2003/4/27 礼拝説教「つながっていなさい」 ヨハネによる福音書15:1-8 前川 裕教師

 近年になって、人と話をする時に感じることがあります。特に若い世代に多いようです。それは、人と話をするときに目を、顔を見ないということです。私の子供の頃は、「人と話すときには目を見なさい」と強く教えられたものです。それが今では、時にはそっぽを向いたようなままで話している、ということまで見られるようになりました。

 欧米でも、目を見ることは相手へのコンタクトであるとされます。目を見ないことは、「お前を仲間とは見なしていない」というメッセージに受け取られることもあり、危険にまきこまれることすらあるといいます。相手の存在を認めること、また自分の存在を強く認めさせることは、一つの文化的なメッセージであるということができるでしょう。

 今日共に聞いたみことばは、イエスさまとのつながりを説いています。イエスさまとつながっていることが豊かさであり、つながっていないことが貧しさである、ということは、聖書のあちこちで述べられていることです。

 ところで、このイエスさまとのつながりを持つためには、私たちは何をすればよいのでしょうか。4節に「わたしにつながっていなさい」とあります。これは、私たちに対する命令です。私たちが意志として、イエスさまとつながりを持とうとすることが求められています。ちょうど、私たちが手を伸ばすようなものです。

 しかし、その伸ばした手がイエスさまのところに届いているという保証はあるのでしょうか? 私たちがいくら手を伸ばしても、イエスさまからは遠く隔たっている、救いから遠く離れているのみで、手を伸ばすだけ無駄である…といったことはないのでしょうか?

 その答えは、おなじ4節にあります。「わたしもあなたがたにつながっている」 というのです。これはギリシャ語原文では、「私はあなた方のうちにある」とも訳せます。これは、現在形であり、現在の状態を表している言葉です。そう、イエスさまはすでに私たちをとらえているのです。イエスさまもまた、私たちに対して手を差し伸べているのです。

 危ないところで手をつなぐとき、お互いに手首を持ち合う、というやり方があります。私たちとイエスさまとの間も、それと同じです。私たちの方は、イエスさまの手首を握れないで、手を空中で動かしているように思うかもしれません。誰からも支えられていないように感じるかもしれません。しかしその時もやはり、イエスさまが私たちの手首をしっかりと掴んでくれているのです。

 「つながっていなさい」という命令は、決して突き放した指令ではない。イエスさまがすでに私たちをとらえ、掴んでいるのですから、私たちは自分の手でイエスさまを掴もうとすればよいのです。私たちが、その視点をちょっと変えてみれば、誰でも掴める、見えてくるものなのです。

 ところで、ここでのたとえは「ぶどう」です。どんな植物も、いくつもの枝を、実をつけます。幹がイエスさまであり、枝また果実が私たちであるといえます。とするならば、いくつもある枝や果実は、イエスさまに連なる仲間同士といえます。その仲間とは、いわゆる教会の中にとどまるものでしょうか? 先ほど、イエスさまがすでに手首をとらえているといいました。教会の内外には関係なく、イエスさまにとらえられている人がいます。それは、全ての人がそうなのです。しかし、多くの人々はそれに気づかず、一人で苦しみ悩んでいます。

 イエスさまの手に気づいた私たちにはまた、このようなイエスさまの手に気づいていない仲間がいます。その人たちに寄り添い、同じ仲間の枝、実としてイエスさまに向かうこと、私たちにはそれが求められています。私たちが隣人と共にイエスさまにつながることができるように、私たちの出来ることを祈り求めていきましょう。