2006/11/12 小栗栖伝道所礼拝説教「神の民の選び」 ローマの信徒への手紙 9:1-9 前川 裕教師

契約節第二主日は、「神の民の選び」について考える時となっています。イスラエルという名称は、「神に選ばれた民」として誇り高いものとなっていました。「選民思想」という言葉もありますが、「自分たちが神に選ばれた者である」という自己意識は、ユダヤ民族を支える大きなものであったことは間違いないでしょう。

今日共に聞いたローマ書9章において、パウロの語る「悲しみ」「痛み」の内容は明確ではありません。しかし続く部分から考えると、パウロの仲間たちが「イスラエルの民ではない」と非難されていたことであると想像されます。パウロの時代においては、まだ「キリスト教」という自己意識はそれほど強くありませんでした。イエスに従う人たちも自分たちが新しい宗教をはじめているとは思っておらず、あくまでユダヤ教の一部であると考えていました。ユダヤ教の主流派からは「ナザレ派」といった名称で呼ばれていたようです。

パウロは、パウロおよびその仲間が「イスラエルではない」という主張に対して反論を行います。6節までは、伝統的なユダヤ教思想といってよいでしょう。パウロも仲間たちも、またイエスすらも、父祖アブラハム・ヤコブ・イサクから連綿と続くユダヤの血統に連なることを確認します。当時まだ「キリスト教」が成立していなかった以上、これはむしろ当然の主張といえます。

しかしパウロは続く7節以降で、大きく踏み出していきます。それは、「肉によっては、その子は必ず神の子となるのではない」という考え方です。ユダヤ民族は、アブラハムから始まる「神の選び」を重んじていたことは前述した通りです。パウロの発言は、それを根底から覆します。そうではなく「契約によって」神の子となるのだ、とパウロは言いました。すなわち、信者の子孫であれば自動的に「神の子」とされるのではなく、その子孫がまた新たに神と契約を結ばねばならないのだ、ということです。

「親の信仰」や「先達の信仰」がいくら優れていたとしても、その子が自動的に神の民とされるのではありません。一人一人が常に新たに、神と契約を結ぶことで「神の民」とされているのです。わたしたちはそれによって、一人一人が神にとって重要な存在であることを知ります。神対人の契約が全ての人にたいして個別に存在するとすれば、どんな人であろうとも神の前では対等な存在となります。このゆえに、人間の間に差はつけられないのです。

また「優れた信仰をもつ教会」に属するからといって、その人の信仰が優れているわけではありません。一人一人個別に神と契約を結んだ教会員が集まっているのが教会でありますから、一つ一つの教会もまた神との契約によってたてられたものとと言ってよいでしょう。すなわち、大きな教会も小さな教会も、全ての教会が神の前に対等な存在となるのです。

神の選びは、人間の選びとは違います。人間の目からは全く不可思議な選びにしか見えないことがたくさんあります。しかしその契約のゆえに、一人一人が生かされていること。これを喜びとして受け入れましょう。また隣人もまた同じ契約の中におかれていることを思いつつ、この社会を生きていこうではありませんか。


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