らぬ人の話の魅力の故に、つよく引き留めたのでした。それはイエスさまの語ったメッセージに惹かれていたということなのでしょう。

 イエスさまは夕食の時、パンを取り、賛美の祈りを唱え、パンを裂いて渡されました。これはどんな行為ですか? これはまさに「最後の晩餐」です。弟子たちは、この時に初めて目が開けました。イエスさまに道中メッセージを語ってもらい、そして聖餐を受けたとき、初めてその意味を悟ったのです。その瞬間に、イエスさまの姿が見えなくなりました。意味を悟ったとき、イエスさまの肉体は必要ないのです。イエスさまへの信仰が生まれたのです。肉なるイエスさまは去りました。しかし霊なるイエスさまが、弟子たちの中で生き始めたのです。

 思えば、私たちの人生は、このエマオの弟子たちではないでしょうか。私たちは日々思い悩み、苦しみ、嘆いています。そして、「神はどこにいるのか」と議論し合います。まさに道中の弟子たちです。エマオの物語は、そんなときに私たちが気づかないうちにイエスさまが寄り添っていることを伝えています。「これはどういうことなのなのだろう」と思い悩んでいるまさにその時、イエスさまが共にその場にいるのです。しかし、私たちにはそれがイエスさまだとは分からないのです。

 私たちが神を求めるのはどんなときでしょうか。自分の都合の悪いときではないでしょうか。「困ったときの神頼み」となります。そういうときほど、神の姿は見えません。だから、私たちは「なぜ神はいてくれないのか」と恨むことになります。ところが、本当はそうではない。神はともにいるのです。しかし私たちがそれに気づいていない。御利益を求めて神を見いだそうとするとき、神はその姿を現しません。いや、私たちが自分で神を「隠している」のです。だから、私たちは自分で神の姿を見えなくしているのです。私たちにとって都合の良いときも悪いときも、神は寄り添っています。しかし私たちは自分の都合で、神を見えなくしているのです。

 エマオの物語は、私たちの信仰を強めてくれます。「イエスはいつも共に歩んでいる」のです。私たちは悩み苦しみの中に沈みそうになります。そんなとき、神が見えなくなります。ところが、神はともにいてくださっている。その確信があればこそ、私たちは苦難の中でも大胆に歩み続けることができるのです。

 イエスさまは私たちに寄り添っていてくださいます。でも、それで私たちは満足していてはいけません。では、私たちが寄り添うべき人たちは誰か? 私たちの身近にいる、苦しんでいる人たちです。イエスさまの模範にならって、私たちもまたそのような人に寄り添う人になりたい、と願います。私たちにはそれができます。なぜなら、イエスさまが「こうすればよい」と教えてくれたからです。私たちにとっての隣人とは誰か、寄り添うとはどういうことか。エマオの物語は、私たちの歩むべき道をいつも指し示しているのです。