1998/05/03 礼拝説教「いま、ここに」 ヨハネ11:17-27

 

 

 

 私の結婚式にご臨席頂いた方は覚えていらっしゃるかも知れませんが、私は一種の泣き虫であります。嬉しくて泣くよりも、悲しくて泣くほうが多いような気がします。しかし「涙を流す」ということは、日本ではなぜか男のすることではない、と考えられているようです。それこそ「女々しい」という言葉が示すように、「男なら泣くな」ということが明に暗に常識として語られます。

 

 しかし、世界の文学を紐解いてみれば分かりますが、男が涙を流すということは決して珍しいことではありません。では聖書ではどうか。今日の部分に続くところで、マリアが結局ラザロは死んでしまった、とイエスに告げます。すると、「イエスは涙を流された」。イエス様が泣かれた、というのは福音書の他の部分には出てきません。この部分は聖書の中でももっとも短い節として知られています。ギリシア語ではわずかに3つの単語しかありません。「エダクリュセン・ホ・イエスース」、「イエスは泣いた」。聖書の中の章節は近代になって聖書の印刷業者によってつけられたものだそうですが、彼はなぜこの3語だけを1節としたのか。その印刷屋もまた、イエスが泣いた、というこのことに感銘を受けたのではないか、と想像します。

 

 「泣く」と言うことはどういうことか。「精神的な感動によって、涙がでること」辞書的にいえばこうなるでしょうか。私はさらにこう考えます。「もらい泣き」ということがあります。私はこれに弱くて、すぐ涙ぐんでしまうのですが、これは相手への共感によって生まれます。もらい泣きをするとき、自分と相手とは近くなったように感じる。ひとつの遠隔的な精神作用といえるかもしれません。ともかく、イエスの涙もこのような「共感の涙」であったと思うのです。ラザロを巡るさまざまな人間模様が聖書には描かれていますが、その中にあって、イエスさまも共感していた。神の子として一歩下がったところ、一歩高いところで人々を見ているのではなく、同じところにたち、同じ想いでいるイエス様。そんな姿ではなかったか。それは、イエス様が「その場にいる」「そのときそこにいる」ことと密接に関連しています。

 

 今日共に読んだ御言葉は、弟ラザロの死後のマルタとイエスとの対話です。イエスをせっかく呼びにやったのに、イエス様はなかなかこない。やっと来たと思ったら、もうすでに墓に葬ってから4日もたっている。マルタの友人たちが弔問に訪れに来ているその最中に、イエス様が到着した、という知らせを受けた。マリアは家の中に座っていた、なすすべがもうないから。マルタは内心恨んでいたのでしょう、まっさきにいうことには、「もしここにいてくださいましたら、私の兄弟は死ななかったでしょうに」。もう少し早く来てくれれば、この人によってラザロは助かったかもしれない。でも、もうどうしようもない、墓に納めて4日もたっているのだから。この時点で、マルタはすでにイエス様を「過去の時間」へ押しやってしまっていました。

 

ただ、マルタもさすがにそれだけではばつが悪いとおもったのか、付け加えるように言葉を継いでいます。「イエス様が神様にお願いになることは何でもかなう、と{今でも}信じていますよ」、と。でも、マルタは「なんでもかなう」と本当に信じていますか? 信じているなら、なぜ彼女は「ラザロを復活させてください」とお願いしないのか。たとえ結果的には叶えられないかもしれないけれども、お願いすらしていない。彼女が{今でも}信じている、ということにも疑問が投げ掛けられます。

 

 それはイエス様の「あなたの兄弟は復活する」という言葉に対して、マルタは「終わりの日には」という条件をつけたうえで、信じている、といっているからです。日本語では分かりにくいのですが、「復活する」というのは原語のギリシア語では未来形になっています。しかし同じ未来形でも、イエスの未来は非常に間近な未来です。「いますぐにも私が復活させよう」ということです。それに対して、マルタの未来は遠いかなたになっています。「終わりの日のとき」が来る、ということはマルタも信じているようですが、それはいつのことであるか。少なくとも、いま現在とは関係ないし、ラザロが今すぐ復活するわけでもない。マルタは今度は未来へとイエス様を押しやってしまっています。

 

 「なんでもかなうと信じています」といいながら、彼女は実はたくさんの条件をつけて、「だから私の願いはかなわないんだ」と独り合点しているのです。「ラザロを復活させてほしい」という願いは、マルタからではなく、イエスのほうから出されていることに注意する必要があります。イエスはそんなマルタに、駄目押しともいえるような形で語ります。そして、「この事を信じるか」と問いかけます。いままで過去や未来に逃げていたマルタですが、この時に初めて『現在』について語るのです。ただここで面白いのは、「私は信じております」は現在完了の形になっていることです。これは「以前にこれこれをして、いまもその状態がつづいている」ことを示しています。今の文脈で言いますと、「あなたがメシアであることを私は信じて、今も信じ続けています」ということになります。マルタは過去に向いて嘆き、未来に向かって嘆いていた。過去や未来のことは、自分とは無関係なことと考えやすいものです。マルタは言います。「かなえてくださることを『知っています』」「復活することを存じています」。どちらも原語では同じ言葉です。もともとは「見る」という言葉から来ています。つまり、見て知っている。マルタは、それは街で見た、それは神殿で見た、だから「知っている」、と答えているのでしょう。それが今までの状態であった。

 

 しかし、それだけでは足りないものがある。そして今、イエス様の言葉によってマルタ自身が生きている現在に呼び戻されたのです。なるほど、あなたは終わりの日のこと、復活のことについて「知っている」。では、あなた自身はどう考えるのか。「あなたはこれを信じるか。」イエスは問いかけます。いままで客観的であった「知識」に対する姿勢が問い質されるのです。そこでマルタは答えます。「私は信じております。」ここの「わたし」は、特に強調された表現です。「私自身が、わたしそのものがそのことを信じます」という告白です。

 

 イエスの復活は、過去を嘆くのでもない、未来だけを待ち望むーそれは失望につながりやすいものですーのでもない。イエスがいまこの場に生き、働いていることを意味しています。「日々信仰を新たにする」とは、私たちと共に歩むこのイエス様に想いを新たにすることに他ならないのです。「いま、ここに」たつイエス様を感じながら、その守りに感謝しながら、日々を歩みたいと願います。