1999/9/19礼拝説教「この岩の上に」 マタイ16:13-20

 

 本日礼拝後に再び「教会セミナー」がもたれます。ヴォーリス建築事務所から出された試案をもとにして協議のときを持つことになっています。設計図という具体的に、目にみえるものが現れてくると、新しい会堂というものへのイメージも一気にふくらんできます。

 

 会堂建築ということを考えるときに、私がいつも思い出すのは、南山城交換講壇で宇治教会に来られた、当時は田辺地の塩伝道所の田中正昭牧師の説教です。覚えておられる方も多いと思いますが、田中先生がある新しく会堂を立てた教会に招かれ、説教をしに行ったそうです。大きな立派な会堂でありましたが、礼拝に来ていた信徒はごく僅かであった、と。会堂建築の過程でさまざまな問題が起こり、教会そのものが疲弊してしまった、ということのようでした。

 

 教会とは、もとより建物を指すわけではありません。最近はホテルにも立派なチャペルがつくられ、結婚式専用の教会堂などもあったりしますが、それはあくまで「教会風」であります。いや、「教会の建物風」と言った方がより正確でしょう。それは外見および内装がいわゆる教会で使っている建物と同じ、というだけであって、そこには信徒がいないからです。信徒こそ、教会であります。そもそも初代教会には自前の建物はなく、信徒の家や、あるいはユダヤ教のシナゴーグを使っていたわけです。さらに迫害の時代には、洞窟や地下室も用いられたようですが、それは自前の「会堂」とはとてもいえないものでした。それでも人々は安息日に集い、共に祈り、讃美の声を上げ続けていたのでした。宇治教会も最初期、この会堂が与えられる前には、このような初期教会と似た姿をとっていました。公共の場所を借りたり、信徒の家を利用したり。場所を求めて転々とすることもありました。それでも、当時の週報から浮かび上がってくる熱心さは感動的ですらあります。

 

 聖書では、「教会」という言葉は何度も出てきますが、福音書ではマタイに2ヶ所出てくるだけであります。今日の16章と、もう一つは18章ですが、これらは「教会」という組織を前提しているので、比較的後の時代のキリスト教社会を反映していると考えられています。16章では、シモン・ぺテロとの対話のなかで出てきます。「あなたはぺトロ。私はこの岩の上にわたしの教会を立てる。…わたしはあなたに天国の鍵を授ける。」この部分は特にカトリック教会において、ぺテロに対して教会の権威が与えられたことの根拠、初代の教皇としてのぺテロの立場を示すものとして取り上げられています。さらにはそのぺテロの後継者であるローマ教皇の正当性を支える聖句でもあります。バチカンにあるカトリックの総本山ともいえる聖堂はサン・ピエトロ、つまりイタリア語読みで「聖ぺテロ」に捧げられています。

 

 ところでこのような教会の礎となるべく命ぜられたぺテロとはどのような人物であったのでしょうか。そもそもの名前はシモン・バルヨナ、つまり「ヨナの子であるシモン」でした。今日の御言葉にあるように、イエスから「ペトロ」、つまりギリシア語で「岩」というあだ名をあたえられました。「この岩の上に教会を立てる」と聞くと、しっかりした岩盤の上に教会が立っているようなイメージを抱くことができます。それだけでも教会に連なることの安心感を象徴しているように感じられます。

 

 しかし、福音書のほかの部分ではぺテロはどのように描かれているでしょうか。たしかに弟子たちのリーダーとなる場面もあります。が、湖の上をイエスに招かれて歩きながらも、恐くなって溺れそうになったのも同じぺテロでした。イエスの逮捕においては他の弟子たちと共にぺテロも逃げ出しました。あとから戻ってきたものの、イエスの予言通りにイエスを3回否定したのもぺテロでした。彼はそのために「激しく泣いた」と記されています。このようなぺテロの、どこが「岩」なのでしょう。岩どころか、もろく崩れやすい砂の塊のようにすら思えます。イエスの与えた「ぺテロ、岩」という名はむしろ皮肉のように見えてきます。このようなぺテロの上に立つ教会とは先ほどとは逆に、ずいぶん頼りないものにみえてきます。もしかすると私たちは、砂の上に教会を建てているあの愚かな人たちの仲間なのでしょうか。

 

 しかし、そうではありません。確かにぺテロは弱い人間でした。しかしイエスの復活の後、目覚ましい活動を展開していることは使徒言行録に明らかです。復活のイエスに与ることで、ぺテロは新しい力を得、真に「岩」となることができたのです。キリストの働きによって、弱き人間が岩とされ、教会の堅固な礎となることができるのです。その上に立つ教会こそが、世の荒波を乗り越えることができましょう。

 

 いや、「その上に立つ」ということは正しくないでしょう。なぜなら、弱き人間の集合体こそが教会であるからです。私たちが教会の礎であり、その上に建物が建っているわけです。風によって雨によって教会が揺さぶれられるかどうかは私たちによって決まります。互いの思いを出し合い、「群れ」としての思いを一つにまとめあげていく作業がセミナーです。それは決して楽なことではありません。時間もかかることです。しかし安易に与えられたものは、また安易に使われ、安易に崩壊します。困難を通じて作り上げられたものはそうではありません。むしろ、思いを出し合うこと、それこそが教会を立てることではないか、と思えます。その意味で「教会」が立ったとき、会堂もまた出来ているに違いありません。そのような会堂こそもっとも祝福されたものとして、長く用い続けられることになるでしょう。

 

 わたしたち独り一人の手は小さいのですが、キリストにつながることによって一つの大きな手、大きな岩となることができます。主イエスはまことのブドウの木、私たちはその枝であります。キリストよりの恵みを受けつつ、個人の思いを超えたところにある神のみ旨を求めて祈り、また自らを励ましつつ、新しい会堂を見つめていきましょう。