1998/7/12 礼拝説教「キュリオスはキュリアス」 ルカ24:13-35

 

 私はなぜか人から「物知り」だとよく言われます。先日はある人たちと話をしているときにお茶の話題になり、緑茶と紅茶はどう違うか、という話になったので簡単に解説しました。またつづいて神道の話になり、日本の神道についても簡単にはなしをしたら、えらく皆さん感心していました。私はいろいろなことに興味を持つので、あちこちから情報を吸収している、それが蓄積されて、いわゆる物知り、といわれるようになるのでしょうか。「なんでもみてやろう」的なところはかなり持っています。まあ知らない事は知らないのでして、いわゆる芸能界の話などはさっぱりです。それは関心がないから、です。関心がない事には首を突っ込まないし、それについての知識も貯えられない。当然といえば当然かもしれません。

 

 今日共に読んだ聖書の物語は、よく御存じの「エマオの道」の話です。復活されたイエス様を巡るエピソードの一つです。イエス様が復活された丁度その日に、ある街道を二人の弟子が歩いていました。彼らはエルサレムからエマオまで歩いていく途中でありました。エマオという村はエルサレムから60スタディオン、現在の単位では約12キロのところにあります。

 

 彼らはなぜエマオへ向かっていたのか?「われわれはあのイエスという男についていったが、結局十字架にかけられてしまった。あの男は一体何者だったのか。」 21節では「あの人こそイスラエルを解放してくださる」とクレオパは話しています。ところが、彼らの期待は裏切られた。彼らの考えでは王となるべき人物が、十字架にかけられて死んでしまった。失意のうちに、彼らはもといた故郷へと帰る道を歩んでいたのでしょう。

 

 19節以降のクレオパの話によれば、彼らはイエス様の復活のことを他の弟子たちから聞いていました。でも、彼らはエルサレムを離れてエマオへと向かっていたのです。道々、お互いに議論をしていました。「復活したというが、一体どういうことなのか。」「復活なんてあるんだろうか。」彼らはエルサレムに留まって自分で確かめることをしていません。既に失意のうちにある人間は、何を聞いても否定的に考えてしまうものです。この二人の弟子もやはり、イエス様のことがよくわからないうちに、あきらめの気持ちとともに故郷へと帰っていくところでした。

 

 ところがそこに現れたのが復活したイエス様でした。「話し合い論じ会っていると、イエス御自身が近づいてきて、一緒に歩き始められた」。そして、「歩きながらやり取りしているその話は何の事ですか」と尋ねます。いま聖書を読む私たちからすれば、「あらら、イエス様、またおとぼけなさって」というところですが、失意のうちにあるこの弟子たちにはそれがわかりません。クレオパの「あなたは本当に知らないのか?」という問いにも、「どんなことか」と重ねて問うています。そこでクレオパは事の顛末を語り始めます。

 

 ここで思うのは、弟子たちと共に歩き、そして問いかけを始めたのはイエス様の方だ、という事です。弟子たちの方から、「どう思うか」と聞いたのではなく、イエス様の方から、しかも無邪気な感じのする質問が発せられている。失意のうちにある弟子たちに寄り添い、しかも会話のイニシアチブを取っているイエス様。「始めるのはまず神から」であるのです。悩みのある人の方へと、イエス様の方が歩み寄っていく。想えば、福音書に描かれている、イエス様と人々の出会いもそうでした。弟子たちの召命もしかり、あのザアカイもしかり。すべて声をかけたのはイエス様の方からでした。

 

 クレオパはイエス様に促されて、自分の知っているイエス様の姿を説明しました。それはあくまでクレオパの見た像です。それはイエス様の真意を十分に反映しているものではありません。しかし、まずクレオパが知っている事を明らかにする事。それが説明のために必要だった。何がわかっていて、何がわかっていないのか。それを明らかにする事から全てが始まります。イエス様もやはりこのやり方にのっとって、まずクレオパに語らせたのでした。そのうえで、イエス様は聖書について語り始めます。

 

 さて、一行はエマオの村に着きました。ところが、イエス様はさらに先へとゆかれるようです。弟子たちも、まだイエス様とはわかりませんが、その人物の不思議な魅力に心引かれたのか、「もしもし、今日は私たちと一緒にここで泊まりませんか」と声をかけます。そして、その食事の席で、彼らはイエス様がわかりました。

 この部分では、今度は弟子たちがイニシアチブを取っています。先にゆこうとするイエス様を引き止めようとして声をかけたのは弟子たちの方でした。そして、その結果としてイエス様がわかった。もし彼らがイエス様を呼び止めなければ、弟子たちはそれがイエス様とわからないままであったことでしょう。

 彼らはイエス様を見て、エルサレムに戻りました。エルサレムには弟子たちが集まっていた。そこに、最初の信仰者の群れ、教会が成立する事になります。この二人の弟子も、教会の群れに加わる事になります。

 

 私たちと神様との間で、最初に歩み寄り、声をかけたのは神様でした。まず神の方から、私たちに近づいてくださる。それは感謝すべき事です。しかし、それだけではない。イエス様は、自分について教えた後に、そのまま立ち去ろうとします。そこで、今度は私たちの方からイエス様に呼び掛ける事が必要になる。信仰の応答です。呼び掛けと応答、この二つがあって、信仰が確かなものになる、イエス様をはっきりとわかるようになる。このようなことを、エマオの物語は語っていると思うのです。

 

 ギリシア語では「主」のことを「キュリオス」といいます。そして、今回の説教題の「キュリアス」は英語で、「好奇心がある」という意味です。「好奇心旺盛な主」。私たちの事になんでも関心を持ち、首を突っ込み、私たちのところに共に来て共に歩み、そして「どうしたのか」と尋ねてくる。そんな身近な存在としての神が描かれています。そのイエス様の好奇心のゆえに、私たちがイエス様への信仰へと近づくきっかけが与えられるのです。

 

 イエス様の興味に答えうる存在である事を感謝しつつ、日々を歩みたいと思います。