1999/6/20 礼拝説教「風が吹く」 ヨハネ3:1-15

 

 

 

 「風」という言葉から、どのようなイメージが沸くでしょうか。暑い夏の夕方に吹くそよ風、高原をわたるさわやかな風、川の流れとともに吹く風、はたまた嵐のような強い風。日本語には雨についての語彙が豊富だと言われますが、風についての語彙もやはり豊かではないかと思われます。そもそも「風」とは何か。辞書で引きますと、定義を見いだすことができます。いわく「空気の運動である」と。なるほど、風は空気の動きとして私たちの肌に感じられます。より詳しく物理学的に説明するとすれば、大気中に含まれる分子、酸素や二酸化炭素、また水やその他の埃などが私たちの肌にぶつかる現象、となるのでしょうか。しかしこれが、私たちの感じる「風」の説明になっているでしょうか。例えば、どこから風は吹いてくるのか。そして風はどこまで吹いていくのか。イエス様は今から二千年前、ニコデモに対して、「風がどこから来てどこへ行くかを知らない」と語ったのですが、今の私たちにもやはりこれは分かっていないことなのです。この「風」というイメージ、今日の聖書の箇所ではどのような意味をもっているのでしょうか。

 

 イエス様が生きていた頃、紀元前後のユダヤ社会においては、宗教的指導者が同時に政治的指導者でもありました。新共同訳聖書では「議員」「最高法院という形で出てきますが、これがちょうど国会に当るような会議を構成していました。彼らは高位の貴族や祭司、また律法に通じた学者たちでありました。この地位には名誉とともに学識が求められていたわけです。ニコデモもこの中の一員であったと記されていますから、やはり優れた学者のひとりであったのでしょう。ニコデモはイエスさまの様子を見て、「この人は神から来たのに違いない」と信じて、イエス様のもとにやってきました。しかし、それは白昼堂々とではなく、夜でした。実はヨハネ福音書においては、ユダヤ人がイエス様に対して迫害を始めるのは5章以降で、福音書の最初の方ではまだ迫害は出てきていないのです。だから、ニコデモが夜にイエス様を訪ねたというのは、ユダヤ人の迫害を避けるというよりも、ニコデモに代表される人間の知識の暗さ、無知を暗示しているといえましょう。

 

 ニコデモはイエス様のしるしを見て、イエス様が神から来た教師であると知っている、と語ります。ところで、今日のところからちょっと前に戻ってみましょう。2章の23節から。過ぎ越し祭の間に、イエス様のしるしを見て多くの人がイエスの名を信じた、とあります。ニコデモもこのうちのひとりだったのかもしれません。ところが、「イエス御自身は彼らを信用されなかった」というのです。新共同訳では「信用する」という言葉になっていますが、原文では単に「信じなかった」です。つまり、多くの人はイエスを信じたのに、イエスはその人達を信じなかった、と。ここに落差があります。これをより具体的に説明したのが3章の前半だといえます。つまり、ニコデモと同じく、多くの人はしるしを見て信じた、という。しかし、実はニコデモのように誤解をしているのだ、と。

 

 イエスとニコデモの対話の中では、「新たに生まれる」ということがキーワードになってきます。水と霊によって生まれねばならない、と。肉から生まれたものは肉のままである、というのです。しかも霊から生まれる者は風のようである、とも。

 

 そもそも、ユダヤ教とはどういう宗教でしょうか。それは旧約聖書に見られるように、「神との契約」を基本としています。すなわちモーセ5書、いわゆる「律法」をもとにした、神と人との契約関係です。この契約の基本はモーセの時代、約束の地カナンへと入っていくその時に与えられた十戒です。以後、レビ記や申命記などに見られるような実際的規定が加えられていきました。これはちょうど憲法にたいする各個の法律のようなもので、時代の要請に応じたごく普通の変化です。ところが大きな違いが生じてきました。つまり律法が聖典としてひとつにまとめられ、しかもそれに変更を加えてはならない、という絶対化がなされたのです。いってみれば新しい法律がつくれなくなったというわけなので、これからの学者たちに残された仕事はというと、とにかく律法を厳格に保持し、必要があればそれに解釈を加える、ということだけです。この聖典化以来、ユダヤ教はある時代にできた律法によって今後ずっと規定される宗教へと変化していったのです。言い方を変えれば、過去の契約によって未来までが規定されている、ということになります。なにしろ、人間界で起こるあらゆることはすでに律法に示されている、というのですから。

 

 このような考え方に染まっているニコデモに対して、イエス様は「霊から生まれた者は、どこから来て、どこへ行くか知らない」と説明しました。これはニコデモにとっては大いにカルチャーショックであったに違いありません。「人間については、総べて律法で決まっているではないか? わからないなんてことがあろうか?」。ニコデモは、まだイエス様をユダヤ教の教師、ユダヤ教の中の一派として捉えていたのです。今まで自分がもっていた世界観を根底から覆されたニコデモは辛うじて、「どうしてそんなことがありましょうか」と聞き返すのみでした。イエス様の提示した新しい考え方を受け入れることができなかったのです。いままではあらゆることが律法の解釈をすることで良かった。大前提としての律法の存在は、ユダヤ人たるニコデモにとっては疑うことのない人間存在の基礎でした。そこにニコデモの限界があったのです。

 

 私たちは、自分の過去の経験によって現在を判断する、ということを自然に行っています。自分自身の直接体験のみならず、他の人の体験を見たり聞いたり、また書物などを通して触れることで、人間としての経験を増やしていきます。それを重ねていけば、それだけ多くの判断材料を持つことになり、未知のことに対しても対処の可能性が高くなります。とはいえ、私たちはあらゆることを体験することはできません。いくら沢山の経験を重ねたとしても、地球上に何十億といる人々のほんの一部の経験を共有するのみです。つまり、知らないことは山ほど在るし、全てを知り尽くすことは不可能である。あるいはもしかしたら近い将来、全人類の記憶をひとりが所有することができるようになるかもしれません。そうすれば完全? いいえ、まだ不足しています。なぜなら、それは被造物たる人間の経験にすぎないからです。いくら人間の経験を重ねても、神にたどり着くことは出来ない。ちょうど、律法学者たちが律法を追求すればするほど、かえって神様を見失っていってしまったように。神様についてのことは、人間の過去の経験とは全く違ったレベルで知らねばならないことなのです。逆にいえば、人間的な生涯の長さ、知識の多少などは問題ではありません。あらゆる人が、今この時も神のもとに招かれているのです。何のために? 15節「それは、信じるものが皆、人の子によって永遠の命を得るためである」。人間による認識とは違った次元の、新しい世界への視点。それが「永遠の命」というものではないでしょうか。