1998/3/22礼拝説教「輝きはとどまらない」 ルカ9:28〜36

 

 「光とは何か」。この問題は、古来数多くの科学者を悩ませてきました。それは静止したもので、隣同士につたわっていくものなのか。伝わるとしたらどんなものが媒介になっているのか。あるいは、光そのものがなんらかの性質を持った粒なのか。さまざまの研究が重ねられてきた結果、現在では光は光子という粒の波であることが物理学的に知られています。すなわち、光は運動しているものである、と。

 

 今日共に聞いた御言葉は、「山上の変容」とも呼ばれているところです。「変容する」という言葉は日本語で考えると単に「形が変わる」という印象を受けます。新共同訳の小見出しにあるように、この部分はマタイとマルコに並行箇所があります。その部分では、原語には「メタモルフォー」という言葉が使われています。「メタモルフォー」という言葉は、「メタ」と「モルフィス」という二つのギリシア語から出来ています。「モルフィス」は「形態」「形」という意味です。では、「メタ」はどういう意味か。「形而上学」という言葉は昔学生の間ではやった言葉でありますが、これはアリストテレスの「メタフィジカ」という著書から来た言葉です。本来これは前置詞であって「〜と共に」「〜の後に」といった意味を持っています。さらにそこから発展して、特に思想の分野では「〜を超えた」という意味を持つようになりました。と考えてくると、「メタモルフォー」というのは動詞ですが、「形を超える」、と訳すことが出来ます。

 

 今日読んだ聖書の物語において、イエス様は「形を超え」られたというのです。どのようにか? 29節、「イエスの顔の様子が変わり、服は真っ白に輝いた」とあります。「白く輝く」というのは天的、神的なものの象徴です。イエス様が復活した後の空っぽの墓にいたのも、白い服を着た御使いでした。ここでイエス様は神とかかわるものであることが確かめられます。これがペトロの信仰告白、そして受難予告に続く部分にあるのは印象的です。

 

 イエスさまはモーセ、エリヤと語っています。モーセはモーセ5書のモーセであり、旧約の律法の象徴です。エリヤはやはり旧約の預言者の象徴といえます。この二人と会話すると言うことは、旧約聖書と対話するということといえます。しかもその内容たるや、「イエスがエルサレムで遂げようとしておられる最後について」でした。旧約聖書が語るイエス様についての預言、しかもそれは受難についての預言であったというのです。直前の21節から27節においてイエス様は自分で受難予告をしますが、これが天的にも既に道付けられたことであることが示されています。

 

 それを聞いていたのは弟子たちでしたが、「ひどく眠かった」といわれます。あのゲッセマネにおいてイエス様が祈っているときにさえ眠っていた弟子たちでした。しかしここでは「じっとこらえて」います。すると、彼らにも輝くイエス様とモーセ・エリヤが見えました。「眠い」ということに象徴されるこの世的な苦しみに絶えることで神の栄光をみる、受けることが出来るというのはルカに見られるテーマの一つです。

 

 そのありさまを見て、ペトロは思わずして言いました。「仮小屋を建てましょう」と。仮小屋とは旧約に出てくる幕屋のことであり、仮庵のことでありましょう。ここでペトロは3人のために祭壇をつくろう、神のいます神殿をつくろう、と言っているわけですが、この言葉はぺテロがまだ旧来の思想から抜けきっていなかったことを示しています。イエス様は「神殿」というものに対して否定的でした。むしろどこであれ神は共に居られる、と考えていました。そのイエス様に対して神殿を捧げよう、というのですから。

 

 神殿をつくることは、神を建物の中に閉じこめてしまうことにつながります。神殿においてのみ神を礼拝できる、ということが極度に進むことによって、イエス様が批判したような祭司や律法学者や神殿の境内で物を売るものたちがでてきたのでした。

 

 ペトロの言葉に対して返事はありませんでした。代わりに、雲が現れました。これはモーセが十戒を与えられたときにも見られたあの雲です。人間のみることの出来ない神の、象徴です。そして声が聞こえる。「これは私の子、選ばれたもの。」この言葉から、イエス様のヨルダン川での洗礼を思い出します。あの時と同じく、神自らによってイエス様が神の子であることが確認されたのです。

 

 ぺテロの、仮小屋を建てよう、という提案は神によって認められませんでした。神はひとつの建物の中にいれられるものではない。建物は、神を信ずるものが集って賛美する場所ではあるけれども、そこにのみ神がいるということでは決してない。

 

 イエス様は形を超えた、と最初に申しました。目に見える形ではなく、見えないものになることによって、逆にそれは大きな物となったのです。一粒の麦は地に落ちて死ななければ実を結ばない、あの言葉の通り、イエス様は十字架の上で死んだことによって自らをより大きなものとしたのです。まさに「光」となられたのです。

 

 光を閉じこめることは意外に難しいものです。ほんの少しでも隙間があれば、そこから光は漏れていきます。光は静止しているものではなく、常に運動しているものだからです。イエス様の輝きも、教会という建物のなかに閉じこめることは出来ません。それは絶えず外に向かって出て行こうとしています。それがイエス様の、神の愛の本質であるからです。であるならば、私たちは気負って「伝道しなければ」と考える必要はない。光は秒速30万キロという物凄いスピードで伝わっていきますが、同じように神の光は、私たちよりもはるかに速く教会の外へ広がっています。例えば、聖書は既に多くの人の手に渡っているではありませんか。私たちはそれをお手伝いするのみです。

 

 「輝きはとどまらない」。私たちに先立つイエス様の光を、私たちもどこまでも追いかけていきましょう。