1995/12/31 礼拝説教 「次の日」 1Jn. 2:17
クリスマスを先週にお祝いし、今日は降誕節第1主日です。今年は大晦日にあたっていて
、みなさん忙しいことと思います。今もきっと、帰ってからあれもしなければ、これもしな
ければという思いがあることでしょう。メッセージの時は、今日の予定をたてる時間でしょ
うか。しかし、この時こそ、僅かな時間です、聖書のメッセージに耳を傾けましょう。それ
は私たちつくられたものがまずなすべきことです。
一足早い話ですが、日本の文化では「お正月」を大変大事にします。それは俳句にもみら
れるところで、季語には「初春」つまり正月が四季とは別に規定されています。いわゆる「
ハレ」の日として、尊重されています。そのとばっちり、というと言葉が悪いのですが、1
2月25日を過ぎると、どうしても「クリスマス」は影が薄くなります。良い例は商店でし
ょう。「クリスマスセール」は、25日を過ぎると商品はそのままで「年末セール」に衣が
えをします。まさに今日のみ言葉、「世も世に在る欲も過ぎ去って行きます」の通りです。
日本の一般的な考えでは、クリスマスに向けて準備をし、そして24あるいは25日で頂点
を迎える。そういう感覚でないでしょうか。 これは教会も同じことでしょう。アドベント
に多くの準備を重ね、24日・25日の礼拝を頂点とする。もちろん、このような取り組み
は大切ですし、必要なことです。ただ、大事なことを見失っていなかったか、と思い返すの
です。
今年のクリスマスは、私にとって初めての宇治教会でのクリスマスでした。聖歌隊や独唱
、教会学校のクリスマス、はては祝会の人形劇まで、いろいろなことを手伝わせていただき
ました。忙しさの中で、私はいつのまにか、クリスマスの意味を見失いつつありました。さ
まざまな行事をこなすことに目を奪われ、行事をおこなうことそのものに満足を見出してい
たのです。
今日のみ言葉は、15節から17節でひと纏まりと考えられています。15節には「世を
愛するものの内には神への愛は無い」とあります。マタイ福音書6章24節の「あなたがた
は神と富とに仕えることはできない」を思わせる言葉です。つまり、世を愛している者は神
を愛していない、というのです。私は神を讃美するためのクリスマスではなく、この世的な
クリスマスというものに囚われていたのではないか。さらに16節、「生活のおごり」とい
う言葉があります。これは口語訳では「持ち物の誇り」、新改訳では「暮らし向きの自慢」
と訳されています。自分の持ち物や、生活の程度についての自慢はむなしい、というところ
です。私はここに、単に「もの」についてだけでなく、世の自分に満足している私自身の姿
をみました。クリスマスとは何かを見失い、目の前の行事をこなすことに満足を見出してい
る自分。行事を「上手に」行うことに気を取られていた自分。目の前の行事は、時がくれば
終わります。17節にある通り、「世も世に在る欲も過ぎ去って行きます」。しかし、その
あとに残るものはなにか。
私たちの心が本当に神に向かっているか。それは、「次の日」にわかるのでしょう。クリ
スマスの次の日、「世と世にある欲は過ぎ去って行きます」。まさにそのとおりでしょう。
この世的な行事はすべておわります。そのあとにはなにがあるのでしょう。ケーキでしょう
か、プレゼントでしょうか。確かに形としては残るかもしれません。しかしそれらはむなし
いもの。いずれなくなり、忘れ去られてしまいます。そのような多くのものの中で残される
ものはなにか。それは「神の言葉」であると聖書は語ります。そしてその神の言葉を行う人
が、永遠に生きると告げられます。
17節後半、「神のみ心を行う人は永遠に生き続けます」。み言葉は語ります。クリスマ
スとは、永遠に続くもの、終わることのないものへの序曲であると。私たちにとって、
クリスマスとは頂点です。そしてそれは同時に永遠への始まりであるのです。クリスマスに
は終わりはなく、いつも始まりなのです。神が私たち一人一人を愛し、私たち一人一人の
ために救い主をおつかわしになった。このことを思うときいつも、「私たちの出発点」とし
てのクリスマスを見出すのです。
今日の「次の日」、つまり明日はもう新しい年です。でも明日という日を特別に祝うのは
、地球上にいる人みなではありません。あくまでそれは西暦に則ったものであるからです。
身近なところではいわゆる旧暦があります。旧正月と言われるものですね。もともと時の流
れに区分はありません。暦というものに、人類は多大な関心を払ってきました。これまでに
多くの暦が産み出されています。 では、神様はどんなカレンダーを持っているのでしょう
か。そこには私たちがもっているどんな暦とも違った時間が刻まれていることでしょう。イ
エスさまの誕生も刻まれていることでしょう。神様の救いの計画は、人間の暦を超えたとこ
ろで行われています。もちろん日常の生活に私たちの暦は欠かせません。しかしその視点に
囚われ、神を見失っていないか。「神様の暦」に思いを馳せて日々を送りたいと思います。