1999/11/28 礼拝説教「奮い立て、奮い立て」イザヤ52:1-10

 

 

 

 私が好きなことのひとつに、朝の散歩があります。といっても、日常的にはなかなかできませんし、そもそも私は町中に住んでいますから散歩の楽しみもやはり少なくなります。で、そのような散歩は旅行に行った時によく楽しんでいます。団体旅行で行った時でも、朝食前の時間に近所を歩きまわってみるのはなかなか楽しいもので、昼間は見えないものが目に入ってきたりします。フィンランドにいる時分も同様にしてまして、演奏旅行にいった先、早朝に町を歩き回るということをしていました。ある時はちょうどサマータイムに変わる日で、町中の時計はまだ1時間遅れのものがあったりしました。またある時は冬で、ふと町中の温度計を見るとマイナス23度だったりしたこともありました。早朝の街を歩き回ることは数々の発見があるものです。

 

 先週、私は教会を失礼して、広島に行っておりました。私の最大の趣味である合唱の全日本コンクールがありまして、それに出場するために土曜日から泊りがけで行っておりました。日曜日の朝、朝食後、練習開始までに時間があったので、少し町中を歩いてみました。私にとっては高1の時以来、13年振りの広島訪問でした。高1の時は親に「行ってこい!」といわれ、三重県から日帰りでいったもので、印象に残っているのは宮島の鹿と紅葉まんじゅうとしゃもじというありさまです。今回は、平和公園を北から下がるコースを取りました。すなわち、まず原爆ドーム、それから平和の鐘、平和祈念像、原爆資料館という道順です。

 

 まず最初に原爆ドームを見ます。もちろん中には入れないので、外側からになります。ぐるっと一周すると、壊れ方に南北で差があるのに気がつきます。私の印象では、南側の方が崩れ方が大きいように思います。それから、川の方から全体を眺めます。今、崩壊した姿からでも、その建築の優美さが伺われます。内部の柱につけられた装飾、玄関の形。まさに当時の建築技術の粋を集めたといっても過言ではないでしょう。しかし同時に、建物の周囲に崩れ落ちた壁の破片。ねじ曲がった鉄筋。原爆の威力を感じさせずにはおりません。

 

 ここで私はふと気がつきました。私は今、「原爆ドーム」というものを見ている。そしてそれを通じて、原爆の威力を感じている。そして人間の愚かさを感じている。しかし、それだけなのか。これは当時は博物館ではなかった。展示場でもなかった。これは一つの「職場」であったのだ、と。その時、私の目には、その瞬間にここで働く人たちの姿が浮かんできました。そう、ここにも人間がいたのだ。そして、その人たちの命を一瞬にして奪ったのだ、と。私は愕然としました。「原爆ドーム」といえば、世界遺産にも指定されるほどのものです。しかし、あの姿、あのイメージ。それは「建築」の姿であり、私は底に「人間」を見ていなかったのだ、と。「形」のみを見て、納得していた。その自分に気がついたのです。その時、かたわらにあった「殉職碑」が眼に入りました。そう、やはりここにも「人」がいたのだ。残された「ドーム」というかたちに眼を奪われ、真に見るべきものを見失っていたのだ、と。

 

 今年の6月には、私は学会で長崎に行っていました。奇しくも、1年のうちに長崎・広島の両被爆地を訪れたことになったのです。長崎もやはり、高校の修学旅行で訪れて以来でした。こちらでは、近年新しくなった原爆資料館も訪れました。そして、原爆投下地点も。長崎の原爆投下の中心地にはなにがあるか御存じでしょうか。そこは浅いすり鉢状になっていて、中心には黒い角柱が立てられています。広島の経験から、私は思いだしました。そう、ここにも「形」がある、と。そして「形」しかない、と。もちろん、現地の人たちにとっては、あまりに生々しいものは堪え難いことでしょう。しかし、外から来る人たちにとってはどうか。私も6月の長崎では、それほどの感慨を抱いていなかったのが本心です。

 

 「人間の不在」は、イエス様の時代に顕著でした。つまり律法主義です。「律法を守らねば救われない」。そこでは律法を守ることが目的となり、救いはむしろ後回し、の感があります。現代の律法は何でしょう。学校でしょうか、仕事でしょうか、家庭でしょうか。本来の目的を忘れ、形を取り繕うために必死になり、かえって悲劇を生み出している。それが現代の病理でもあります。

 

 「人間の姿」。それは神にとって、忘れられないものです。なぜなら、人間は神に似せて作られたものですから。しかしその人間は堕落し、神の名に値するものとは言えなくなりました。旧約聖書においては、民を罰する神の姿があちこちに描かれています。では、神は人間を見捨てたのか。決してそうではない。預言者を通じて、神は救いを語っています。「奮い立て、奮い立て、力をまとえ、シオンよ。」これは口語訳では「醒めよ、醒めよ」と訳されています。ある英語の訳では、awakeと。つまり、「意識を新たにせよ」という意味です。まさにアドベントに相応しい言葉です。教会暦では、アドベントが1年の始まりといえます。つまり「年頭にさいし、思いを新たにせよ」と呼び掛けられています。1節から6節までは、神の言葉としてバビロン捕囚時代の経験を述べています。それは、神の名が侮られた時代でした。しかしここで、預言が示されています。「ただ同然で売られたあなたたちは銀によらずに買い戻される。」私たちは罪に対して、ただ同然で売られています。しかし、銀、すなわち身代金によって買い戻されることはないと言われます。身の代金どころか、まさに無料で贖われたのです。それは神の子を与えられるという、信じられないような栄誉によってでした。「見よ、ここにいる」という神を、救い主を通して知ることになるのです。

 

 それに対して、7節以降は預言者の言葉です。「良い知らせ」、平和の知らせが伝えられます。キリスト教では、これをイエス・キリストの福音と結び付けました。しかし、それは単なる旧約からの借用を越え、普遍的な救いを告げ知らせています。「皆共に喜び歌う」。この「皆」には、わたしたちも含まれています。すべての人に告げ知らされた救い、それはもちろん、わたしたち一人一人にも知らされているものです。

 

 私たちが、救われるために何かをしなければならないのではない。すでに救いは神によって示されている。私たちは、それを受け入れ、信じることが求められている。このアドベントの期間、私たちの信仰を改めてみ直す機会としてもちたいと思います。