1998/2/22 礼拝説教「好きこそ物の順調なれ」

(マルコ4:35-41)

 

 「大事な試験を目前に控えている。」こういう経験をしたことのある方は多いと思います。当然、しっかり準備をしなくてはならない。ところが。こういう時になると、机の周りが気になる。本棚が気になる。今までいっこうに気にならなかったところが妙に気になり、落ち着かなくなる。「まず片付けをして、それから勉強を始めよう。」で、気がついたら時間がなくなっている。こういう経験をしたことのある方もまた、多いと思います。かくいう私もこの呪縛から免れ得ず、部屋はきれいになったけども頭の中も奇麗なままで、残りの僅かな時間で慌てて準備をする、といったことがよくありました。いや、これからも間違いなくあることでしょう。

 たまにある試験のみならず、毎週行われているような勉強会の予習にしても、せめて2日前にやっておけば良いものを、なぜか直前までほっておき、しかもその残された1日を掃除に費やしてしまう。このような現象は、特に「試験」のようなちょっと面倒だな、と思うものに対するときに起こるようです。それが大事なものであることや、準備さえすればどうということはないものであるのは十分認識している。しかも、そんなに時間のかかるものではない。でも、あるいはそれゆえに、目の前のことから回避しようとしてしまう。一種の自己防衛本能といえば聞こえはいい。裏を返せば、「なまけものである」という一言に集約されてしまうでしょう。

 

 動物は、生存の本能として危険を避けるようになっています。飛んでくるボールをよける。自分に危害を加えそうなところには近寄らない。もちろん人間にもこのような本能があります。人間に独特のものといえる「知能」においても、やはりこの本能が働くようです。そこでは「危険を避ける」ということの意味が拡大され、たんなる「生命の危険」にとどまらず、「精神的な危険・苦難」をも避けようとするといえるでしょう。そうすると、これは「怠惰」という言葉で単純に片付けるべきものではないことになります。面倒なことを避けようというのは、人間の本質的な欲求と言うことができます。

 

 今日共に読んだ聖書の物語は、「向こう岸に渡ろう」というイエス様の言葉から始まります。では彼らは今どこにいるのか?ずっと聖書をさかのぼっていくと、「イエスは湖のほとりに出て行かれた」という言葉が何回かあり、そして2章の始めに「カファルナウム」という地名が出てきます。では「向こう岸」とはどこでしょう?つづく5章の始めに、「ゲラサ人の地方」とあります。ここで、新共同訳聖書をお持ちの方は巻末にある聖書地図をご覧いただきたいと思います。余り宣伝されていないのですが、口語訳聖書から比べると、新共同訳聖書では巻末の資料が大きく拡充されています。地図も増えたのですが、そのなかの6番「新約時代のパレスチナ」という地図をご覧ください。ガリラヤ湖の上に接したところに、今イエス様がいるカファルナウムがあります。ゲラサは、真ん中からちょっと右の方にあります。「向こう岸」というのに、ゲラサはずいぶん内陸にありますね。で、これはおかしいと思ったマタイは、もっと湖に近い「ガダラ」に書き換えています。しかしここでは「ゲラサ人の地方」といわれていますし、ゲラサをかこむ地域、「デカポリス地方」のことを言っているのでしょう。

 

 ガリラヤ湖は嵐の名所としても知られています。この時にも突風が吹いてきました。そしてイエスさまのひとことで、それは収まります。イエス様は言いました、「なぜ恐がるのか。まだ信じないのか」。風や湖をも従わせるイエス様の力をまだ弟子達が十分に信頼していなかった、と普通言われています。

 

 もう一つ、わたしはこんな風に読んでみたいと思います。

 

 地図をご覧になるとわかるように、パレスチナは二つの湖とヨルダン川で東西に仕切られています。そして大まかに言って、ヨルダン川より東の地域は「異邦人の地」でした。いまイエスが「向こう岸へ行こう」といったことは、「異邦人の土地へ行こう」ということと同じ意味であったのです。マルコ福音書において初めての異邦人伝道です。しかしユダヤ人にとって「異邦人の土地へ行く」ことは考えられないことでした。自分から汚れた者たちのいるところへ行くなんて! 弟子達も、「そんなところには行きたくありません」と言いたいところでしたが、やむなく船を出したのでしょう。

 

 ところが嵐が起きました。この嵐は、弟子達の心が引き起こしたものです。「いやだなあ」「行きたくないなあ」という心が、嵐という形をとって現れてきた。ちょうど試験の前に片付けをするように、いやなことを避けようという気持ちの現れです。弟子達は言います、「私たちが溺れてもかまわないのですか」。彼らは異邦人の地に言って、自分たちも汚れたものになることを怖れていたのです。今までのように、ユダヤの地で伝道していれば、そんな心配はない。なぜ苦労が予想されるところへ行かねばならないのか。

 

 しかし、イエスさまはこの嵐の中でも眠っていました。弟子達のような怖れはイエス様には全くなかったからです。イエス様は、異邦人の地に行くからといって特別の想いを抱いていたわけでもなかった。ただ、ユダヤの地でしたのと同じように、彼らに会いに行こうとしただけです。イエス様は嵐を静め、弟子達を叱りました。「なぜ異邦人だからといって、彼等を恐がるのか。同じ人間ではないか。そのことがなぜ信じられないのか」と。イエス様はひとを分け隔てしませんでした。そしてすべての人を愛していました。だからこそ、心の中の嵐とは無縁だったのです。

 

 私たちはいやなことを避けようとします。それは信仰においても同様です。「なぜこんな目にあわなくてはならないのか」とうめき、目をそらせようとします。ですが、信仰は実は素敵なことであると言うことも私たちは知っています。イエス様のように心の嵐なく過ごすこと、それはイエス様のように「愛すること」から始まるのだと聖書は教えているのです。