1995/10/8 礼拝説教 「規制緩和」 2Cor. 4:16-18
ここ2、3年、日本の経済界では「規制緩和」があちこちで叫ばれています。新聞を見
ても、この言葉がでてこない日はないくらいでしょう。「規制緩和」とは簡単に申します
と、今の日本では経済活動をするのに政府によって許可を得たりしなければならないもの
が多すぎる。その手続きも面倒で、時間がかかりすぎる。もっと自由にするべきだ、とい
うことです。経済における「規制緩和」の内容については、賛否両論あるようで、また私
は経済については門外漢ですので論評は致しません。
ですが、この「規制緩和」という言葉、これはキリスト教の世界にもあてはまる言葉で
はないか、と思うのです。この言葉を通してキリスト教の信仰を見つめてみたい、と思い
ます。
(罪からの自由)
まず、「規制」が「ゆるめられる」ということについて、聖書はどう語っているでしょ
うか。私たち人間にかけられた「規制」とは何でしょうか。それは「罪」です。私たちは、
よいことをしたい、人に喜ばれることをしたい、人のためになることをしたい、いつも喜
んでいたい、と願います。しかし私たちはその意に反して悪を行ってしまいます。争いを
産み出します。嘆きの中にいます。
それらはすべて、「罪」による「規制」です。罪に縛られているのです。「罪を犯すも
のは誰でも罪の奴隷である」とヨハネ福音書8:34にあります。「規制」なら許可を求める
ことで意思を通すこともできましょう。しかし聖書は罪の「奴隷」であると断言していま
す。従わざるをえない、他に選択の余地はないのです。
そのような状態にある悲惨な人間。その「規制」を解放するために来られたのがイエス・
キリストなのです。罪の力から私たちを解放するために、罪なき独り子がこの世に来られ、
私たちと苦しみを共にし、更には私たちがうけるべき十字架の上で私たちの身代わりとし
て死んでくださった。そのキリストは復活し、「死」に打ち勝ちました。「死」は「罪」
からくる報酬です。キリストは罪に打ち勝ったのです。そのキリストを信ずる時に、私た
ちも罪から解放された「新しいもの」となることができるのです。聖書は語ります。「キ
リストと結ばれるものはだれでも、新しく創造されたものなのです。古いものは過ぎ去り、
新しいものが生じた。」(2コリ5:17) 「罪」から解放され、新しい命を得る。「自分は
罪に対して死んでいるが、キリスト・イエスに結ばれて、神にたいして生きている
(Rom6.11)」のです。これが神による「規制緩和」、いえ「規制の撤廃」のもっとも大事
な点です。
(律法からの解放)
更に、イエスのメッセージは当時の宗教界を揺るがすものでした。聖書を紐解く人は誰
でも、イエスの行動の「過激さ」に驚かれることでしょう。神殿の境内にある露店はひっ
くり返すわ、安息日は守らないわ、いわゆる「罪人」たちと仲良くするわ。まさに当時の
宗教指導者たちに訴えられて当然だ、と思わされます。しかし、イエスの行動はためにす
るものではありませんでした。すなわち、「律法」からの解放を訴えたのです。新・旧約
聖書を紐解けば、あちらこちらに「律法」が現れます。「律法」そのものは悪ではありま
せんが、いつのまにか熱心さの余りに「律法を守るために人がある」ようになってしまい
ました。まさに律法による「規制」です。しかも、律法が神から与えられてものであるが
ゆえに、これも絶対的なものになっていました。
私の後輩が、こんな質問をしてきました。「私がもし古代ユダヤの世界に生まれてきて
いたら、生きてへんかったやろなあ。」 何故かと聞くと、「私、土曜日生まれやもん。」
ということでした。安息日に働いてはいけない、とはよく知られた律法ですが、これは当
時の人にとっては笑い話ではすまなかったことでしょう。実際のところはどうであったか
わかりませんが、冗談ともいいきれない問題ではないでしょうか。
イエスはまさに当時において「規制緩和」を行ったのです。律法の名のもとに虐げられ
ていた人々に光をもたらしました。数多くの人為的な規制によって見えなくされていた律
法の持つ本来の意味を回復したのです。律法そのものにとっても幸いなことであったとい
えましょう。
(自分自身からの解放)
さて、このように「規制緩和」について考えてきました。神様によって「罪」「律法」
のくびきから解放されたことを聖書は語っています。私たちは自由になったのです。です
が、実際はどうでしょうか。私たちは本当に自由になっていますか。私たちは解放された
にもかかわらず、自分で自分に「規制」をしていないでしょうか。
現実の生活の上では、様々な問題が起こります。そのなかで、私たちはいつのまにか
「この世の思い」に囚われてしまいます。「教会は教会、生活は生活」という考えに陥り
がちです。「自分はクリスチャンである」と信仰を言い表すことを躊躇したことはないで
しょうか。「ここでは信仰を公にすると不利だから」と考えたことはないでしょうか。な
ぜ信仰を言い表すことに後ろめたさを感じるのでしょうか。「福音のためにはどんなこと
でもします」(1Cor. 9:23)と思ったあの思いはどこにいったのでしょうか。「罪」から解
放されて自由になったはずの私たちは、今度は知らず知らず自分自身に規制をしてしまっ
ているのです。
このような規制から自分を解放することが必要です。しかし、それは私たちの内からで
てくるものでありながら、私たちには十分にコントロールすることができないのです。ど
うすればよいのでしょうか?
私たちはここで再び神様の言葉を聞きます。「人間にはできないことも、神にはでき
る。」(Lk.18:27) また、こうもあります。「あなたがたはこの世で苦難がある。しかし、
勇気を出しなさい。私は既に世に勝っている」(Jn.16:33)。 私たちはイエス・キリスト
によって救われています。その事実の故に、私たちも「世に勝っている」のです。なんの
恐れることがありましょうか。「かみともにいます」という救いの確信こそ、自分自身か
らの解放の手だてなのです。 私たちに「神がともにいてくださる」という思いがあって
こそ、「自分を解き放つことのできない弱い私を哀れんでください。打ち勝つ力を与えて
ください。」という祈りが生まれてきます。そして、神はそのような祈りを聞き届け、私
たちのために力を与えてくださる方なのです。
「信仰をもって生きているか自分を反省し、自分を吟味しなさい」とパウロは2コリ13:5
で語ります。私たちはどこを見て歩めばよいのでしょうか。その答えが今日の聖句です。
「私たちは見えるものではなく、見えないものに目を注ぎます。見えるものは過ぎ去りま
すが、見えないものは永遠に存続するからです。」 見えるものに心乱されることなく、
永遠に存続する神への信頼とともに日々歩みたいと思います。