1995/7/16 日曜説教 「私が選んだ」John 15:16
(前置き)説教とは何なのか、まだまだ答えが見つけられないのですが、こうして実際の
場が与えられる事に感謝します。
「お」がつくと、一般にはよい意味、格が上がります。ところが、「お」がつくと格が下
がるものが世の中に二つあると。それは「おにぎり」と「御説教」です。せめて格は下が
らないように努力したいと思います。
(選びとは)聖書には何ヶ所も、「選び」がでてきます。主に旧約にでてくる「選ばれた
民」とはご承知のようにイスラエルを指しています。「選ばれること」、そのこと自体は
悪いことではなく、むしろ誇ってもよいことでしょう。しかし、ユダヤ人達は誤った方向
に進んでしまいました。すなわち彼らは自分達が神に「選ばれた」ことを重視するあまり、
他の民族を見下すようになってしまいました。
イエスも、神に「選ばれる」ことを語ります。しかし、それはあのユダヤ人達のようにな
れ、ということではありません。イエスの語る「選び」とはどのようなものでしょうか。
「あなたがたが私を選んだのではない。わたしがあなたがたを選んだ。」この部分は、弟
子の任命として描かれています。イエスがユダヤの役人達の手に渡される直前、長い告別
説教での一節です。
(選びの絶対性)日本語の聖書ではわからないのですが、新約聖書の原語であるギリシア
語では、主語にあたる代名詞は普通は省略されます。ところが、この16節では「あなた
がたが」「わたしが」と明示されています。このような場合には、主語が強調されている
のです。つまり、『私を選んだのはあなたたちなのではない。私こそがあなたがたをえら
んだのである』というふうな意味合いが含まれているのです。人間の側からでなく、神の
側からの一方的な選び。人間の行為や意思の介入する余地はないのです。それは「神の時」
に依っているのです。
私たちは不思議な力によって神の元に招かれています。私の場合もそうでした。私がキリ
スト教に触れるようになったのは、まったくの偶然でした。中学1年のころ、家に短波の
ラジオがありました。ご多分にもれず機械が好きな子供でしたから、早速いじくっていま
した。たまたまある雑誌に海外の日本語放送局が紹介されていたので、それを聞いてみよ
う、という事になりました。それで一番最初に聞いたのが、「太平洋の声」というキリス
ト教の放送局だったのです。それがまた、宗教放送局とはおもえないような楽しいもので
あったので、それに「はまって」いました。そのうちになんとなく「教会に言ってみよう
か」という気になり、中1のクリスマスに初めて教会の敷居をまたいだのでした。偶然と
言ってしまえばそれまでですが、いま思い返せば不思議な摂理のようなものを感じます。
そのころは、まさか自分がこのように講壇に立とうとは思いもしませんでしたから。
「選び」ー招きといったほうがよいでしょうかーは、「神の時」にしたがって行われるも
のであり、まったく私たちの予想を越えたものです。
もう一つ、これも個人的な話で恐縮ですが、私が中学二年生のころでしたでしょうか。こ
の教会にもある「こころの友」という新聞をみていました。そこには、若いときに洗礼を
うけたが、その後教会に行かなくなった。しかし、ふとしたことでまた出席するようにな
り、以前よりも深い信仰を与えられた、という証しが載っていました。それを読んだ私は、
まだ洗礼も考えていないころでしたが、「こんな風な経験を自分もすれば、もっと神様の
ことがよくわかるかもな」と思っていたのです。ところが、神様は何と不思議なことをな
さることか。私は京都に来てから教会には行かなくなってしまいました。けっして存在を
忘れてしまったわけではありませんでしたが、礼拝に出席することがなくなりました。そ
して4年の月日がすぎ、再び教会に足を運ぶことになったのです。そして、信仰が新たに
され、今このようにして立つまでに至ったのです。
神様に対して否定的な願いまでかなえる神様。これはかなわないな、と思います。
(選ばれたものの使命)「選び出されたもの達」は、どのようになるのでしょうか。16
節の後半には、「あなたがたが出かけていって実を結ぶ」ことが望まれています。この場
合、「実を結ぶ」とは新しく神に仕える者を生みだす、ということでしょう。律法学者や
パリサイ派の人々は、自分達が律法を守ること、すなわち信仰を守ることには熱心でした
が、神について人々に広く告げ知らせることはありませんでした。彼らの信仰はいつのま
にか一人よがりなものになってしまっていたのです。彼らがイエスを恐れ、排除しようと
したのは、自分達の既得権益が損なわれかねない、ということもあったのでしょう。「選
ばれた民」であるイスラエルは、自らを「選び出して」しまった、すなわち神のメッセー
ジから離れていく方向へと進んでいってしまったのです。
イエスは従来のユダヤ教を厳しく批判しました。私たちはクリスチャンであるから、まこ
との神を礼拝しているから、イエスのユダヤ教批判は私たちには関係ない、と思いがちで
す。しかし、ユダヤ教徒達、律法学者・パリサイ人たちのどのような点を批判しているの
か、ということを考えてみると、私たちもまた同じ批判を受けなければならない存在であ
る、ということがわかります。イスラエルは神に選ばれた、「神を宣べ伝えるべき存在」
であるにもかかわらず、内に閉じこもり、自らの優位性を誇る排他的な集団になってしま
いました。イエスはこの点をも批判しているのです。神はすべての人を愛している方であ
る。なのにあなたがたは神の愛を独占してしまっている。神の広い愛は、すべての人に伝
えられてこそ意味があるのだ、と。
ところで、「キリスト者には二つの種類がある」と、ある人が書いています。一つは祭司
タイプ、もう一つは子供タイプです。祭司タイプの人は、教会に進んで出席し、人々のた
めに積極的に奉仕する人のこと。逆に子供タイプとは、与えられるのを待ち、自分からは
動かない人のことだそうです。「日本には子供タイプのクリスチャンしか居ないから、教
会が発展するはずがない」と主張していた人がいました。この事に対し、皆さんはどのよ
うにお考えでしょうか。
イエスが弟子を選んだのは、ヨハネのこの箇所によれば「出かけていって実を結び」、
「その実が残るように」と考えたからです。これは、先の「祭司タイプ」のクリスチャン
になることを求めているのではないでしょうか。これは他の福音書にもみられることです。
有名なものでは、マタイ福音書の末尾、いわゆる「大宣教命令」があります。複数の福音
書にこのような宣教への志向がみられることは、これらの言葉を福音書記者が独自に設定
したわけではなく、イエスが実際に語った可能性が高いことを意味します。
(宣教のわざ)「宣教」というと、宣教大会や路傍伝道のようなたいそれたものを思い浮
かべますが、決してそれだけではありません。個人的な伝道は、より重要なものであると
考えます。それは、「キリスト教」を前面に出す必要すらないのです。その人の生活態度
に自然とあらわれてくるもの、それも立派な伝道だと思います。私は以前、クリスチャン
でもない友人に、「教会にいくと君みたいになんの?」と聞かれたことがあります。その
ときは、質問の意外さについ「そんなことないけど」と言ってしまいましたが。 ですが、
改めて考えてみると、その様に「にじみ出る」ようなものはあるのでしょう。それは、本
人も深く意識していない分、わざとらしさがありません。それだけ他人も受け入れやすく
なるのではないでしょうか。福音を前面に出して伝道することはもちろん大切ですが、そ
のようなさり気ない伝え方も大切だと思います。その意味でも、私たち一人一人の信仰を
磨く必要があるのです。日々の生活そのものが伝道である、といってもよいでしょう。
(締め)福音の宣べ伝えは、イエスさまから私たちにゆだねられた重要な使命です。「選
ばれたもの」として、私たちはこの神への務めを喜んで果たして行きたいと思います。し
かし、私たちの力は弱いものです。そのための力をどうか神様が与えてくださるように、
私たち一人一人にふさわしい宣教のあり方を教えていただくように、神様にお祈りしましょう。